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◇聖書箇所: 詩篇 94篇◇(12月31日) 「しかし主は私の砦となり 私の神は 私の避け所の岩となられました。」…詩篇94:22 詩人は、冒頭からいきなり「復讐の神…復讐の神よ…」と主に呼び掛けて、悪者への報復を願い求めています。彼らは神のゆずりの民を苦しめ、やもめやみなしごなど、弱い者たちのいのちさえ奪い、ヤコブの神は見ていない、気づかない…と言って高ぶり、神を侮っていたのです。民の中には、そのことばを聞いて心が萎える者もいましたが、そんな彼らに対して詩人は、人に目や耳を与えられた神が見聞きしないはずがない、悪者どもを神が責めずに放置されることはない、と反論したのです(8-10節)。そのように、神は義なるお方であって、悪者どものために穴が掘られる、神はご自分の民を決して見放さず、見捨てられないと、さらに詩人は告白しています(13,14節)。そして詩人は、その主は私の救い主であって、私のために悪者に向かって立ち上がり、私を助けてくださると確信し、「主は私の砦となり…私の避け所の岩となられました」と、すでに起こったこととして告白したのです。詩人にとって神は、初めは「自分たち」の神であり、のさばっている悪者どもに憤りを覚え、「立ち上がってください…報復してください…いつまでですか…」と責めるような口調で訴える相手でした。しかし、詩人のそんな思いは徐々に砕かれ、私の神…私の避け所の岩…という個人的な関係へと変えられ、心には確信と希望と平安が与えられるようになっていったのです。「私の主、私の神よ」(ヨハ20:28)。主の復活が信じられなかったイエスの弟子のトマスは、主のからだの傷跡に触れるという交わりの機会が与えられたとき、そう告白しました。私たちが主との交わりの中に身を置くとき、その主がどんなに自分のことを愛してくださっているのか、どれほど大きなみわざを自分になしてくださったのか、そのことを聖霊によって示され、「私の神…私の砦…私の避け所の岩」と告白する者とされるのです。主との深い交わりの中でそのように変えられたいと願います。 栄光と誉れが主にありますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 93篇◇(12月30日) 「主こそ王です。威光をまとっておられます。主はまとっておられます。力を帯とされます。まことに世界は堅く据えられ揺るぎません。」…詩篇93:1 詩人はこの93篇において、「主こそ王です」と告白し、王の持つ大いなる御力のゆえに、主をあがめています。「主はまとっておられます。力を帯とされます」。「主は力に満ちておられます。いと高き所で」(4節)…と。その王なる主は、主権者であられ、天と地の創造のわざにおいて力強く働き、今も、この世界のすべてをその御手によって統べ治めておられます。力を帯として、威光を衣のように身にまとわせておられるのです。しかしそのお方は、民に対して権威をふりかざすような王ではありません。王である主が、へりくだって民に仕え、すべての人々を罪の奴隷から解放するために、ご自身のいのちを代価として支払い、贖ってくださったのです。3節には、激しい響きをとどろかせて流れる川のことが繰り返されています。大雨で増水した川の濁流が身をくねらせながら進むさまは、その轟音とともに恐怖を感じさせるものですが、詩人もまた同じように感じたのでしょう。あるいは詩人は、思わず立ちすくんでしまうような激しい苦難の中に置かれて、そこで感じていた恐れと自らの無力さを、そのように表現したのかもしれません。しかし主は、そんな大水のとどろきや荒れ狂う海の波など、比べものにならないほどの力に満ちたお方であって、王である主の民は、堅く据えられているこの世界と同様、主にあって決して揺るがされることはないのです。主に守られ、支えられ、折にかなう助けが与えられるのです。ゆえに、御国の民とされている私たちは、どのような状況にあっても恐れる必要はないのです。力の源なる主に拠り頼み、助けを呼び求めるなら、主は確かに私たちを強め、その歩みを確かなものとしてくださるのです。そのようなお方が、威光をまとっておられる王が、いつも弱い私たちとともにいてくださることを覚え、その主にあって、恐れずに前に進む者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 90篇◇(12月27日) 「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」…詩篇90:12 3節に「人をちりに帰らせ」とあります。10節にあるとおり、人のいのちには限りがあり、地のちりで形造られ、鼻から息を吹き込まれて生きる者とされたすべての人は、やがて再びちりに帰ることになるのです。しかしそれは肉体においてであって、「人の子らよ、帰れ」と言われる主は、一人ひとりのたましいに対し、いのちの源なるご自身のもとに帰るようにと、命じておられるのです。7節に入ると、詩人は主の御怒りに思いを至らせます。8節には、「私たちの咎」、「私たちの秘め事」とありますが、詩人は、すべての人の中に、神に喜ばれないもの、すなわち罪と咎があり、それらのゆえに神のさばきを免れないこと、そしてそれらが赦され、きよめられ、義なる者とされなければならないことを、悟っているのです。10節以降でも、詩人のその思いはさらに深まっています。人の一生が、主の怒りによって消え失せるものとなるのか、それともたましいが主の元に帰り、永遠に生きる者とされるのか…。詩人はその2つの道を見ているのです。そして、後者の道へと進むために、この地上での日々の歩みが、主に喜ばれるものとなるように、13節以降において、祈りを主にささげているのです。13節に「帰って来てください」とあります。10節では、私たちの生涯のほとんどは労苦とわざわいだと詩人は語っていますが、人はその中で、疲れ果ててしまうこともあります。現実から逃げ出したくなるのです。しかし詩人は、そのような弱さをもったあなたのしもべたちをどうかあわれんでください…。そのような日々もあなたが与えられた日々であって、ちゃんと意味があることを悟らせてください…、そして、朝ごとに主から、豊かな恵みを受け取って満ち足りる者となることを願い、どのような状況にあっても、喜び歌い、楽しむ者とさせてください、と祈っているのです(14節)。キリストにあって贖われている私たちも、そう願う者でありたいと思います。 日々の歩みがますます確かなものにされますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 3章◇(12月26日) 「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」…2ペテロ2:21 この手紙の最後においてペテロは、「主の日」のことに言及しています。それはキリストが再臨され、今の世が終わり、神が約束されている「新しい天と新しい地」(13節、黙21:1)が実現する時のことです。そしてその時が近づくと、神を嘲る者たちが欲望のままに振る舞い、キリストは本当に来るのか…と言って、洪水によるさばきがかつてあったことを認めず、預言者と使徒たちによって語られたみことばを無視し、貪欲と放縦の歩みをするのです。すでに語られた偽教師たちが示唆されています。しかし今の天と地は、神がそのような不敬虔な者どもをさばいて滅ぼすべく、火をもって焼き尽くされるのです。それは必ず起こることなのです。神は時を支配しておられ、いつでもそのようにすることができるのです。しかしそれがまだ起こっていないのは、神が計画を途中で変更されたからではなく、優柔不断なのでもなく、すべての人が滅びされることなく、キリストにあって救われるようにと、切に願っておられるからなのです。そのように神は、愛とあわれみに満ちたお方であって、寛容と忍耐をもって、人々がご自身の元に立ち返るようにと待っておられます。しかし、さばきがなされる主の日は必ずやって来るのです。「到来を早めなければなりません」(12節)というペテロは語っていますが、そのことばは、すでに救われている私たちにとって、単に主の日が早く来るよう願い、主に祈り求めよということではありません。なぜなら、キリストの福音をまだ受け取っていない救われるべき人々が、私たちの周りにまだたくさんいるからです。そして主は、私たちの敬虔な生き方とあかしのことばを通して、キリストにある救いにあずかる人々を起こしてくださるのです。そのために自分がなすべきことは何かと主に日々尋ね求め、主の助けと導きのうちにそれを実行する者でありたいと思います。 主のみこころがこの地になりますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 2章11-22節◇(12月24日) 「義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかったほうがよかったのです。」…2ペテロ2:21 ペテロは、2章の後半でも、偽教師の罪深いふるまいと、彼らが受ける主のさばきについて、厳しいことばをもって語っています。本能に支配されている彼らは、理性のない動物のようであり、罪に飽くことなく貪欲に支配されている心のゆえに、「のろいの子」なのです(14節)。15-16節には、ベオルの子バラムのことが書かれていますが、これは民数記22章の記事からの引用です。バラムは、自分に従わないろばに対して、ばかにされたと感じて怒りを燃やし、杖で3度も打ちましたが、主は、そのろばの口を開いて人のことばを語らせ、さらに彼の目の覆いを除き、「あなたがわたしの道を踏み外していたからだ」と指摘されました。そしてペテロは、同じように主の道を踏み外し、正しい道を捨ててさまよっている偽教師たちを、強く非難しているのです。偽教師たちは、キリストの救いにすでにあずかっている者たちを惑わし、自由と放縦の誤った教えを語り、肉欲と好色によって誘惑していましたが(18節)、そのような彼らに用意されているのは深い闇なのです(17節)。20-22節には、そのような誤った教えによって、キリストを信じて救われ、世の汚れから逃れたのにもかかわらず、再びそれに巻き込まれてそこに戻ってしまう、そのような者たちのことが書かれています。その最後、つまり終わりの日における審判は、主を知らずにいた者たちよりももっと重い結果をもたらすのだとペテロは言い、ことわざを引用しつつ(22節)、偽教師たちに惑わされてそのようにならないようにせよと、警告しているのです。そしてそれは、その時代の者たちだけのためではありません。すべての時代の聖徒たちに対しての教えであり、心に留めるべきことばなのです。この世はますます罪と悪と汚れに満ちていますが、その中で、主が備えておられる義の道からそれることなく、きよさを保ち、主の教え、みことばに従って歩み続ける者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 2章1-10節◇(12月23日) 「主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、正しくない者たちを処罰し、さばきの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。」…2ペテロ2:9 2章では、信仰共同体の中に異端の教えをひそかに持ち込む、偽教師のことが語られています。彼らは、自分たちを贖ってくださったキリストさえも否定し、好色と放縦の歩みをし、多くの者が彼らの影響を受けて、主が備えられている真理の道を悪く言うようになるのです。さらにペテロは、彼らは貪欲であなたがたを食い物にすると、手紙の読者に注意を呼び掛けています(1-3節)。しかし、彼らは神のさばきによって必ず滅ぼされ、義人は救われる…とペテロは続け、旧約時代の実例を挙げています。箱舟に入り洪水から守られたノアたち(5節)や、灰にされたソドムとゴモラの町から逃れた、アブラハムのおいのロト(6-8節)…。そこには不敬虔ということばが繰り返されています。そしてそのようにされた主は、敬虔な者たちを救い出し、不義で不敬虔な者どもをさばきの日まで閉じ込めておくことを心得ておられるのだと、ペテロは告げているのです。「敬虔」の意味を辞書で調べると、「神を深く敬い、慎み深く生きること」とありますが、聖書が言う敬虔とは、それ以上のものです。すなわち、神を絶えず畏れ、神の絶対的な主権を認めてへりくだり、神の御旨を示すみことばと御霊に従い、主の御力とみわざを積極的に待ち望むというあり方です。そして「不敬虔」とはその逆であり、肉に従って歩み、欲望を満たすことを追求し、自分たちはすべてを知っている…支配することができる…と、人間の知恵と力に頼って生きるあり方のことなのです。かつてはそのように不敬虔であった私たちは、キリストによって贖われ、神から義なる者と認められました。しかしこの世には、聖徒たちを不敬虔へと引き戻す力が働いているのです。油断することなく、さまざまな誘惑と人間中心の価値観が満ちたこの世にあって、ますます敬虔な生き方を追い求める者でありたいと思います。 悪しき者の誘惑と惑わしから守られますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第二 1章1-11節◇(12月20日) 「ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。」…2ペテロ1:10 この手紙の冒頭でペテロは、挨拶に続いて、キリスト者に与えられたものについて述べています。4節には「その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています」とありますが、3節にも出てくる「栄光と栄誉」とは、キリストがご自身の十字架と復活によって成し遂げられた、私たちの贖いのことです。また「尊く大いなる約束」とは、キリストによって召し出された聖徒たちが、キリストの再臨の際に栄光のからだを与えられ、永遠の御国に入る恵みにあずかることです(11節)。そしてその約束のゆえに、聖徒たちは、神のご性質にあずかる者とされるべく、御霊なる主の働きによって主の似姿へと変えられるのです(2コリ3:18)。そしてペテロは、聖徒たちに対し、あらゆる熱意を傾けて、信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛が備わるように努力するよう命じているのです。そしてそれは、自分が御国に入れることに満足せず、主の働きに用いられ、役に立つ者、実を結ぶ者になるということなのです(5-8節)。10節の「つまずく」は、新共同訳では「罪に陥る」と訳しています。主に贖われた者なのに、世にある欲に惑わされてしまい、あるいは試練や困難の中で心が揺さぶられ、歩むべき信仰の道を進むことができなくなってしまう…それが「つまずき」です。そして、そのようにならないために、自分たちの召しと選びを確かなものとするよういっそう励みなさい、とペテロは命じているのです。自らの召しと選びを確かにする…。それは、私たちがキリストに選ばれ、召されていることを(ヨハ15:16)、主との交わりの中で、みことばを通して繰り返し教えられ、そのことが心にしっかりと留まり、揺るがないものとされる、ということです。そしてそれには、ペテロが強調するように、私たちの側の努力も求められているのです。そのことを覚え、日々そのように励みたいと思います。 霊の目がますます開かれますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 5章◇(12月19日) 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」…1ペテロ5:10 ペテロは自分を「長老」であるとし、同じ立場にある聖徒たち、すなわち信仰共同体の中にあって、信仰歴の長い人々、指導的立場にある者たちに対し、「神の羊の群れを牧しなさい…心を込めて世話をしなさい…支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」と命じています(2-3節)。すなわちその者たちは、羊を養い育てるために神から立てられている羊飼いなのだと言うのです。「群れの模範となりなさい」ということばが心に留まります。若い人たちが長老たち、信仰の先達たちに倣うようになるために、まず自分が模範となるべきなのです。そう言われると重荷に感じるかもしれませんが、信仰者が主イエスの歩みに従い、そのあり方に倣っているなら(1:15)、人々はその人を通して主ご自身を見るのです。主イエスこそが「大牧者」であって(4節)、羊の群れの世話をする者たちは、主に用いられる「小牧者」なのです。10節はよく知られたみことばであり、ここだけを抜き出して、苦難の中にある人々の励ましに用いられることもあります。しかし文脈的には、その前までの節で命じられているように、「神の力強い御手の下にへりくだる」こと(6節)、「思い煩いを、いっさい神にゆだね」る(7節)中で、主がそのように取り扱ってくださるのです。そしてペテロは、その7,10節に挟まれた8,9節で、「身を慎み、目を覚ましていなさい…堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」と、ここでも、聖徒たちに対して、悪魔の存在を覚え、しっかり戦うよう命じています。ヤコブも言っています。「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ4:7)。私たちが主に従い、善を行い、主の御名の権威によって立ち向かうなら、悪魔は退散するのです。そのような者として歩み続けたいと思います。 主にあって堅く立つことができますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 4章◇(12月18日) 「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行ないつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」…1ペテロ4:19 「キリストは肉において苦しみを受けられた…」とペテロは語っていますが(1節)、それは3章18節のことばを受けたものであり、聖徒たちもそのキリストと同じ心構えで自分自身を武装しなさいと、彼は命じています。すなわち、キリストが不当な苦しみを受けつつも、父なる神への信頼と服従をもって歩まれた、そのあり方、その心構えと同じようにしなさい、と教えているのです。「自分自身を武装しなさい」というそのことばに心が留まります。2節には「あなたがたが…神のみこころに生きるようになるためです」とありますが、神のみこころに生きる、主の御旨に従う、善を行なうということは、昨日も教えられたように、それを阻止しようとする悪魔との、霊的な戦いであるのです。「武装」ということばから、エペソ書6章にある神の武具が連想されます。私たちは敵を見くびって丸腰で戦うべきではなく、「神のすべての武具を」(エペ6:13)取る必要があるのです。12節以降にも、試練や苦難に置かれた聖徒たちがどうあるべきかが書かれていますが、13節にはこうあります。「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです」。善を行なって苦難を受けているあなたがたは、それを耐え忍ぶだけでなく、さらに喜ぶ者となりなさい…なぜなら、キリストが再臨される終わりの日に、歓喜にあふれて喜び踊る者となるからです…と、ペテロは言っているのです。善を行なう、神のみこころに従う…。たとえ迫害されなくても、そこには必ず戦いがあります。しかし、私たちには武装すべき神の武具が与えられています。また、御霊が私たちを励まし支えてくださいます(14節)。そして、真実な創造者、すなわちこの世界を絶対的な主権をもって統べ治めておられる主が、私たちを守り、堅く立たせてくださるのです。そのことを心に留めたいと思います。 すべてを主に委ねることができますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 3章13-22節◇(12月17日) 「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。」…1ペテロ3:14-15a 3章の後半においてペテロは、迫害の苦しみの中で、聖徒たちがどのようにあるべきかについて語っています。そしてそこでも、2章の後半から繰り返されている「善を行なうこと」の大切さが強調されています。「もしあなたがたが良いことに対して(「善に」:3版)熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」(13節)、「…悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです」(17節)。「善を行なう」とはすなわち、神が良しとされることを実行することであり、神のみこころがこの地になされるべく、みことばに聞き従い、御国の王なるキリストのしもべとして、キリストに倣って歩むことです。ペテロは、聖徒たちがそのように善を行なうとき苦しみを受けると語り、主イエスも「世にあっては苦難があります」と言われました(ヨハ16:33)。そこには、神に敵対する勢力、サタンがそれを嫌がって妨害しようとするために、霊的な戦いが生じることが示唆されています。そしてそれは、「血肉の争い」として、日々直面するものなのです。しかしペテロは言っています。「あなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」。私たちは苦しんでも、害を受けて倒れてしまうことはないのです。主イエスは弟子たちに苦難があることを告げた後に、「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と告げられたのです。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(15節b)。聖徒たちが苦難にあっても希望を持ち続け、神に拠り頼んでいる…。それは人々にとって驚きであり、その希望を自分も得たいと願う者がいたのです。主はそのように、苦難さえも証の機会としてくださるのです。私たちも弁明できるよう備えたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 3章1-12節◇(12月16日) 「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」…1ペテロ3:9 キリストの足跡に従うようにと語ってきたパウロは、3章において、妻と夫たちに対してそれぞれ、自分の配偶者に従うようにと命じています。妻たちには「みことばに従わない夫」に対してもそのように求めていますが、それは、「妻の無言のふるまい」が、神を畏れ、純粋な生き方を願う心から出る、愛と優しさに満ちた善い行いであるならば、そのふるまいを通して夫の心が動かされ、神を求め、みことばに従う者となるからなのです(1-2節)。女性にとって、髪を編んだり、服を着飾ったり、装飾品を身につけたりして、自らを美しく整えるのは自然な行為です。しかしパウロはここで、それ以上に、内面的なものを飾りとしなさいと教えています。すなわちそれは、「柔和で穏やかな霊」に満たされることによってその人の外に現れる、優しさ、うるわしさ、気品というものであって、それは神の前に価値あるものなのです(4節)。パウロはまた、夫に対しても、「妻が自分より弱い器であることを理解」するようにと命じていますが(7節)、それは決して、夫が妻よりも強くて優れている、だから妻を支配する権利があるということではありません。むしろ、妻のその弱さのゆえに、妻をリードし、支え、助けることが、夫たちに対して求められているのです。8節ではすべての聖徒たちに対して、「同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚で」あるよう命じていますが、続く9節に書かれていることは、キリストのうちに見られるあり方であって、2章の最後の部分で述べた、キリストに従う者となるようにとのパウロの思いが、ここで再び示されているのです。さらに10-12節では、詩篇34篇12-16節が引用されています。「主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる」(12節)。主はそのように、ご自身に従い、みこころを行う者たちを喜ばれ、御国の祝福を受け継ぐ者とされるのです。そのことを覚えたいと思います。 主の祝福を受け継ぐ通り良き管とされますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 2章11-25節◇(12月15日) 「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」…1ペテロ2:21 「立派にふるまいなさい」(12節)、「善を行って」(15節)、「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し」(17節)、「意地悪な主人にも従いなさい」(18節)。ペテロは、キリストに贖われた聖徒たちに対して、そのような具体的な行動を求めています。そして、それらのことは神に喜ばれることであって、あなたがたが召されたのは実にそのためなのだ、と言っているのです。さらにペテロは、21-25節において、イザヤ書53章のみことばを引用しつつ、まさにそのように行動して生涯を全うした、苦難のしもべとしてのメシアに言及しています。神に従順に従われたキリスト…それは私たちの罪を負い、私たちが罪を離れて義のために生きるためであった…あなたがたは、そのキリストの打ち傷のゆえに、癒やされ、罪から解放され、自分のたましいの牧者である神のもとに帰ったのだ…と。そのようにしてペテロは、神が恵みとして備えてくださった救いの大きさと、聖徒たちが生かされている意義を、あらためて強調しているのです。「義のために生きる」…。それは、神のため、キリストのため、悪と不義に満ちたこの世界に、神のみこころがなるために生きる、ということにほかなりません。キリストはその足跡に従うようにと聖徒たちに模範を残された…とペテロは言っていますが、その模範は主ご自身であって、私たちはキリストから目を離さずに、しっかりとついて行くことが求められているのです(ヘブ12:2)。そして、そのような聖徒たち一人ひとりを通して、神は人々の心とたましいに働きかけ、神をあがめる者たちを起こしてくださいます(12節)。さまざまな領域において神の国が拡大していくのです。福音を語るだけではなく、私たちが主を畏れ、従う、そのあり方、生きざま、存在のすべてを、主は用いてくださるのです。その主の足跡に従って歩み続ける者でありたいと思います。 神に喜ばれることが喜びとなりますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 1章13-25節◇(12月12日) 「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」…1ペテロ1:13 昨日の箇所である1-12節で語られているのは、私たちの救いがキリストによって与えられ、それが再臨の日に完成するということ、また、私たちが朽ちることのない資産を受け継ぐ者とされている、ということです。しかしペテロは、13節以降において、だからと言ってこの地上での歩みがどうでもいいと考えるべきではない、やがてもたらされる大いなる祝福を待ち望みつつ、この地上での生活が、聖徒としてふさわしいもの、神に喜ばれるものとなるようにしなさいと、読者に訴えているのです。13節に「心を引き締め」とありますが、それを直訳すると、「心の腰の帯をきつく締め」となります。それは、戦いに挑む者や真剣に仕事に取り組む者が、帯やベルトをきつく締め直すさまを表しています。また「身を慎む」ということばには、「酒に酔わない状態を保つ」という意味が含まれています。感覚を研ぎ澄まし、しっかり自己制御できるようにするのです。そしてそのペテロのことばには、聖徒たちがサタンの誘惑や攻撃という霊的な戦いに直面することが、示唆されているのです。17節にもこう書かれています。「この世に寄留している時を(地上にしばらくとどまっている間の時を:3版訳)、恐れつつ過ごしなさい」。地上での生涯の先にある、天の御国への道を歩んでいる者として、この世のあり方が神に喜ばれるものとなるようにするのは当然のことです。パウロは「私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから」と言っていますが(2コリ11:2)、私たちはキリストの花嫁として、小羊との婚宴の座に着くまで、純潔を保つことが求められているのです。「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」(16節、レビ11:44)と言われる神に従い、「生活のすべてにおいて聖なる者」(15節)となるべく、絶えず心を引き締め、身を慎み、主が備えてくださっている道を歩み続けたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: ペテロの手紙第一 1章1-12節◇(12月11日) 「また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。」…1ペテロ1:4 この手紙を書いたペテロは、冒頭の挨拶の後、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」ということばをもって、本文を書き始めています(3節)。そしてそれに続けて、神がどのようなことを私たちになしてくださったかを記し、ほめたたえられるべき理由を明らかにしています。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに…」。ペテロはまず、神がいかに愛とあわれみに満ちたお方であるかを強調しています。神に背を向け、身勝手な歩みをしていた罪深い私たちを、神は見捨てず、滅ぼさず、罪の中から救い出すために、かけがえのないひとり子をこの世に遣わし、実に十字架にまでつけてくださったのです。「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって…」。そのひとり子、イエス・キリストは、十字架にかけられ、尊い血潮を流し、そのいのちを代価として支払って、私たちを罪の奴隷から贖い出し、死からいのちへ、やみから光へと移してくださいました。それだけでなく神は、そのキリストを、死から3日目によみがえらせたのです。21節には「キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神」と書かれています。「私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」。そのようにキリストがよみがえられたからこそ、罪を赦された私たちはさらに、永遠のいのちが与えられ、御国の民とされるという霊的祝福を受け、朽ちることのない資産を受け継ぐ者とされたのです。パウロも、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます」と言っています(1コリ15:17)。私たちがキリストとともに死に、キリストとともによみがえり、やがて栄光のからだが与えられる者とされていることを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。 主の恵みと平安が豊かに与えられますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 89篇38-52節◇(12月10日) 「主よ あなたのかつての恵みは どこにあるのでしょうか。あなたは 真実をもって ダビデに誓われたのです。」…詩篇89:49 詩篇89篇の最後の部分です。それ以前の部分とは調子が変わり、主に油注がれた者が、主に拒まれ、捨てられ、激しい怒りにあっていると書かれています。詩人が言うその「彼」とは、ダビデの家から出た王であり、その治世のときに、ここに書かれているような苦難が起こったのだと考えられます。おそらく40節は、バビロンによるエルサレムの陥落を指しているのでしょう。そのような状況の中、詩人は、ダビデとその子孫への主の契約が廃棄されたのだと言っています(39節)。しかしそれはあくまで、詩人がそう考えているのであって、もちろん神は、ご自身が結ばれた契約を廃棄される方ではないのです。「わたしは わたしの契約を汚さない。唇から出たことを わたしは変えない」(34節)という主のことばは真実であり、その契約は不変のものなのです。さらに詩人は、詰問するようにして主に問い掛けています。「いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠されあなたの憤りが火のように燃えるのは」と(46節)。しかし、そのように主に思いをぶつける中で、詩人は主が真実なお方であられ、ダビデに誓われた契約は確かであることを示され(49節)、「主よみこころに留めてください」と、主にすがりつくようにして祈ったのです(50節)。私たちもまた、厳しい現実の中に置かれるとき、神に見捨てられ、恵みの契約は破られたと感じるかもしれません。しかしそれは事実ではないのです。恵みとまことに満ちたキリストによって継承された新しい契約は、神の民にとって確かで不変のものなのです。あのヨブは苦難の中で神を非難しましたが、主がなさることは自分の理解を越えていること、主が真実であることを示され、悔い改めました(ヨブ42:6)。詩人も最後は主をほめたたえています(52節)。私たちも主の前にへりくだり、最善をなしてくださる主に信頼して歩み続けたいと思います。 主の守りと助けがありますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 89篇19-37節◇(12月9日) 「わたしの恵みを 彼のために永遠に保つ。わたしの契約は 彼にとって確かなものである。」…詩篇89:28 詩篇89篇には、ダビデとその子孫に対する祝福が書かれていますが、それは、神がダビデとの間に結ばれた契約に基づいています(3,28,34節)。神は、ご自身のみこころにかなわないサウルに代わる者としてダビデを選び、サムエルを通して彼に油を注いで王とされたのです。神はダビデを祝福されました。主の御手がいつも彼とともにあったので揺るがされず、主の守りによって敵から害を受けることもなく(21-23節)、ダビデは主を、わが父、わが神、わが救いの岩と呼びました(26節)。そして彼は、地の王の中で最も偉大な王とされ(27節)、彼に続いて、ソロモン、レハブアム…と、その子孫、ダビデの家から、王となる者が次々に起こされていったのです。しかし、そのダビデの歩みのすべてが、主のみこころにかなっていたわけではありません。彼は、ウリヤの妻バテ・シェバを自分のものとするため、ウリヤが戦いの最前線に出るように仕向けて戦死させ、姦淫の罪を犯しました(2サム11章)、また彼の先祖として、遊女であったラハブや異邦人であったルツの名が、系図に加えられているのです(マタ1:5)。そのように、神が選ばれ、契約を結ばれたダビデとその家は、決して罪とは無縁ではなく、また純血の家柄ではなかったのです。そして神は、やがてその血筋からヨセフを選び、いいなづけのマリアの胎に、イエス・キリストを宿らせたのです。そのキリストの血による新しい契約によって、罪からの救いが全人類にもたらされ、その良き知らせ、福音は、この日本にも届けられ、時至って、私たちはそれを信じて救われ、神の民とされたのです。あらためて、主の恵みと真実を思わされます。「わたしは わたしの契約を汚さない。唇から出たことを わたしは変えない」(34節)。そのように告げられる真実な主の御手の中で、恵みとあわれみによって日々生かされていることを覚え、感謝と賛美を主にささげたいと思います。 主の御名があがめられますように。 |
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◇聖書箇所: 詩篇 89篇1-18節◇(12月8日) 「私は 主の恵みを とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」…詩篇89:1 詩篇89篇には「恵み」とともに、「真実」あるいは「まこと」ということばが繰り返し使われています。詩人は、神がいかに恵み深く、また真実なお方であるかを強調すべく、初めにそのことに触れて主をほめたたえています。神が真実であるとは、神が不変であるということです。世は移り変わります。人は心変わりしたり裏切ったりします。しかし、神は決して変わることがないのです。いつでも、どのような状況でも、その神に全幅の信頼を寄せるならば、私たちは確かな歩みへと導かれるのです。神が真実であるとはまた、神がすべてをご存じであり、隠されていることを明らかにされるということです。神は、どんなときにも正しく、聖であり義であるお方なのです。14節には「義と公正は あなたの王座の基。恵みとまことが御前を進みます」とあります。その神が私たちの弁護者となり、責め立てる者から守られるのです。神が真実であるとはさらに、ご自分の民に対しても、真実であるよう求められるということです。しかし、罪深い私たちは不真実な者であって、私たちが真実な歩みをするためには、絶えずみことばの光に照らされ、真理を悟り、主の御霊によって変えられることが必要なのです。それは、15-16節に「幸いなことよ 喜びの叫びを知る民は。主よ 彼らはあなたの御顔の光の中を歩みます。彼らはあなたの御名をいつも喜び あなたの義によって 高く上げられます」と書かれているとおりなのです。パウロもこのように言っています。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(2テモ2:13)。地上的、人間的なものに心を寄せることなく、どんなときにも揺るがない土台であるイエス・キリスト(1コリ3:11)に拠り頼み、まことの光(ヨハ1:9)に照らされて歩む者でありたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 52章17-34節◇(12月6日) 「…バビロンの王エビル・メロダクは、即位した年のうちにユダの王エホヤキンを呼び戻して、獄屋から出し、優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。」…エレミヤ52:31-32 ユダの王エホヤキムの死後、その子エホヤキンが18歳で即位しましたが、その3ヶ月後にバビロンがエルサレムに攻め上り、彼は捕虜としてバビロンに連行され、投獄されてしまいました(2列24:12)。しかし、その後、バビロンの王がネブカドネツァルからその子エビル・メロダクに代わると、王の特別なはからいによって彼は獄屋から出され、優しいことばをかけられ、なんと一生の間、彼は王の前でいつも食事をし、生活費まで支給され、何不自由なく暮らすことができるようにされたのです。それは捕虜として投獄されていたエホヤキンに対する異例の取扱いでした。そのときバビロンには、同じように連れて来られた他国の王たちが何人もいましたが、エホヤキンはそれらの者たちの中で最も高い位が与えられ、そのような破格の優遇措置を受ける者とされたのです。なぜそのようなことになったのか…その理由は書かれていませんが、神がそのように計画され、バビロンの王に働きかけられたから違いありません。そもそも、主の御旨は、ご自身に従わないユダの民を悔い改めさせるために、バビロンを用いて懲らしめを与えることであり、ご自身の民を根絶やしにすることではなかったのです。バビロンに捕らえ移された神の民が主に立ち返り、エルサレムに帰還して神殿を再建するための準備期間として、主の守りと導きのうちに、エホヤキンとユダヤの民は、バビロンで生活をしていたのです。エホヤキン(別名エコヌヤ)の孫であったゼルバベルは、民の帰還後、神殿再建を進める総督として用いられた人物です。そして彼の名は、キリストの系図に載っているのです(マタ1:12)。主の恵みとあわれみによって生かされているイスラエルの民…。そして私たちもキリストにあって神の民に加えられ、主の豊かな恵みと祝福にあずかっているのです。そのことを覚え、主のはからいに感謝したいと思います。 すべての栄光と誉れが神にありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 52章1-16節◇(12月5日) 「カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。」…エレミヤ52:8 エレミヤ書をずっと読み進めてきましたが、最後の章となりました。今日の箇所の内容の一部は、39章1-10節の記事と重複していますが、本書の著者は、バビロン軍によるエルサレムの陥落と、ユダの王や首長たちの悲惨な最期を繰り返して語り、それを忘れることがないようにと、読者に対して強調しようとしたのかもしれません。エレミヤ書に書かれていたことを振り返ってみるとき、イスラエルやユダの国の歴代の王たちが、国を治め、民を導く者として、主によって立てられていたのにもかかわらず、その主を畏れず、主に聞き従おうとしなかったこと、またその王のもとにある民も同じであったことを思わされます。だからこそ主は、バビロンを用いて彼らを懲らしめたのであり、国家のリーダーである王はどうあるべきなのか…ということを考えさせられるのです。今日の箇所では、カルデヤ(バビロン)の軍勢に追われて、ゼデキヤ王の軍隊の兵士たちは、みな王から離れて散ってしまったとあります。エルサレムを包囲され、兵糧攻めにあって苦しんでいた民衆を見捨てて逃げ出した王、そして本来、忠誠を尽くして王を守るべきなのに、王を見離して散っていった家来たち…。そこには、なんとか生き延びようと、自分のいのちを救おうとする、身勝手で自己中心の王や兵士たちの姿が描かれているのです。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見いだすのです」(マタ16:25)。主イエスは弟子たちにそう言われました。私たちは、主に贖われ、王であるイエスに仕えるしもべであり、主イエスから離れずについて行くことが求められています。苦難の中で、自分のいのちを救おうとするなら、すなわち、主イエスに従わずに、人間的な方法に頼っても、それは単なる一時しのぎにしかならないのです。主に拠り頼み、主の御力とみわざの現れを日々体験しつつ、主のいのちにあふれて歩む者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 51章45-64節(12月4日) 「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。」…エレミヤ51:45 主はバビロンで捕囚となっていたユダの民に、バビロンから出よ、バビロンに対するご自身の怒りから逃れよ、と命じられましたが、それは、主が、ご自身の民を解放し、自由を与えてくださるということを意味しています。彼らはもはや捕囚の身分ではなくなるということです。またそれは、主の前に高ぶり、刻んだ像を拝むバビロンが、主によって裁かれ、完全に断ち滅ぼされるということであり、その彼らの巻き添えになって滅ぼされないようにせよという、ユダの民への警告でもあったのです。その主の語りかけは、「それぞれ」が自分に対するメッセージとして聞き、「それぞれ」が決断して従うべきものです。そしてそれは、「自分自身を救う」ために、主が備えてくださった解放と救いの道です。かつてイスラエルの民が、奴隷として虐げられていたエジプトから脱出したことが重なります。そしてそれは、霊的な意味では罪の奴隷からの解放と救いです。エレミヤを通して語られたその主のことばは、すべての時代のすべての民に対する、罪からの救いを示唆するメッセージなのです。主は私たちを愛して、御子イエス・キリストを遣わされました。それは罪の奴隷から私たちを贖い、解放し、自由にするためであり、やがて終わりの日になされる神の裁きから、私たちが救われるためであったのです。「行け。立ち止るな。…エルサレムを心に思い浮かべよ」(50節)。キリストにあって神の救いにあずかり、聖徒とされた私たちは、罪に満ちたこの世に未練を持つことなく、主の栄光と臨在に満ちた新しいエルサレムを思い、天に向かって地上の荒野での歩みを進めている者たちなのです。「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え」。アドベントの中にあって、そのことばに接するとき、救われるべき人々、その主の命令に従うべき者たちがまだ大勢いることを思わされます。先に救われた者として、その人たちの救いのために、とりなし続けたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 51章20-44節◇(12月3日) 「それゆえ、主はこう言われる。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する。バビロンの海を干上がらせ、その泉を涸らす。」」…エレミヤ51:36 20-23節には「あなたによって…砕き」ということばが繰り返されています。そのように、バビロンは国々を砕くための道具(鉄槌、1節)として主に用いられますが、彼らがシオンにおいて行ったすべての悪のゆえに、主は、ご自身の民の目の前で、彼らに報復されるのです(24節)。28節の「メディア」は、後にペルシャに併合された強大な国ですが、主は、バビロンを滅ぼすために、今度はその者たちや27節に書かれている諸国を道具として使い、バビロンの地を、住む者が誰もいない、荒れ果てた地とされるのです。すると、バビロンの戦士たちは、そのような状況に追い込まれて、戦う気力をすっかり失い、砦の中に座り込んでおろおろとおじ惑うのです(30-32節)。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する」。ご自身の民に向かって主はそう言われました。そのように主は、御名を呼び求めて訴える者たちの声に確かに耳を傾け、力強い御腕を動かし、彼らを敵の手から守ってくださるのです。正しい報いをなされるのです。「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し 貧しい者のために さばきを行われることを」と詩篇に書かれているとおり(詩140:12)なのです。主は、根拠のない敵の偽りの訴えを退け、聖徒たち一人ひとりを弁護してくださるお方です。パウロも、「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです」と語っています(ロマ8:33)。主は、私たちの訴えに確かに耳を傾け、それを取り上げ、私たちを虐げようとする者から守ってくださいます。また、神に選ばれ救われた私たちを、責め立てる者がいても、私たちが、神に愛され、キリストにあって罪赦され、義なる者であると、弁護してくださるのです。誰にも理解してもらえないと心細く感じるときも、人を見るのではなく、何よりも主に祈り、主を呼び求めたいと思います。 主からの慰めと励ましがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 51章1-19節◇(12月2日) 「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」…エレミヤ51:5 主は、ご自身の教えに従わず、みこころに逆らい、ご自分から離れてしまったイスラエルとユダの民を見捨てることなく、バビロンの手から救い出し、回復を与えると約束されました。しかしそれは、彼らがそのような取扱いを受けるのにふさわしい者たちであったからではなく、ひとえに主の深いあわれみによることであったのです。10節は、そのようにしてバビロンから解放される、主の民の告白です。「主は私たちの義を明らかにされた」。しかしそれは、彼らの正しさが主に認められた、ということではありません。あくまでも主の恵みにより、そして、主がアブラハムと結ばれた、子孫の祝福という約束を伴った契約のゆえに、そのように取り扱われるということなのです(19節)。ここに、主からの一方的な罪の赦しに基づく、民の救いと回復が示唆されているのです。ご自身の民に対する、主の一方的な恵みとあわれみ…義と認めてくださること…。それは決して、自動的、機械的にもたらされるものではありません。アブラハムは、満天の星を見上げるように主から命じられ、あなたの子孫はこのようになると告げられ、子がいなかった高齢の彼はその主を信じたのです。そして主は、その信仰のゆえに、アブラハムを義と認められたのです(創15:5-6)。そのように、神によって義とされるということは、契約と信仰に結びついたことであって、人間の側のがんばり、知恵、知識、富など一切のものは、その根拠とはなり得ません。そして私たちも、キリストが人類のために成し遂げてくださった、十字架と復活による贖いを信じたゆえに、主の血潮による新しい契約に基づき、罪赦されて、義と認められたのです(ロマ3:24)。それはただ、神の恵みとあわれみによることであって、神の民に加えられた私たちもまた、決して主に見捨てられることはないのです。そのことを深く心に留めたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
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◇聖書箇所: エレミヤ書 50章21-46節◇(12月1日) 「高ぶる者よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。-万軍の神、主のことば-おまえの日、わたしがおまえを罰する時が来たからだ。」…エレミヤ50:31 50章の後半でも、バビロンに対して主がなされるさばきがが語られています。「全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか」とありますが(23節)、諸国を圧倒的な勢力をもって征服した大国も、彼らがイスラエルの神を侮り、自らの力を誇って高ぶっていたために(29、30,32節)、主によって無残にも滅亡させられるのです。創世記11章には、頂が天に届く塔を建て、自分たちの名をあげようとする企みを主が阻止し、彼らのことばを混乱させて散らされたという記事がありますが、そのバベルの塔が建てられた場所が後のバビロンです。神と対等な立場になろうとするバビロンの高ぶりは、彼らの先祖の時代からすでに現されていたのです。主はまた、「主に争いを仕掛けたからだ」とバビロンに指摘しておられます(24節)。神に造られた人が、神に勝つことなどできるわけないのに、主に争いを仕掛ける、戦いを挑む…それがどれほど愚かで罪深いことであるのか、彼らは気づきませんでした。自分たちの戦力、財宝、偶像の神を誇り、肉の思いに支配された彼らは、自分たちがどれほど神の前には無に等しい存在であるのか、わからなくなってしまっていたのです。35-38節には「剣が…、剣が…」と繰り返されていますが、諸国の民を襲い滅ぼすために彼らが頼った剣が、今度は自分たちのところに下るという、皮肉な結果となってしまうのです。私たちはバビロンのように主に争いを仕掛けることはないでしょう。しかし、主からの恵みを当たり前のように日々受け取っているとしたら、それらに対する感謝が湧いてこないとしたら、そのくらいならわざわざ祈らなくてもやれると思うなら、それは、自分の存在を神の前に高くしようとする、高ぶりの兆しなのかもしれません。神がおられなければ、主が与えてくださらなければ、私は一歩も前に進めない、何もすることができない…。常にそのように自分を低くして歩みたいと思います。 ますます謙遜な者とされますように。 |