◇聖書箇所: レビ記 4章22-35節◇(2月10日) 「祭司は罪のきよめのささげ物の血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す。」…レビ4:34 4章には「罪のきよめのささげ物」の規定が書かれています。2-21節では、祭司自身が陥った罪や、イスラエルの全会衆の罪のきよめのため、また今日の箇所である22節以降では、族長や民衆の一人が罪に陥った場合のきよめのために、動物をどのようにささげ物とすべきかが、主ご自身によって明らかにされています。そして、それらを献げる際には共通な点があることがわかります。その第一、それは、傷のない動物の血が求められたということです。雄牛、雄やぎ、雌やぎ、雌の子羊…と、罪を犯した者の地位や貧富の差により、それらのささげ物を入手する困難さが配慮されているように思われます。いずれにしてもそのささげ物は主の前でほふられ、その血は幕屋の中に持ち込まれて香の祭壇の角に、あるいは幕屋の外にある全焼のささげ物の祭壇の角に塗られ、残りの血はすべて祭壇の土台に注がれたのです。その第二、それは、そのようにしてささげ物の血を祭壇の角に塗り、土台に注ぎかけるのは祭司の役目であったということです。それは、会見の天幕の中には民衆は入ることができず、祭司が神と人との間に立って、罪の赦し、神への宥めために奉仕する存在であったからです。その第三、それは、ささげ物となる動物の脂肪が焼かれて煙になり、それは主への芳ばしい香りとなって立ち上った、つまり、主がそれを喜ばれたということです。そして、それらの共通点が指し示すのは、全人類の罪がきよめられるために十字架にかかられたキリストです。キリストはまさに、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)として、また大祭司としてまことの聖所に入り、罪(傷)のないご自身をささげ、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブ9:11-12)。このキリストにあって、私たちのすべての罪が赦されているのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。 キリストの御名があがめられますように。 |
◇聖書箇所: レビ記 3章◇(2月8日) 「祭司は祭壇の上で、それを食物として、芳ばしい香りのための食物のささげ物として焼いて煙にする。脂肪はすべて主のものである。」…レビ3:16 3章は交わりのいけにえ(和解のいけにえ:3版)についての規定です。アダムが神の命令に背いて罪を犯したことにより、神との親密な関係は断たれ、人は神の怒りとさばきを受けるべき者となりましたが、神とのその関係が修復され、和解がなされ、交わりが回復するためのささげ物が、主が民に求めているこの交わりのいけにえです。そのささげ物の規定を見ると、9-10節のように具体的かつ詳細な指示がされており、さらに、さまざまな部分の脂肪を焼いて煙にするよう命じられていることに心が留まります。ではなぜ主は、脂肪をささげるように求めておられるのでしょうか…。「脂肪」と訳されている原語には、「最も良い部分、選り抜きの部分、最上のもの、肥えたもの」という意味もあります。主は民に、ささげ物の中の最良、最高の部分をご自身にささげるよう命じておられるのです。また脂肪は、人や動物が活動するための重要なエネルギー源となるものであり、その意味で「力」の象徴であるとも言えます。その脂肪を主にささげるとき、人々は、神こそあがめられるべき至高の存在であり、最良のものをその神にささげるのがふさわしいことを覚え、また、生きるための力の源が自分たちのうちにはなく、力と助けはただ神から来るということを覚えたに違いありません。「主は私の力 私の盾。私の心は主に拠り頼み 私は助けられた」(詩28:7)。アダムの罪の本質とは、善悪の知識の木の実を食べて知恵を得、神の力と助けなしに生きようとすることでした。そしてその罪の性質を持ったすべての人のために、神は、最良、最愛のひとり子を献げてくださったのです。私たちはそのことを覚え、最上のものをもって主をあがめ、礼拝すべきなのです。そして、「脂肪はすべて主のものである」と言われる主の前にへりくだり、どんなときにもひたすら主に拠り頼むべきなのです。そのような者でありたいと思います。 主の助けと支えがありますように。 |
◇聖書箇所: レビ記 2章◇(2月7日) 「あなたがたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しであっても、主への食物のささげ物として焼いて煙にしてはならない。」…レビ2:11 2章には「穀物のささげ物」についての規定が書かれています。「人が主に穀物のささげ物を献げるとき」と1節にありますが、全焼のささげ物の頭上に人が手を置き、自分の「代わり」だとしたように(1:4)、穀物のささげ物に対する神のさまざまな要求は、それをささげる者自身への要求をも意味していると考えることができます。その穀物のささげ物は、調理をしないもの(1-3節)と、小麦粉をかまどや鍋で焼いて作るもの(4-10)がありましたが、調理したものについては、祭壇に献げられる前に、粉々に砕かれる必要がありました(6節)。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心…」ということばが思い起こされます(詩51:17)。そのように神は、聖徒たちに対して、へりくだりと従順を、頑なではない、砕かれた霊と心を求めておられるのです。また、調理される穀物のささげ物には、パン種や蜜を入れてはなりませんでした。それらは腐敗をもたらすからです。そして、そのように不要なものを排除したささげ物には、さらに塩を加える必要があったのです(13節)。その塩には腐敗を防ぐ働きがあり、そこから「不変」や「永遠」という意味をも表します。「神の契約の塩を欠かしてはならない」とありますが、それは、「永遠に変わらない神の契約の民」であることを忘れるな、その神の前に真実であり続けよ、異邦人のように偶像に心を寄せて汚れないようにせよ、とのメッセージなのです。そして、調理しない穀物のささげ物には、油と乳香が必ず添えられました。詩篇141篇2節に「私の祈りが御前への香として…立ち上りますように」とあるように、乳香は祈りを表します。また油は聖別のために用いられ、聖霊を表します。聖徒たちは、世の汚れから離れ、御霊に満たされることが求められているのです。そのことを覚えつつ、自らを主に献げる者でありたいと思います。 感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。 |
◇聖書箇所: レビ記 1章◇(2月6日) 「…祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」…レビ1:9 「レビ記」というこの書のタイトルの由来は、レビ人である祭司によってなされた礼拝の規定がそこに記されているということにあります。ヤコブの12人の息子の一人であるレビを祖とするレビ族は、主ご自身を相続地(ゆずり)とするよう定められ、礼拝をつかさどる祭司をはじめ、幕屋、後には神殿の奉仕者として任命されました。そのレビ記1章には、全焼のいけにえのささげ物の規定が書かれています。民は、牛、羊またはやぎの中から傷のない雄を選んで主の前に連れて行き、祭司であるアロンの子らがそれをほふり、各部に切り分け、内臓や足を水で洗い、それらをすべて祭壇の火の上で焼いて煙にしました。またその際、連れて来た人はその全焼のささげ物の頭の上に手を置くようにし、ほふられたささげ物の血は、祭壇の回り(側面)に注ぎかけられたのです。それらの行為は、民が罪あるゆえに死に値する者であり、牛や羊などの動物が民の身代りとなり、そのいのちが取られるということを表しています。また、血はいのちの象徴であり、それが祭壇に注がれることで、取られたいのちが主のものであることを示すのです。さらに、ささげ物のすべての部分を焼くことは、神への全き献身を意味し、傷のないささげ物は、それが最上のものであるということなのです。そしてそのささげ物は、全人類のために十字架にかかって血を流され、死なれたお方、罪のない完全なささげ物であるキリストの予型なのです。ささげ物が焼かれて煙りが立ち上るとき、それは主の前に「芳ばしい香り」(9,13,17)となりました。「芳ばしい」とは「喜ばしい」という意味でもあります。神がそれを喜ばれたのです。民は、単なる儀式ではなく、神との交わりの一部として、最上のささげ物を献げ、神を喜ばせたのです。私たちにとっても、そのあり方が、礼拝や奉仕だけでなく、すべての歩みにおいて求められているのです。そのことを覚えたいと思います。 主への感謝と賛美が絶えずありますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇 72篇◇(2月5日) 「王は 弱い者や貧しい者をあわれみ 貧しい者たちのいのちを救います。虐げと暴虐から 王は彼らのいのちを贖います。王の目には 彼らの血は尊いのです。」…詩篇72:13-14 最後の20節に「ダビデの祈りは終わった」とあります。本詩篇はダビデが、息子であり、自分の後継者としてイスラエルの王座についたソロモンのために、彼の治世が御旨にかない、祝福されるよう、主に願った祈りです。その中で繰り返され、読者の心に留まるのは、王が民の苦しむ者、貧しい者、虐げられている者たちをあわれみ、弁護し、救い出すように、彼らの敵を打ち砕くようにと願う、ダビデのことばです。そしてそれらは、預言として、来たるべきメシア、御国の王なるイエス・キリストを指し示している、と見ることができるのです。キリストは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と言われ(マタ5:3)、たましいに飢え乾きを覚えている人々に、神の国がもたらすいのちと祝福を伝えられました。そして神に敵対する者の虐げ、罪の束縛から、すべての民を贖い解放するために、王であるキリストは、ご自身のいのちを十字架の上でささげてくださったのです。「王の目には彼らの血は尊い」とありますが、彼らの血とはすなわち、一人ひとりのいのち、存在なのです。神の目に高価で尊い存在である私たちは、神の深い愛とあわれみによって、そのように、死からいのちへ、闇から光へと移され、永遠に神とともに生きる者とされているのです。「王の名がとこしえに続き その名が 日の照るかぎり増え広がりますように。人々が彼によって祝福され すべての国々が彼をほめたたえますように(17節)。ダビデのその願いは、神ご自身の、そして贖われた私たちの願いです。15節には、「王のためにいつも彼らが祈り 絶えず王をほめたたえますように」とありますが、私たちは、どんなときにも主をほめたたえ、神のみこころがなされるよう、絶えずとりなす者でありたいと思います。 すべての栄光が神にありますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇 71篇◇(2月4日) 「私の口は絶えず語り告げます。あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っておりませんが。」…詩篇71:15 「あなたの義によって私を救い 助け出してください」、「わが神よ 私を悪者の手から助け出してください…」。詩人はそのように、神に願い求めています(2,4節)。自らのいのちが敵に狙われ、不正を行なう者や残虐な者に捕らえられようとしている中にあって(4,10節)、詩人は、敵が言うように(11節)、神が遠く離れてしまったのでは…との思いに駆られることもありました(12節)。しかし、それを振り払うかのように、詩人は目を天に向け、「しかし私は 絶えずあなたを待ち望み いよいよ切に あなたを賛美します。」と告白しているのです(14節)。詩人のその口はまた、神の義と救いを人々に語り告げ、自分自身にも言い聞かせるものとなっていましたが、彼は「そのすべてを私は知っておりませんが」と言っています。神の義と救いがいかに大きく、自分はそのほんの一部しか知り得ていないということを覚え、主への感謝と畏れをもって、詩人はそのように告白しているのです。神の義と救い…それは、神が正しい方であり、主権をもってご自身のみこころにかなう者を悪しき者から守り、助け出し、そのことを通してご自身の栄光を現されるということです。詩人は、悪者の言動に心が揺り動かされつつも、その神の義が地の上に貫かれ、救いがなされ、正しい者たちが決して恥を見ることがないことを信じて、「ただあなたの義だけを心に留めて」(16節)と言って、主にある希望を抱き続けようとしているのです。「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」。パウロもそのように言っています(1コリ8:2)。偉大な神の義と救い…それは人間の考えをはるかに越えたものであって、私たちは、ただその神のみわざの現れを待ち望むべきなのです。人にとっては奇跡(7節)と思われる主のそのみわざは、神にとっては必然のこと、御旨にかなったことなのです。そのことを覚え、主を賛美したいと思います。 神の義と救いを証しする者とされますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 9章37-50節◇(2月3日) 「…あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」…ルカ9:48 弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がりました。誰がそれを言い出したのか、また、どのような基準によってそれを決めようとしていたのかは不明です。どれだけ多くの癒やしや悪霊追い出しのわざをなすことができたのか…(6,40節)、主が山に登ったときに連れていってもらったか…(28節)、主の質問に正しく答えることができたか…(20節)など、彼らはさまざまなことを挙げつつ、熱心に議論していたに違いありません。そのように弟子たちは、自分が認められたいという承認欲求、他者よりも抜きん出たいという競争心を持っていたのです。もうすぐ人々の手に渡されるようになる…と、主がご自身の苦難を予告されたにもかかわらず(44節)、弟子たちはそのような議論で白熱していたのです。主イエスはそんな彼らの心を見抜いておられました。しかし、彼らを非難したり叱責したりせず、一人の子どもの手を取って脇に立たせました。そして、このような子どもを受け入れる者、すなわちその小さく弱い存在を認め、また、子どものような純真な心を持つ者こそ、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた父を受け入れる者だ…。そして、自分はこの子のように一番小さい者だとへりくだり、自分は人より偉いなどと主張しない者こそ一番偉いのだ…と、主は弟子たちに告げられたのです。私たちはしばしば、あの人のようにはできない…と落ち込んだり、あの人は何もやっていない…と他者をさばいたりしてしまいます。しかし、自分と他者を比較するそのあり方は、主に喜ばれるものではないのです。主は、「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのであり(23節)、その負うべき十字架、主に従う道は、それぞれに備えられているのです。「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねたペテロに対し、主は、「あなたに何の関わりがありますか、あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハ21:22)。脇目もふらずに主にだけ目を留め、従って行きたいと思います。 絶えずへりくだって歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 9章1-17節◇(2月1日) 「すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」」…ルカ9:13 主イエスは、弟子たちにご自身の権威と力を授けられ、神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために、彼らを人々のところに遣わされました。すると12人の弟子たちは、村々を巡り、その権威と力を用いて成果をあげました。彼らが帰って来てそのことを報告した後、主イエスは彼らを連れてベツサイダに退きましたが、追ってきた群衆のために、宣教と癒やしの働きを日が暮れるまで行い続けたのです。すると、見かねた弟子たちは、群衆を解散させ、めいめいが里に行って食べ物を確保するよう促すべきだと、主に進言しました。ところが主は彼らに対し、あなたがたが食べ物をあげなさい、と命じられたのです。弟子たちは当惑し、また反発しました。群衆の数は男性だけで約5千人もいるのに、手元にあるのはたった5つのパンと2匹の魚だけ…一体どうやって全員に食べ物をあげるのか…そのために自分たちが里まで行って、食べ物を大量に買って持って来なければならないのか…と。そんな彼らの思いを知っておられた主イエスは、そのわずかな手元の食べ物を取り、神に感謝と賛美をささげてそれを裂き、弟子たちに渡して人々に分配させました。すると全員が食べて満腹し、必要は満たされたのです。「小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり…」(ルカ16:10)。それは、小さなことを軽視するな…とという意味だけではありません。主イエスから権威と力を授けられた弟子たちは、村々を巡って成果をあげましたが、何千人もの人々の空腹を満たすという大きなチャレンジに対しては、その重圧に押しつぶされるかのように、自らの信仰を働かせることができませんでした。しかし主は、事の大小にかかわらず信仰をもってそれを行うこと、そしてご自身の命令に忠実に従うことを求めておられるのです。そのような者でありたいと思います。 どんなときにも主に信頼することができますように。 |