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◇聖書箇所: エレミヤ書 50章1-20節◇(11月29日) 「イスラエルの民もユダの民も、ともにやって来る。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、主を尋ね求める。彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて言う。『さあ、私たちは主に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって』と。」…エレミヤ50:4-5 49章までに書かれていたように、南王国ユダとイスラエル周辺諸国はバビロンによって滅ぼされましたが、エレミヤ書50-51章には、そのバビロンもまた滅ぼされるということを、主がエレミヤに語られたとあります。具体的には、北からの国であるペルシャが彼らのところに攻め上り、その地を荒れ果てさせることによって実現します。そのように、諸国の懲らしめの「道具」として主が用いられたバビロンも、高慢や偶像礼拝などのゆえに罰せられ、滅ぼされてしまうのです(18節)。そして、神の民は、彼らによる囚われから解放されるのです(19節)。神の民の悔い改めの預言は、4-5節に書かれています。アッシリアに滅ぼされた北王国イスラエルも、バビロンに滅ぼされた南王国ユダも一緒になって、一つの主の民として主の前に涙を流して悔い改め、主を尋ね求めるようになるというのです。主がアブラハムとの間に結ばれた契約の祝福を思い出し、その主にしっかりとつながる群れとなるというのです。「イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ」」(20節)。主はそのようにも告げられました。イスラエルとユダの民にとって、アッシリアやバビロンに捕らえられて国を奪われたことは、大きな痛みと悲しみであったに違いありません。しかしそれらの試練と苦難を通し、再び主のもとに立ち返り、主から罪と咎を赦された者、主の契約の祝福のうちを歩む群れへと回復されていくのです。そしてそれは、キリストの血による新しい契約の祝福として、私たちにも与えられている救い、赦し、回復であり、すべての民が受けるべきものとして主が備えられているのです。私たちのうちにある罪と咎が、キリストにあって、主の目に見えなくされていることを覚えて感謝し、なおも主を尋ね求め続けたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 49章23-39節◇(11月28日) 「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。-主のことば-そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」…エレミヤ49:31 49章の後半は、ダマスコ、ケダルとハツォル、そしてエラムに対する主のことばです。ダマスコはイスラエルと国境を接するアラム(現シリア)の首都であり、イスラエルとの間には緊張関係がありましたが、時に同盟が結ばれることもありました。「誉れの町、喜びの町」と主に呼ばれていたそのダマスコは、町の城壁に火がつけられ、王の宮殿は焼け落ちてしまうのです。ケダルとハツォルは砂漠の遊牧民族です。29節にあるとおり、彼らの天幕、羊の群れ、幕屋、らくだなどの所有物はすべて、主が遣わすバビロンによって奪い取られ、持ち去られるのです。彼らはそのようなことは予期せず、安心して生活していましたが、主がそこに災難をもたらされるので、ジャッカルの住みかとなってしまうのです。エラムはバビロンの東にあって栄えた国でした。しかし彼らもまた、主が天の四隅から四方の風を吹き付けさせるので、人々は散らされ、敵の剣によって滅びてしまうのです。彼らは自らの力を誇り、敵との戦いに勝利していましたが、その弓、すなわち高慢な心は、主によってへし折られてしまうのです(35節)。そのように、安心して穏やかに暮らしていても、自分の力や持てるものに拠り頼んでも、まことの神を認め、畏れようとしない国、そこに住む者たちは、主に退けられてしまうのだ、ということをあらためて教えられます。そしてそれは、私たちの住むこの日本も例外ではありません。人々は暮らし向きを良くすることを願い、努力とがんばりで生きていますが、この地上の国はすべて、やがて滅びるのです。終わりの日が必ず来るのです。「安んじて住む穏やかな国」…主が備えておられるその国、住まいは、天にあるのであって、すべての造られた者は、そこに入ることができるのです。天に国籍を持つ神の民とされていることを感謝しつつ、まことの神である主、全世界の救い主であるキリストを伝えたいと思います。 地上での荒野の旅路が守られますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 49章1-22節◇(11月27日) 「その後、わたしはアンモン人を回復させる。-主のことば。」…エレミヤ49:6 49章も主がイスラエルの周辺諸国に語られたことばです。前半はアモン人へのことば(1-6節)と、エドム人へのメッセージ(7-22節)です。アモン人の領土はイスラエルの東側、死海の北東に位置し、ガド族の割り当て地に接していたために、しばしば両者の間で争いが起こりました。そのアラムの国の首都ラバ(現在のアンマン)は栄え、アラム人たちは、水が豊富な自分たちの地を誇り、財宝に拠り頼み、またミルコムという偶像の神を拝んでいました。彼らはイスラエルの神を認めず、神の民を侮っていたのです。しかし、主が荒らす者を送られるのでその戦いに破れ、町々は荒れ果てた廃墟となってしまうのです。一方、エドム人はエサウの子孫であり、イスラエルの民とはいわば兄弟の関係にありましたが、彼らとの間にもしばしば争いが起こりました。彼らは自分たちの知恵を誇り(7節)、諸国を脅かそうとし、高慢な心を持つ者たちでした(16節)。しかし、その彼らの国もまた、主によってもたらされるわざわいによって、踏みにじられ、丸裸にされるのです。廃墟となったそこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、打ち傷を見て嘲笑するのです(17節)。そのようなさばきが語られる中、6節に「その後、わたしはアンモン人を回復させる」とあることに心が留まります。48章47節にも「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる」と書かれています。主は、そこに住む者たちを根絶やしにされるのではないのです。彼らがイスラエルの神を認め、偶像礼拝を悔い改め、唯一まことの神であるご自身に立ち返るよう願っておられるのです。「実に、私たちは滅びうせなかった。主のあわれみが尽きないからだ」(哀3:22)。罪の中にあった私たちもまた、主の恵みとあわれみにより、キリストにあって贖われ、神の民とされました。そのことに感謝するとともに、主がなおも、残りの人々を救い出そうとしておられることを覚え、とりなして祈り、愛とあわれみに満ちた主の救いを、人々に証ししていきたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 48章26-47節◇(11月26日) 「われわれはモアブの高ぶりを、-彼は実に高ぶる者-その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。」…エレミヤ48:29 モアブについて語られた主のことばの後半です。26節と42節には「主に対して高ぶった」とあり、29節ではさらに厳しくそのことが非難されています。27節には「イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか」とありますが、モアブの民は、イスラエルを見下し、嘲笑し、自分たちのほうが優れている、力があると高ぶり、イスラエルの神を認めず、自分たちの守護神ケモシュを拝んで頼みとする、実に不遜な者たちであったのです。しかし、そのようなモアブに対して主は憤り、バビロンの軍勢を送って襲わせるので、モアブの果樹園からは喜びと楽しみが取り去られ、その地は荒れ果て、激しく打ちのめされて民が泣き叫ぶこととなり、今度は彼らが、周りの国々の民から笑いものとされるのです(39節)。高慢なあり方を戒めるみことばは聖書の中に多く見られます。「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」(箴16:18)。「あなたがたが誇っているのは、良くないことです」(1コリ5:6a)。「ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです」(ヤコ4:16)。高慢とは、そのように、自分の能力や知識、富や財産、地位や立場などを誇ることです。また、自分は正しいと正当化し、他者を一方的に否定したり見下したりすることです。そして何よりも、神を認めず、畏れず、自分の力だけに拠り頼み、自分の欲求を満たすことを第一として生きることです。しかし、そのような不遜な者、罪深い者は、さまざまなことでつまずき、恥を見るのです。「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。どんなときにもへりくだり、主を畏れ、主に拠り頼んで歩む者でありたいと思います。 砕かれた心を持つ者とされますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 48章1-25節◇(11月25日) 「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」…エレミヤ48:7 48章はモアブに対しての主のことばです。モアブの領土は死海の東側にありますが、南北にある2つの川にも囲まれた有利な地形のゆえ、アッシリアなどの侵略からも守られ、平和な国家として繁栄していました。しかし、1-5節にあるように、そこにある町々は荒らされ、辱められ、打ちのめされ、破滅の叫びを上げるようになるのです。7節には「自分の作ったもの」とありますが、「砦」という別訳もあります。それはつまり、敵の攻撃から自分たちの身を守るために立てこもる、城のような建物です。また、同じ7節にある「ケモシュ」とは、モアブ人たちがあがめ、仕えていた、偶像の神の名前です。彼らは、それらを自分たちの手で作り上げ、さらには財宝を抱えて、これさえあれば敵に襲われても大丈夫…と、人間的、地上的なものに信頼していました。しかし、主が告げられたように、それらは結局、頼りにはならないのです。自分たちを守ってはくれないのです。守護神であるはずのケモシュは、滑稽なことに、民とともに「捕囚」となって、敵地に連行されてしまうのです。「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら」(詩18:2)。「私の避け所の岩となってください。いつでもそこに入れるように。あなたは私の救いを定められました。あなたは私の巌 私の砦なのです」(詩71:3)。人間の手によって作り上げる砦や偶像、蓄えた富は、私たちの助けとなるように思えても、それはあくまで一時的であって、永続的に私たちのことを守り、支えてはくれません。それらに信頼しても空しいのです。イスラエルの神である主こそ、私たちの砦であって、さまざまな戦いの中に置かれても、その主に身を避ける者は、決して打ち負かされることがないのです。そのことを覚え、ただ主に拠り頼む者でありたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 47章◇(11月24日) 「「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸、そこに剣を向けられたのだ。」…エレミヤ47:6-7 エレミヤ書の46-51章にはイスラエル周辺諸国に対する神のさばきが記されています。47章はペリシテ人への主のことばです。ペリシテ人といえば、サムソンがダゴンの神殿を倒壊させて多くのペリシテ人を道連れにしたことや、ダビデに倒された巨人ゴリアテが思い起こされます。彼らは、長い間イスラエルと敵対し、自分たちの剣、つまり戦力を誇ってきた者たちであり、偶像の神ダゴンによる守りを信じていました。しかし、そのペリシテは、主の剣によって断ち滅ぼされてしまうのです。「主は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる」とあるとおり、そのさばきは徹底的になされるのです。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり…」(2節)とあります。主の剣、それは実際には、北からのバビロンの軍勢でした。46章に書かれているエジプトへのさばきと同様に、主はバビロンを用いてペリシテを取り扱われたのです。ペリシテ人たちは、自分たちを襲う敵の背後に、イスラエルの神である主の御手が動かされているのを見ていました。そして、絶え間ないその攻撃、主の剣に対して、「主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め」と、悲鳴を上げたのです。主がなさるみわざ、それは中途半端なものではありません。また、途中で休みを必要とすることもないのです。「主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方はまどろむこともない。見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない」(詩121:3-4)。主はご自身の民の歩みに介入してくださいます。さまざまな敵の手から守ってくださいます。その主の力強い御手は絶えず伸ばされており、その御目は常にご自身が所有する者たちの上に注がれているのです。そのことを覚え、ますますその主に拠り頼む者、主の守りと助けと導きのうちに歩む者でありたいと思います。 主の御手により支えられますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 88篇◇(11月22日) 「しかし私は主よあなたに叫び求めます。 朝明けに私の祈りは御前にあります。」…詩篇88:13 この88篇は、詩篇の中で最も悲哀に満ちた詩と言われています。詩人は試練、苦難の中にあって嘆き悲しみ、深い穴、光のない深い淵に置かれていると感じています。そして詩人は、そこに自分を置いたのは神であると受けとめているのです。6節に「あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に深い淵に」とあるとおりなのです。しかし、なぜそのようにされなければならないのか…祝福をくださるはずの神がなぜ自分を苦しませるのか…。詩人にはそのことがわかりません。理由が見つかりません。そして神も、その答えを与えてはくれないのです。あのヨブの試練、彼の嘆きと戸惑いが思い起こされます。そのような中にあって詩人がしたこと、それは、神を呪って信仰を捨てることではありませんでした。そうではなく、彼は主に向かって叫び求め、祈り続けたのです。「主よ なぜ あなたは私のたましいを退け 私に御顔を隠されるのですか」(14節)。詩人は自分の思いを押し殺さず、率直にそれを神にぶつけています。置かれている状況を、無理やり自分に納得させてはいないのです。「なぜですか!いったいどうなっているんですか!」…。祈りとは、ときに、そのように怒りを神にぶつけることです。しかし、子が父の胸を叩いて感情をあらわにしても、その子が父親から受けいれてもらえるように、神は、私たちの怒りをも受けとめてくれるお方なのです。答えはまだありません。しかし詩人は神に今日も祈り求め、叫び続けるのです。私たちにわかり得ないことは人生の中で山ほどあります。しかし主は、私たちを愛し、あわれみ、贖ってくださったお方、常に真実で正しいお方なのです。その主に信頼して歩み続けるなら、夜明けは必ず来るのです。暗闇に閉ざされている夜のように、嘆きと悲しみの中に私たちが置かれていても、主を待ち望むなら、それは朝明けとともに喜びへと変わるのです(詩30:5)。日々主に祈り、叫び続けたいと思います。 主からの平安と希望がありますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 87篇◇(11月21日) 「歌う者も踊る者も「私の泉はみなあなたにあります」と言う。」…詩篇87:7 この詩篇に出てくる「聖なる山、シオン、神の都」は、すべて、エルサレムを意味しています。そのエルサレムは、神の救いの働きにおいて中心的な役割を果たす、神が選ばれた特別な場所、都なのです。「この都で生まれた」という表現が3度繰り返されています(4,5,6節)。それは、神がご自身の民とされた者はみな、神の都エルサレムで生まれた住民として登録され(6節)、「いのちの書」に名が書き記されるということです。そしてその者たちだけが、やがて来る終わりの日に、「新しいエルサレム」に入ることができるのです(黙21:27)。その神の民とは、ユダヤ人の血筋の者たちだけではありません。4節には、ラハブ(=エジプト、イザ30:7参照)、バビロン、ペリシテとツロ、クシュ(エチオピア、脚注参照)のような他国の民も、エルサレムで生まれた者、すなわち神の民とされると書かれています。しかもそれらは、イスラエルに敵対していた国々です。ここに、異邦人もまた、メシアへの信仰によって救われ、霊的な意味でのアブラハムの子孫とされ、ユダヤの民とともに神の祝福を受けることが暗示されているのです。イザヤも「そこ(主の家の山=エルサレム)にすべての国々が流れて来る」と預言しています(イザ2:2)。その異邦人の救いは、エルサレムにおいて十字架に掛かりよみがえられたキリストの贖いによって実現しました。そして神の民とされた者たちはみな、踊り歌いながら、「私の泉はみなあなたにあります」と、キリストに賛美をささげて告白するのです。その泉とは喜びの泉、希望の泉、いのちの泉です。主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と言われました(ヨハ7:37-38)。キリストにあって私たちが神の民とされていることを感謝し、喜び、さらに多くの人々がその群れに加えられるよう、とりなしたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 45章◇(11月20日) 「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ-主のことば-。しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」…エレミヤ45:5 ネリヤの子バルクは、エレミヤが主から聞いたことばを語ると、それを書物に書き記した人物です。ある時彼は、「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」とつぶやきましたが(2節)、それはおそらく、36章に書かれているように、彼がエレミヤから命じられ、書物に書き記した主のことばを民や首長たちの前で読んだとき、その巻物が王の手によって切り裂かれ、暖炉の火で焼き尽くされ、さらには迫害により、エレミヤとともに身を隠さなければならなくなったという、彼の身に起こった試練のゆえであったのです。すると主は、バルクに対し、わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜くと、エレミヤを通して告げられました(4節)。それは、ユダの国と民に対するさばきのことでしたが、主はバルクに、「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」、すなわち、彼のいのちを守る、と言われたのです(5節)。主はまたバルクに、「自分のために大きなことを求めるのか」と言われました。自分の働きが主に報われるという大きな期待を抱いて巻物を読んだバルクにとって、それが報われずに逆に迫害されるということになったため、失望と悲しみは大きかったのです。しかし、たとえそのような結果であっても、それは確かに主に覚えられており、主はその働きを用いてくださるのです。言うまでもなく主の働きは、私たち自身のものではなく、「自分のために」行うべきではありません。また、大きな成果を性急に求めるべきでもないのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタ25:21)。そのような忠実なしもべとして、神と人々とに仕える者でありたいと思います。 小さな働きを忠実に行うことができますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 44章◇(11月19日) 「エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。」…エレミヤ44:14 ユダの地に留まれとの主の命令に聞き従わず、安定した生活を求めてエジプトへと移り住んだ民の中には、彼らによって強制的に連れて来られたエレミヤもいました。預言者である彼は、エジプトの地においても臆せずに主のことばを民に告げ知らせましたが、それは、彼らの先祖たちがほかの神々に犠牲を供え、その忌み嫌うべきことのゆえに主の怒りを引き起こしたように、同じ過ちを繰り返す彼らもまた、主がもたらされるわざわいである、剣と飢饉と疫病によって罰せられるということでした。すると、それを聞いた民はエレミヤに反論しました。彼らはなんと、「ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ」と言い(17-18節)、剣と飢饉の原因は、自分たちが天の女王に犠牲を供えなかったからだ…と、まったく的外れなことを主張して、自らを正当化したのです。そのように民は、主に対する自分たちの不信仰と不従順の罪を認めようとはしませんでした。しかし主は、彼らを絶ち滅ぼして根絶やしにする、とは言われず、民の中から、たとえわずかであっても、剣を逃れてユダの地に帰る者が起こされる、と告げられたのです(14,28節)。私たちもかつては、まことの神ではない偽りのものに心を寄せ、それに頼って生きていこうとしていた者でした。しかし主は、そんな私たちを滅ぼさず、キリストの贖いによって罪から救い出し、「逃れの者」とされたのです。そしてその救いは、今もまことの神に従わない人々のために備えられているのです。それらの人々が「逃れの者」とされるよう、祈りつつ労する者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 43章◇(11月18日) 「ホシャヤの子アザルヤ、カレアハの子ヨハナン、および高ぶった人たちはみな、エレミヤにこう告げた。「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行ってそこに寄留してはならない』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。」」…エレミヤ43:2 エレミヤが主から告げられたことばを語り終えても、心が頑なで高慢な者たちはみな、そのことばを信用せず、それは偽りだ、そのように言わせるために主はあなたを遣わされたのではない…と、主の御名を語って決めつけました。そして彼らは、エレミヤを含めたユダの残りのすべての者を連れて、エジプトへと出発したのです。すると主は、一行がエジプト王ファラオの宮殿があるところまで来たとき、エレミヤに対し、わたしはバビロンの王によってエジプトをも討ち、その民を捕囚にし、あるいは剣に渡し、そこの神々の宮を破壊して火で焼く…一緒にいる者たちにそう告げよと、命じられたのです。なぜ、高官たちやユダの残りの者たちは「ユダの地にとどまれ」という主の御声に聞き従わず、エジプトの国へ移ろうとしたのでしょうか…。それは、彼らの目には、そこが好ましい地に見えたからです。そこで十分な衣食住を得て、安心して安全に暮らせると考えたからです。ユダの地に残れば、またバビロンの軍勢が襲って来て、彼らに殺されることになる…と、恐れていたからです。しかしそれは、あくまで彼らの思い込みであり、事実とは異なっていました。ユダの地では、主の恵みとして、多くのぶどう酒や果物を収穫できていたのです(40:12)。彼らは、自分たちの考えに基づいて行動するのではなく、主に信頼し、主が立てられた預言者エレミヤを尊重し、自分たちに語られたことばをしっかり心に留め、それに聞き従うべきであったのです。私たちもしばしば、自らの感情や思いを優先させようとしてしまいますが、神のことばは常に真実であって、どんなときにもそこに立って考え、判断し、行動すべきなのです。目に見えるところによらず、自分の考えに頼らず、絶えずみこころを主に尋ね求め、主の導きに従う者でありたいと思います。 静まって主の御声を聴くことができますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 42章◇(11月17日) 「だから今、確かに知らなければならない。あなたがたが、行って寄留したいと思っているその場所で、剣や飢饉や疫病で死ぬことを。」…エレミヤ42:22 軍のすべての高官たち、カレアハの子ヨハナンら、身分の低い者も高い者もみなエレミヤの元にやって来て、主が自分たちの歩むべき道となすべきこととを告げてくださるよう、主にとりなし祈ってほしいと彼に願い出ました。エレミヤがそのことを了承すると、彼らは、それがどのような内容であっても、語られた主の御声に必ず聞き従うと約束したのです(6節)。それから10日後に、主のことばがエレミヤにあったので、彼はそれを、主のことばを待っている者たちを呼び寄せて告げました。主は、あなたがたがユダの地に留まるよう求めている、そうすればバビロンの王の手から救い出してくださる、しかしエジプトに行くなら、そこであなたがたは剣と飢饉と疫病によって死ぬ、と伝えたのです。「あなたがたは…すべてのことを聞こうとしなかった」(21節)。そのエレミヤのことばは、主のことばを語り終える前のものですが、民がその後どう行動するかを予見したものであり過去形で書かれています。結局彼らは、主からの警告にもかかわらず、エジプトに行こうとしていたのです。そのように彼らは、口先では主の御声に聞き従うと言いながら、心の中では、あくまでも、自分たちの考えで事を運ぼうとしていたのです。「今日 もし御声を聞くなら あなたがたの心を頑なにしてはならない」(詩95:7-8)。主の御声を聞き、主のことばを受け取っても、それにすなおに聞き従おうとしないなら、そのことを守り行わないなら、幸いは得られないのです。主の祝福にあずかることはできないのです。それどころか、いのちが失われてしまうのです。それは、すべての時代のすべての民が、畏れをもって受け取るべき真理であり、神からの警告のメッセージなのです。そのことをあらためて覚えつつ、受け取った主のことばに従順に聞き従う者、頑なな心ではなく柔らかい心を持つ者とされたいと思います。 主の祝福にあずかることができますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 40章◇(11月15日) 「しかし、アヒカムの子ゲダルヤは、カレアハの子ヨハナンに言った。「そんなことをしてはならない。あなたこそ、イシュマエルについて偽りを語っているからだ。」」…エレミヤ40:16 バビロンの王からエレミヤのことを託された親衛隊の長ネブザルアダンは、エレミヤに対し、釈放された後の行き先について、バビロンに行くかユダに残るか、彼の意志を尊重して、食料と品物を与えて彼を去らせました。するとエレミヤは、ユダの総督となったアヒカムの子ゲダルヤとともに、民の間に住むことにしたのです。そのゲダルヤは、ユダの地を統治する権威をバビロンの王から与えられた人物でした。彼は、残されたユダの人々に、バビロンの王に仕えるなら幸せになれると語り、ぶどう酒や果物などを蓄えて平和に生活するようにと勧めました。するとそれを聞いたユダヤの人々は、散らされていた所から、続々とユダの地に戻って来たのです。一方、野に逃げていたユダの軍の高官たちは、ゲダルヤのもとに来て、アモン人の王がネタンヤの子イシュマエルを送って、あなたを暗殺しようとしていると告げました。そして、彼らの中の一人、カレアハの子ヨハナンは、自分がそのイシュマエルを打ち殺そうと、ゲダルヤに申し出たのです。しかし彼は、彼らのことばを素直に聞こうとはせず、虚偽の報告だと決めつけ、ヨハナンのしようとしていることを非難しました。しかしそのようなゲダルヤの態度が、後に彼の命取りとなったのです(41章)。ゲダルヤは自分の立場に誇りと自信を持っていましたが、いつの間にかそれがおごりや高ぶりに変わり、自分の考えややり方は正しい…と、独りよがりになっていました。私たちも、誇りと自信を持つことは大切ですが、主の前にへりくだり、正しい認識と洞察のもと、的確な判断ができるよう、主に祈り求めるべきなのです。また、先入観や偏見を持たず、他者の声にきちんと耳を傾けるべきなのです。そうすることによって私たちは、何が正しくて、どう行動すべきなのかを、主ご自身から教えられるのです。そのようにして歩む者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 39章◇(11月14日) 「わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちは戦勝品としてあなたのものになる。あなたがわたしに信頼したからだ-主のことば。」…エレミヤ39:18 エレサレムの町は、ついにバビロンの軍勢によって陥落しました。ゼデキヤ王と戦士たちは逃亡しましたが、追われて捕まり、ゼデキヤの子たちやユダのおもだった者たちは王の目の前で虐殺され、ゼデキヤ自身は目をつぶされ足かせをはめられて、バビロンへ連行されたのです。一方、エレミヤは主の御手の中で守られ、難を逃れました。バビロンの王は親衛隊の長に、エレミヤに目をかけ、何も悪いことをせず、大切に扱うようにと命じたのです。エレミヤは、閉じ込められていた王宮の監視の庭から連れ出され、貧しさのゆえに町に残ることを許されたユダの人々の間に住み、エルサレムに留まりました。エレミヤが監視の庭にまだ閉じ込められていたとき、投げ込まれた穴からエレミヤを救助するよう王に進言した、クシュ人エベデ・メレクに対する主のことばがエレミヤにありました。それは、「わたしはあなたを救い出す…あなたが恐れている者たちの手に渡されることはない…あなたがわたしに信頼したからだ」という、救いと守りを約束するメッセージであったのです(16-18節)。「主を恐れる者たちよ 主に信頼せよ。主こそ助け また盾」(詩115:11)。エベデ・メレクはクシュ(エチオピア)人の宦官、すなわち、異邦人でありながら王に仕えるしもべであって、ユダヤ人、アブラハムの血筋の者ではありません。しかし、主ご自身が言われたとおり、彼は、イスラエルの神を畏れ、主に信頼し、主の御旨に従順に従う者であったのです。彼は、主へのその信頼のゆえに、主の救い、祝福にあずかる者とされたのです。それは、信仰によって主に義と認められる異邦人の予型です。主はいつの時代にあっても、そのように、主を畏れ、主に信頼するすべての者に御目を留めてくださるのです。どのような状況に置かれても主に拠り頼み、主の守りと祝福のうちを歩む者でありたいと思います。 主の守りと助けがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 38章◇(11月13日) 「クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、古着やぼろ切れをあなたの脇の下の綱に当てなさい」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまった。」…エレミヤ38:12-13 ゼデキヤ王は明らかに、預言者エレミヤに一目置いていました。彼は、エレミヤが首長たちによって投獄されたときには、そこから出して王宮の監視の庭に移させ、毎日パンを与えさせました(37:21)。また、エレミヤが穴に投げ込まれて泥の中に沈んだときには、しもべに命じて彼を引き上げさせました。そして、主がなさることを知りたいと願った王は、エレミヤのいのちを保証した上で、彼に主のことばを告げさせたのです。エレミヤは、主から語られていたことを包み隠さず王に告げました。もしあなたが、バビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたと家の者たちは助かり、エルサレムの町も火で焼かれることはない、しかし、降伏するのを拒むならそうはならない…と。するとそれを聞いた王は、そのことを誰にも話すなとエレミヤに口止めし、引き続き監視の庭にとどまらせたのです。主はこのとき、ゼデキヤのうちに働き、彼を通してエレミヤを助け、守り、養われました。また、エレミヤが穴に投げ込まれた際には、起きていることを王に伝え、エレミヤを助け出すよう進言した、エベデ・メレクというクシュ人の宦官の特別な働きがあったのです。私たちもしばしば困難な状況の中に置かれますが、主は助け手を使わし、私たちを支え、養い、導いてくださるのです。また、御使いを遣わし、私たちを危険や罠から守っていてくださるのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザ41:10)。いつもともにいてくださる主の御手を覚えつつ、どんなときにも主に信頼し、恐れずに歩み続けたいと思います。 平安と希望がありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 37章◇(11月12日) 「ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、主に祈ってください。」」…エレミヤ37:3 ユダの最後の王ゼデキヤは、バビロンの王ネブカドネツァルによって王とされた人物です。つまり彼は、傀儡の王であり、バビロンの王の言いなりになっていたのです。そんな彼は、ユダの国の王としてのリーダーシップを発揮することのない、優柔不断で煮え切らない者でした。2節には、預言者エレミヤによって語られた主のことばに、ゼデキヤも彼の家来たちも聞き従わなかったとあります。しかし、続く3節を見ると彼は、祭司ゼパニヤを通してエレミヤに対し、主に祈ってほしいと要請しているのです。それは、国がバビロンに実効支配されている現状において、エジプトに頼ることが打開策になるかもしれないと考えつつも、その判断ができずにいたからです。エレミヤを通して語られた主のことばに従おうとはしない、しかし、窮地に陥ると神に助けを求める…。「苦しいときの神頼み」ということばがありますが、そのときの状況によってころころと変わるゼデキヤの態度は、まさにそのような、自分勝手で、ご都合主義のものでした。一方、エレミヤは、その態度が終始一貫していました。偽預言者たちのように人々に耳障りのよいことばを語らず、捕らえられて牢獄に入れられようとするときにも、言い訳をして逃れようとはしませんでした。常に主のことばをまっすぐに余すところなく語り、主のみこころに従うという決意をもって歩んでいたのです。主のことばをまっすぐに受け入れ、主のみこころに従うことを選び取る…。そのような者を主は顧みてくださいます。エレミヤはゼデキヤ王によって監視の庭に入れられ、パンを毎日与えられて過ごすようになりましたが、主ご自身がそのようにして隠れ場を備え、守り、養ってくださったのです。私たちも決意と覚悟を持って、どんなときにも主に信頼して歩んでいきたいと思います。 主の守りと助けがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 36章21-32節◇(11月11日) 「これらすべてのことばを聞いた王も、彼のすべての家来たちも、だれ一人恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった。」…エレミヤ36:24 首長たちの報告を聞いたユダの王エホヤキムは、巻物を家来のエフディに取りに行かせ、王宮の暖炉の前でそれを読ませました。しかし、王と彼の家来たちは、そこに書かれていた主のさばきとわざわいのことばを聞いても平然とし、なんと王は、それが数段読まれるごとに小刀でその巻物を裂き、首長たちが止めるのも無視して暖炉の火にくべ、すべて焼き尽くしてしまったのです。その後、主はエレミヤに、燃やされた巻物にあったことばを、再度、新たな巻物に書き記すよう命じられました。主がモーセに与えたさとしの石の板が、民の不従順のゆえに砕かれても、再度与えられたことが思い浮かびます(出34:1)。そして主は、エホヤキムは王座から退けられて屍となり、彼の子孫や家来たちも罰せられ、わざわいはユダの人々にも及ぶとエレミヤに告げられたのです。本来エホヤキムは、ユダの王として、主を畏れ、主の御旨を知り、それに従って正しく国を治め、また、みことばに聞き従うようにと、人々にも命じるべきでした。しかし、神のことばを侮り、それが書かれた巻物を切り裂いて燃やすという不敬虔な態度のゆえに、神にさばかれ、その最期は悲惨なものとなったのです。彼の父ヨシヤ王は、主の宮で見つかった律法の書のことばを聞いたとき、心を痛めて自分の衣を引き裂き、主に悔い改めましたが、エホヤキムは神のことばが書かれた巻物を裂いたのです。私たちが、彼のように聖書を切り裂くことはしないとしても、みことばを心に留めず、軽んじ、その教えに聞き従おうとしないなら、それは、神を侮ることなのです。箴言には「みことばを蔑む者は身を滅ぼし、命令を尊ぶ者は報われる」とあります(箴13:13)。みことばは神ご自身であって(ヨハ1:1)、キリストに贖われ、神の民とされた私たちは、みことばを通して主の御旨を知り、自分を吟味し、衣を引き裂く、すなわち、悔い改めて主に立ち返るべきなのです。そのような者でありたいと思います。 ますます主を畏れる者とされますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 36章1-20節◇(11月10日) 「そのすべてのことばを聞いたとき、彼らはみな互いに恐れおののき、バルクに言った。「私たちは、これらのことばをすべて、必ず王に告げなければならない。」」…エレミヤ36:16 ユダのエホヤキム王の第4年に、エレミヤは主から、「巻物を取り…わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ」と命じられました(2節)。するとエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼び、自分に語られた主のことばを口述筆記させたのです。その後さらに、エレミヤは彼に、その巻物を持って主の宮に行き、巻物に書き記した主のことばを、断食の日にユダの民に読み聞かせるよう命じました(6節)。バルクがそのことを忠実に実行すると、主の宮にいてその主のことばを聞いたゲマルヤの子ミカヤは、その内容を王宮にいた首長たちに報告しました。すると、それを聞いた彼らは事の重大さを思い、バルクを呼んで彼から直接そのことばを聞きました。そして、主の使信にあらためて恐れおののいた彼らは、そのことばを王に告げなければならないと判断し(16節)、バルクに対しては、エレミヤとともに身を隠すように促したのです(19節)。その巻物には、民が悪の道から立ち返るよう、主が下そうとされているわざわいのことが書かれてありました。したがって、バルクがそれを主の宮で語れば、人々から疎んじられ、いのちを奪われる危険もありました。しかし彼は、そのことを恐れず、自分に与えられた使命を全うしたのです。そして、その主のことばを真剣に受けとめたミカヤ、さらには首長たちも、その主のことばを伝えるために行動を起こしたのです。そのようにして、エレミヤを通して語られた主のことばは、巻物に書き記され、人から人へと伝播していったのです。聖徒とされた私たちも、主のさばきから救われるための使信である、キリストの福音を人々に伝える使命を受けています。その使信は、「必ず王に(人々に)告げなければならない」ものであることを覚え、置かれたところでその使命を果たす者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 34章◇(11月8日) 「それなのに、あなたがたは心を翻して、わたしの名を汚した。あなたがたは、それぞれ、いったん彼らの望むとおりに自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻し、強制的に彼らをあなたがたの奴隷や女奴隷の身分に服させた。」…エレミヤ34:16 ゼデキヤ王は民と契約を結び、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由の身にし、再び奴隷にしないことに同意させました。その結果、奴隷たちはいったんは解放されましたが、民はその後、心を翻して奴隷たちを連れ戻し、再び彼らを奴隷として働かせたのです(9-11節)。主は、エジプトを脱出したご自身の民に、同胞であるヘブル人の奴隷を7年目には自由の身にしてやらなければならないという律法を、モーセを通して与えておられました(出21:2,申15:12)。主は民に、彼ら自身、かつてエジプトにおいて奴隷として虐げられていた者であって、そこから主に贖い出されたことを覚えるべきだとしてそのように命じられたのです。しかし、彼らの先祖たちはその趣旨を理解せず、律法を守ってこなかったのです。そのように、奴隷に対して不誠実であるということは、主の律法への違反行為、主への不従順であって、それは主に喜ばれることではないのです。怒りを覚えた主は、剣と疫病と飢饉によって民を懲らしめ、バビロンの手によって町々を荒れ果てた地とすると言われました(22節)。主イエスはこう言われました。「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」(マタ7:12)。人がなかなかそうしないのは、自己中心という罪があるからですが、自分が神から受けている恵みへの感謝の思いがないため、それを他者と分かち合うという意識に結びつかないということでもあります。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ19:18,マタ22:39)。その教えはつまり、「自分が神に愛されていることを覚え、感謝し、受けているその神の愛を押し流すようにして、隣人を愛せよ」ということなのです。神に愛され、贖われ、恵みの中に生かされていることを、絶えず忘れない者でありたいと思います。 感謝の心がいつもありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 32章26-44節◇(11月6日) 「まことに、主はこう言われる。「わたしがこの大きなわざわいのすべてを、この民にもたらしたように、わたしは、今彼らに語っている幸せのすべてを彼らにもたらす。」」…エレミヤ32:42 主はエレミヤに、わたしにとって不可能なことは一つもない、と言われましたが(27節)、それはエレミヤが、大いなる力と伸ばされた御腕をもって天と地を造られた主、また、しるしと不思議をもって民をエジプトから導き出された主を覚え、あなたにできないことは何一つない、と告白した(17-22節)ことを受けての語りかけでした。その主はさらに「それゆえ」と言われ(28節)、民にわざわいをもたらすとまず告げられました。エルサレムの町はバビロンの手に渡され、彼らによって焼かれるのです。そしてそれは、民が主の目の前に悪を行い続け、主の怒りを引き起こしたからにほかならないのです(30-32節)。しかし主のご計画にはさらにその先があります。主はまたも「それゆえ」と言われ、そのような背信の民を散らされた国々から連れ戻し、カナンの地に帰らせ、そこで安らかに住まわせると、回復を約束されました。39-42節において「幸せ」と4回繰り返され、41節では、彼らを幸せにし、わたしの喜びとし、心と思いを込めて、彼らをこの国に植えると、驚くべきことが語られているのです。主のみこころは、ご自身の民が幸せになり、ご自身の栄光を現わし、神の国の祝福をこの地に押し流す者となることです。そしてそのために、民を御手のうちに治め、懲らしめ、回復させ、用いられるのです。その主は「彼らに一つの心と一つの道を与え」(39節)と言われましたが、その心と道はただ一つのものであって、いくつもあるわけではないのです。そしてそれは、主の教え、みことばとして(詩1:1-3)、道であり真理でありいのちであるお方イエス・キリストとして(ヨハ14:6)、御霊に支配された心として(ロマ2:29)、主を求めるすべての者に与えられているのです。キリストに贖われた主の民として、その一つの心と一つの道を、日々追い求めていきたいと思います。 幸せと祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 32章1-25節◇(11月5日) 「すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、これが主のことばであると知った。」…エレミヤ32:8 預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある監視の庭に監禁されていましたが、彼はそこで、主からのことばを聴きました。それは、あなたのおじシャルムの子ハナムエルがやって来て、アナトテにある自分の畑を買ってほしいと頼み込むようになる、という内容でした。そして、その主のことばは、確かにそのとおりになったのです。しかしエレミヤは、そのことを知らされたとき、いったいそのことに何の意味があるのか…と思ったことでしょう。なぜなら、そのとき、エレサレムはバビロンの王の軍勢によって包囲され、彼自身は監禁状態にあったからです。しかしエレミヤは、そのことの意味を主に尋ね求める中で、再びこの国で家や畑が自由に買われるようになる、すなわち、国が解放され、民が帰還する日が来るということを、エレミヤは主から語られたのです(15節)。だからこそ彼は、近い将来に起こるそのときのために、ハナムエルの願いを聞き入れ、彼から畑を買ったのです。そもすれば私たちの歩みは、忙しい日々の目の前のことを単にこなすだけになってしまいますが、将来のことについても主に尋ね求め、そこにつなげるために必要なことを今から行動に起こしていくことが大切です。また、今は意味がよくわからないことも、それが将来のために必要なものであり、私たちには測り知れない主のご計画があることを信じて、日々求められている一つ一つのことに、忠実に取り組むということもまた大切なのです。遠くを見る目と近くを見る目を、両方持つ者となる…。主はそのように、私たちに対して求めておられます。そしてそれは、主との親密な交わりを持ち、主の御声を聴ことを通してなされていくのです。多忙な中にあっても主の前に静まり、その時間を確保したいと思います。 霊の目と耳がますます開かれますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 31章23-40節◇(11月4日) 「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」…エレミヤ31:33 31章の後半ではユダの家の回復と祝福が語られていますが、特に31-34節において「新しい契約」の預言がなされていることに心が留まります。主はご自身の民を、奴隷として虐げられていたエジプトの国から連れ出され、モーセを通して契約を結ばれましたが(出24章)、新しい契約はそのようではないとあります(32節)。しかしその新しい契約もまた、古い契約と同じように、神が民との間に一方的に結ばれる契約であり、律法が存在するのです。イスラエルの民の歴史、それは、主から与えられた律法、すなわち主の教えと戒めに聞き従おうとせず、契約に違反し、神の怒りを引き起こすということの繰り返しでした。そして、そのことのゆえに主は、イスラエルとユダの国を滅ぼすと言われたのです。しかし、愛とあわれみに満ちた神は、彼らの時代の後に、新しい契約を結ばれ、律法を文字として書物に書き記した古い契約とは異なり、ご自身の律法を民の心に直接書き記し、それを単なる命令として理解するのではなく、ご自身の御旨、切なる願いを悟るためのもの、いのちを保つためのものとして、一人ひとりがそれを受け取るようにと願われたのです。ヘブル人への手紙8章8-12節には、エレミヤを通して語られたその新しい契約についての預言が、そのまま引用されています。新しい契約は、十字架にかかり、罪のない尊い血を流し、完全ないけにえとしてご自身を神にささげられたキリストによって、すべての民との間に神が結ばれたものとしてもたらされました。そのようにしてキリストは、古い契約よりすぐれた、新しい契約の仲介者となられたのです(ヘブ8:6)。そして私たちも、その契約によって神の民とされ、律法を心に書き記されているのです。日々の歩みにおいて、御霊の啓示によってその奥義を知らされ、主への感謝と愛と従順のうちに、その律法、みことばに聞き従う者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 31章1-22節◇(11月3日) 「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」…エレミヤ31:3 30章に続き、イスラエルとユダの回復がそれぞれ語られています。彼らは「イスラエルのすべての部族の神」(1節)によって、回復の中で一つとされるのです。3節のことばが心に留まります。主の、ご自身の民への愛は「永遠の愛」であって、人の愛のように一時的、条件つき、見返りを求めるような愛ではありません。主は、その愛のゆえに、民に真実の愛を尽くし続け、今も、御手の中で彼らを守り、養い、導き続けておられるのです。4-6節には、主によってもたらされる回復の喜びが、生き生きと描写されています。また、その回復が確かなものであると強調すべく、「再び」と繰り返されています。主は、北イスラエルの民に対して、「再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り」と語られましたが、さらに主は、エフライムの山で見張る者たちが、「さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう」と、民全体に呼びかける日が来る、と告げられたのです。それはつまり、北と南の王国に分裂したイスラエル民族のうちにあった、両者間の敵対意識がなくなり、主によって再び一つとされ、エルサレムの神殿において、主を一緒に礼拝するようになるということです。そのように主がもたらされる回復、建て直しは、一時的、部分的ではなく、土台からなされる根本的なものなのです。主は、キリストによって贖われた私たちをも、ご自身の民として加えてくださいました。そしてその一人ひとりを永遠の愛をもって愛し、真実の愛を尽くし続けておられるのです。御手の中で守り、養い、導き続けてくださっているのです。からだの病や心の傷をいやし、全き回復をもたらしてくださるのです。「荒野」にあっても恵みを見出し、主の元で安息を得たい(2節)と思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 29章15-32節◇(11月1日) 「それは、二人がイスラエルの中で恥辱となることを行い、隣人の妻たちと姦淫し、わたしが命じもしなかった偽りのことばをわたしの名によって語ったからだ。わたしはそれを知っており、その証人である-主のことば。」…エレミヤ29:23 エレミヤは、偽預言者であるアハブとゼデキヤについて、二人はバビロンの王の手に渡され、民の目の前で彼に打ち殺されると告げました(21節)。それは、隣人の妻たちとの姦淫という、性的不品行の罪もさることながら、彼らが偽り、自分たちのことばを主の名によって主のものとして人々に語るという、冒涜の罪を犯したからです。神の名を口に出す…それは本来、イスラエルの民にとって畏れを伴うことでした。実際、「主の名をみだりに口にしてはならない」という律法(十戒)を破ることを必要以上に恐れて(出20:7)、巻物の中に書かれている「ヤーウェ」という神の名を読むときには、わざわざ、「アドナイ」といちいち読み替えていたのです。しかしエレミヤの時代には、神を畏れる者が少なくなり、主の名によって、偽りのことばが平気で語られていたのです。そのような時代を経て、父なる神は、人類の救い主として、ご自身の御子イエスをこの地上に遣わされました。そのキリストは、すべての人の罪を赦すために、身代わりとなって十字架にかかり、死からよみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。そのキリストの御名は、流された血による新しい契約において、さばきとのろいではなく、勝利と祝福をもたらす名となっているのです。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」(ヨハ14:14)。イエス・キリストはそのように言われました。私たちが、主の名によって人々に語り、主の名によって勝利を宣言し、また、主の名によって祈り求め、主の名によって祝福をとりなすとき、そこに、大いなる主のみわざが現されるのです。そして、ただ主があがめられ、主に栄光が帰されるのです。ますますキリストの御名をあがめ、御名によってすべてのことをなす者でありたいと思います。 主の祝福が豊かに満ちあふれますように。 |