◇聖書箇所: ルカの福音書 18章15-30節◇(3月31日)

「イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」」…ルカ18:22

18-25節には、ある金持ちの指導者と主イエスとの対話が記されています。何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるのかと尋ねる彼に対し、主が、イスラエルの民なら誰もが知っている十戒に触れるとその人は、それらは子どもの頃からすべて守っていると、自信たっぷりに答えました。すると主は、いや、まだ一つ欠けていることがある、それはあなたの持ち物を全部売り払い、得たものを貧しい人たちに分けてやることだ、その上でわたしに従って来なさいと、主は彼に告げたのです。それを聞いた彼は非常に悲しんだ、大変な金持ちだったからだと、ルカは記しています。金持ちであること自体は、永遠のいのちを得る上での妨げにはなりませんが、彼にとって、持っている財産への執着が大きかったため、それを手放してイエスに従うことは困難だったのです。主はその人に、財産を貧しい人々に分け与えるならば、天に宝を持つことになるのだ、と言われました(22節)。人は、この地上に財産を蓄えようとするなら、そのことで心が縛られてしまい、天にある神の国の祝福にあずかることや、永遠のいのちを受けることが二の次になってしまうのです。目に見えない霊的なもの、天的なものよりも、目に見える地上のものを第一としてしまうのです。ルカはその記事の前に、幼子たちを呼び寄せた主のことを記しています(15-17節)。幼子たちは、多くの富を築くことなど、まったく考えていないでしょう。彼らを連れて来た人々も、幼子たちが主イエスに触れていただくことによって、神の国の祝福にあずかることができると期待していたでしょう。主は、そのような純粋でひたむきな心を喜ばれたのです。しかし、金持ちの指導者や幼子たちを遠ざけようとした弟子たちはそうではなかったのです。神の国を、主ご自身を、切に求めたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 17章20-37節◇(3月29日)

「あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」…ルカ17:34-35

神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられた主イエスは、神の国は目に見える形で来るものではない、神の国はあなたがたのただ中にある、と言われました(20-21節)。そのように神の国は、肉の目で見る地上的なものではなく、神のご支配として現される霊的なものであって、それは、主イエスとともにすでに地上に到来し、人々に救いといやしと解放をもたらしていたのです。主はさらに、弟子たちに対して、人の子の日について教えられました。人の子とは、メシア、つまり主イエスご自身のことであり、人の子の日とは、主が再び地上に来られる再臨の日、神のさばきがなされる終わりの日のことです。主は、その日に起こるのは、ノアの時代に起こった洪水や、ロトの時代に起こった、ソドムへの火と硫黄によるさばきと同じようなことだと言われました。人の子の日は、そのように、突然やって来るのです。ノアの時代もロトの時代も、いつものように人々が飲み食いし、日常の生活をしていたところに、その日が突然やって来たのです。そして、そのとき起こった洪水や火と硫黄によって、ノアやロトの家族以外の、そこにいたすべての人が滅ぼされてしまったのです(27,29節)。しかし、人の子の日においてはそうではありません。主が、「一人は取られ、もう一人は残されます」と言われたとおり、イエスをメシアと認め、神の国の福音を信じる者たちは、神のみもとに引き上げられて永遠のいのちにあずかりますが、そうでない者は、神によってさばかれ、永遠に苦しまなければならないのです。そのように、私たちの前には2つの道があり、それ以外の道はないのです。そして、すでに主に贖われている私たちは、その人の子の日が必ず来るということを人々に伝えるという、重要な役割を担っているのです。置かれたところで、その働きを主にあって果たす者でありたいと思います。

主がともにおられます。祝福がありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 17章1-19節◇(3月28日)

「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」」…ルカ17:10

主イエスは、「私たちの信仰を増し加えてください」と要求した使徒たちに対して、まず、からし種ほどの小さな信仰さえあなたがたが持っていれば、桑の木も従うのであって、信仰を「もらわなくては」と考えなくてもよいのだ…と言われました(6節)。そしてさらに、しもべはどうあるべきかについて、彼らに教えられたのです。おそらく主は、弟子たちの心の中に、自分たちの信仰が「増し加えられれば」、これまでも行なってきた、人々の病気を癒やしたり、悪霊を追い出したりする働きを、もっと多くなすことができるのに…という考えがあり、それによって人々から称賛を得たいという人間的な願いがあることを、見抜いていたのです。だからこそ主は、彼らがご自分のしもべとして徹するようにと願い、その教えを語られたのに違いありません。その教えでは、野での仕事を終えて帰ったしもべは、すぐに食卓に着くことなく、主人の食事の給仕をし終えてから自分の食事を取っていますが、それは、主人が意地悪なのではなく、人権の侵害でもなく、しもべの立場と役割を考えれば当然のことです。もしそれに対して文句を言ったり、特別な報酬を求めたりするとしたら、それは筋違いであって、しもべとしてふさわしくないのです。そのように、主のしもべとして、なすべき当たり前のことを忠実に行なう者となる…。それは必ずしも容易なことではありません。なぜなら、私たちの罪の性質が、いつも「自分」を主張しようとするからです。しかし私たちもまた、主に贖われた者であり、そのことを感謝し、主の前にへりくだり、自分は取るに足りない者です…なすべきことをしただけです…と告白し、主が求めておられること、主のみこころを進んで行なうべきなのです。そのようにして、主に喜ばれる者、用いられる者でありたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 16章14-31節◇(3月27日)

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」」…ルカ16:15

あなたがたは神と富とに仕えることはできない、と主イエス弟子たちに告げられたのを聞き(13節)、金銭を好むパリサイ人たちはイエスをあざ笑っていました。すると主は、ある金持ちのたとえを彼らに話されました。その金持ちはぜいたく三昧の生活をしていましたが、彼の家の門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ており、その金持ちの食卓のおこぼれをもらいたいと願っていました。やがてその二人とも死に、ラザロはアブラハムの懐に連れて行かれましたが、金持ちはよみの炎の中で苦しみもだえ、ラザロをよこして舌を冷やさせてくれと、アブラハムに訴えたのです。しかし、アブラハムは彼に対し、生きている間おまえは良いものを受け、ラザロは悪いものを受けた。ここではその立場が逆転するのだ、こことよみの間には大きな淵があって、それを越えることはできないのだ、と告げたのです。金持ちはなぜ、ラザロがいる所に行くことができなかったのでしょうか…。裕福であったこと自体がそれを妨げたわけではありません。また、貧しいラザロに十分な施しをしなかったことが、単に問題とされたのでもありません。それは何よりも、この金持ちが富に仕え、神に仕えようとはしなかった、すなわち、その心がお金に縛られ、支配されていたからです。ラザロに対する愛やあわれみの心を持とうとせず、施しを行なわなかったことは、すべてそこに起因していたのです。そして主は、そのたとえを通して、そこで金持ちとして表されているパリサイ人たちのあり方、偽善を、厳しく批判されたのです。「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです」(ルカ12:34)。お金は必要なものであり、それ自体が悪なわけではありません。しかし金銭に仕えようとする弱さが自らのうちにあることを覚え、そうならないよう、主の守りと導きを祈り求めたいと思います。

主のみこころを行う者とされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 16章1-13節◇(3月26日)

「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。」…ルカ16:11

「不正な管理人のたとえ」と呼ばれている記事の箇所です。その内容をどう理解すればよいのかと多くの人が悩む、難解なみことばであるとされています。確かにこの世の「常識」によれば解釈は困難かもしれませんが、主イエスが一貫して「神の国の奥義」を人々に教えておられることを覚えつつ、その文脈と視点からこのところを見ていくと、いくつかのことに気づかされます。主イエスが弟子たちに語られたこのたとえは、1節から8節までの部分であり、9節以降は弟子たちに対する教えとなっています。主人(神)は、管理人が不正をしたこと自体をほめているのではなく、管理人が賢く行動したことをほめているのです(8節)。新改訳第3版では「抜けめなくやった」と訳されていますが、解雇という窮地に立たされた管理人が、知恵を絞って考え、機会を逃さずうまくやったこと、すなわち、主人の債務者たちの借金の額を割り引いてやり、その者たちに貸しを作ったということが称賛されているのです。ここでの「不正の富」とはどういう意味でしょうか…。主イエスは取税人や罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしていましたが、そのことは、律法学者やパリサイ人たちによっては、彼らの罪を赦すことであり「不正」な行為であったのです。しかし、この世の基準ではなく、硬直的なパリサイ人たちの律法理解でもなく、何よりも主イエスがもたらされた神の国の価値観によれば、罪人たちもまた神の好意にあずかっているのであって、それを分かち合うことが「不正の富」であり、それによって人々の罪の債務は帳消しにされるのであり、主イエスは弟子たちに対し、そのようにせよと教えられたのです。そのように、主の弟子たちに求められていたのは、この世の基準ではなく御国の価値観を持ち、人々を受け入れ、赦し、御国の祝福(=まことの富)を押し流すことでした。私たちもそのような者とされて用いられたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 15章25-32節◇(3月25日)

「「だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」」」…ルカ15:32

放蕩息子のたとえの後半です。その息子には兄がいました。兄が畑仕事から帰って家に近づくと、宴の音が聞こえてきました。何事かと事情をしもべに尋ねると、弟が戻ってきたことを祝う宴だというのです。兄は怒って家に入りませんでした。そして彼をなだめる父に対して、放蕩した弟になぜそんなことをするのか、私には子やぎ一匹くれなかったくせにと、文句を言ったのです。兄の言い分、それは、自分はずっと父に仕え、戒めを破ったことも一度もない…。それなのに、もらった財産を食いつぶした弟がこんな扱いを受けるのは、おかしい、道理に合わない、不公平だ…というものでした。ところが父は兄に、おまえは私からの恵みをいつも受けて来たではないか…。しかし弟はそうではない…すべてを使い果たして死んだも同然であって、その弟が生きて帰って来たのだ、喜び祝うのは当然のことだ…と言ったのです。弟は罪を犯した。飢え死にしそうになったのは自業自得だ。自分が悪いのだから、その報いは当然のことだ。そんな弟に対する父の扱いは理不尽だ!…。このたとえにおける兄のその思い…それは、罪人たちと食事をしている主イエスを苦々しく感じていた、パリサイ人や律法学者たちの思いを表しています(2節)。そして、同じように自分は正しいと自己義認化し、そうでないと思われる人をさばく心は、私たちのうちにも少なからずあるのです。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラ2:21)。「恵み」とは、それを受ける価値がない者に、神の好意として一方的に与えられる祝福です。それは、因果応報というこの世の価値観、「兄の思い」とは相容れないものであり、放蕩息子=私たちが、父=神から受けている破格の扱いにほかならないのです。キリストにあってそのような扱いを受け、恵みを受けていることを、主に感謝したいと思います。

すべての栄光が主にありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 15章11-24節◇(3月24日)

「「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして彼らは祝宴を始めた。」…ルカ15:24

よく知られた「放蕩息子のたとえ」の前半です。そこでは、父の大きな喜びが強調されています。それは、自分の息子が「死んでいたのに生き返り」、「いなくなっていたのに見つかった」からです。そしてそこから、愛する息子を失ったことによって、父のうちにどれほどの深い悲しみと痛みが生じていたのかを教えられるのです。父は、帰って来た息子に対して、分けてやった財産を使い果たしたことを反省せよ…とも、財産はもう一銭もやらない…とも言いませんでした。父は、息子が、どれほど辛い思いをしたのか、そして、受け入れてもらえるか不安に思う中、勇気を出して戻って来たことや、自分の罪を天におられる神の前に悔いていることも、すべて知っていたのです。だからこそ、まだ家までは遠かったのに、駆け寄って息子を抱き、口づけしたのです。息子が「雇い人の一人に…」と言おうとするのをさえぎるようにして、一番良い衣をこの子に着せ、肥えた子牛を屠り、祝宴を開くようにと、しもべたちに命じたのです。息子は、食べるものがなくなり、飢え死にしそうになったとき、我に返りましたが(17節)、それは、自分のそれまでのあり方が間違っていたということに気づかされ、それを認めたということです。実際、彼はその後、父の元に帰ったときに、どのように自らの罪を告白し、謝罪すべきか、そのことばを口にしていたのです(18節)。そしてそれは、天の父に確かに聞かれていたのです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(1ヨハ1:9)。このたとえにおいて、父は神であり、放蕩息子は、私たちを含む、身勝手で罪深いすべての人のことです。神は、キリストにあって、ご自身の元に立ち返る者を赦し、受け入れてくださるのです。失われていた者が戻ってくることを喜ばれるのです。そのことを覚えたいと思います。

神に愛されている喜びがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 14章25-35節◇(3月22日)

「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」…ルカ14:33

自分の家族、自分のいのちさえも憎み、自分の十字架を負い、自分の財産を捨てなければ、わたしの弟子になることはできない…と、主イエスは群衆に向かって言われました。その主のことばに接する私たちも、それをどう受けとめるべきなのか…と、困惑する思いになります。なぜ主はそのように言われたのでしょうか…。私たちの家族や自らのいのちは、神から与えられているものであって、むしろ感謝すべきものではないのでしょうか…。主イエスがそのように言われた意図、それは、安易な気持ちでご自分について来る者が群衆の中にいることを知られた主が、ご自身の弟子となることの重大さをきちんと理解し、その覚悟をしっかりと持って、途中で投げ出さずに最後までついて来る者となるべきだ、ということを、人々に伝えることにあったのです。言うまでもなく、主は、人のいのちを軽んじていたわけではないのです。そのとき主は、群衆にたとえを話されましたが、そこでは、必要な費用を算出せずに塔を建て始め、資金不足で途中で頓挫させた者や、多くの兵を擁する敵の来襲に対し、自軍の兵力での勝算を見積もる王のことが語られています。両者に共通するあるべき態度とは、「まず座って」よく考えるということです。つまり、見切り発車で始めてしまい、途中で投げ出すことがないようにせよ、後のことまでよく考えてから行動せよ、ということです。「まず座る」という動作は祈りを暗示しています。主にみこころが何かを尋ね求めつつ、熟考するのです。また、憎み、捨てよとの主のチャレンジはすべて、「自分の…」に対してのものです。これは自分のもの…と抱え込んだまま主について行く者は、弟子としてふさわしくないのです。すべてを主に明け渡すことが、主の弟子には求められているのです。自らのいのちさえも献げられた主イエスに倣い、また、舟や網を置いて主に従った弟子たちに倣い、主に従い通す者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 14章15-24節◇(3月21日)

「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。」…ルカ14:24

主イエスが、食事のふるまいをするときには貧しい人やからだの不自由な人たちを招きなさい、と語ったのを聞き(13節)、一緒に食卓についていた客の一人はイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました(15節)。すると主は、一つのたとえを用いて、神の国について彼に説き明かされたのです(16-24節)。そのたとえにおける宴会では、多くの人々が招待を受けていました。しかし、主催者のしもべが、用意ができて食卓が整ったことを知らせると、その招待客たちは、自分の用事ができたことを理由に、宴会には出られないと、その時になって出席を辞退したのです。主人はそれを聞いて怒りました。そしてしもべに、急いで町に行って、貧しい人やからだの不自由な人たちを宴会に招くべく、ここに連れて来なさい、と命じたのです。主人の怒り…それは、招待客が直前になって出席を断るという、彼らの身勝手さや非礼さに対してでしたが、それ以上に、彼らが、緊急性がなさそうな自分たちの用事を、宴会よりも大切なことと考え、それを優先させたこと、つまり、自分が催した宴会への招待を軽んじたことに対して、主人は憤慨したのです。あるいは、彼らの断りの理由は、単なる口実であったのかもしれません。そのたとえにおいて、多くの人を食事に招いた主人とは神であり、自分のことを優先させて出席を断った客とは、選民意識を持ち、貧しい者やからだの不自由な人たちと一緒に食事をしようとはしない多くのユダヤ人であり、さらには、神の国を求めようとしないすべての人です。一方、招きに喜んで応じた貧しい人たちとは、異邦人であり、自らの貧しさを自覚し、神の祝福にあずかることを願い求め、それを最優先にする者たちのことです。そして主は、今も私たちに、そのような者となるようにと願っておられるのです。私たちにはやるべきことがありますが、神が命じるその優先順位を覚え、そのように、神の国と神の義を第一とする者でありたいと思います。

主との親密な交わりが持てますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 14章1-14節◇(3月20日)

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」…ルカ14:11

主イエスは食事の席に招かれた客人たちに対し、「宴で上座を選ぶ招待客のたとえ」を話されました。それは、実際に彼らが、その食事の席に着く際に、「上座」、つまり立場や身分が上位の者が座るべき席に、得意げな面持ちで着いているのに主が気づかれたからです(7節)。そもそもその客たちはなぜ上座に着こうとするのでしょう…。それはそこにいる他の人々から敬われることによって、優越感に浸ることができるからです。その食事会の主催者はパリサイ派のある指導者でしたが、上座に着こうとしたのは、おそらく門下のパリサイ派の者や律法学者たちであったことでしょう。彼らは会堂の上席や宴の上座を好む、と主イエスは言われました(ルカ20:46)。しかし主イエスが言われたように、より身分の高い人が後から来れば、上席に座っていた者たちは人々の前で恥をかいて、末席へと追いやられてしまうのです。しかし、最初から末席に着いているなら、主催者から上席に進むようにと促され、面目を施すことになるのです。私たちは宴に招かれても、まず上席に着こうとはしないでしょう。しかしレストランなどで丁重な扱いを受けるなら優越感を味わうし、逆にぞんざいな対応をされるなら、客に対してその態度はなんだ…と、憤慨するのです。それはある意味、自然な感情ですが、私たちの心がたびたびそのような思いで振り回されるなら、神がくださる平安や喜びを、奪われてしまうことになるのです。「高ぶりが来れば、辱めも来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴11:2)。罪人であった自分が、キリストに贖われ、赦され、今も生かされている…。私たちが自らの救いを覚えて感謝するなら、自我は砕かれていきます。神であられるのにご自分を低くして十字架にかかられた主イエスに倣い、神と人々の前に謙遜に歩む者へと、御霊の働きによって確かに変えられていくのです。そのことを日々、主に祈り求めたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 13章1-17節◇(3月18日)

「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」…ルカ13:5

ある人たちが主イエスの元に来て、ユダヤ総督であるピラトが、ガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、と報告しました。その詳細は不明ですが、複数のガリラヤ人が何らかの罪を犯して処罰を受け、人々への見せしめのために流された血が、祭壇へのいけにえの血にに混ぜられたのかもしれません。それを聞いた主は、シロアムの塔が倒れて18人が死んだ事件のことにも言及し、それらの災難によっていのちを失った者たちは、他の者たちよりも罪深かったと思うのかと報告者たちに問われ、そうではない、あなたがたも自らの罪を神の前に悔い改めようとしないなら、みな同じように滅びることになる、と言われたのです。6-9節には、そのやり取りの後に主が話された、「実を結ばないいちじくの木のたとえ」が記されています。そこでの「実を結ぶ」とは、文脈から考えれば「悔い改める」ことであり、いちじくとはユダヤ人だけでなく、異邦人を含めたすべての人のことであって、主は、そのように、すべての人が罪を悔い改めて、主に立ち返ることを求めておられるのです。実を結ばない木がすぐに切り倒され(滅ぼされ)ないのは、神の愛とあわれみによるのです。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マル1:15)。それが、主イエスが人々に伝えたメッセージでした。そのように、主は人々に、罪を悔い改めよと命じられ、さらに、ご自身がもたらされた福音、すなわち、メシアであるご自身を信じることによって与えられる救いを受け取るようにと、促されたのです。そしてその救いこそが、結ばれる「実」であるのです。「悔い改めて福音を信じる」…。それは、聖徒である私たちにも日々求められています。罪を認めて悔い改め、キリストにあってその罪が赦されているという良き知らせを、感謝をもって朝ごとに受け取りたいと思います。

救いの喜びが心に満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章49-59節◇(3月17日)

「あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。」…ルカ12:57

弟子たちにたとえをもって教えられていた主イエスは、群衆にもいくつかのことを語られました。現代にも、空の雲の形や風の向きから天気の移り変わりを知る、昔の人の知恵が伝えられていますが、当時の人々は、そのような方法によって天気や気温の変化を予測し、それに備えるということを皆が行なっていたのです(54-55節)。しかし、あなたがたは、そのように自然現象を見分けているのに、どうして今の時代を見分けようとはしないのか、何が正しいことなのかを、なぜ自分で判断しないのか…と、主は、人々のことを偽善者たちとさえ呼んで、そのようなあり方を厳しく批判されました(56-57節)。主イエスが人々に指摘したのは、この世に将来何が起こるかについて、神が聖書を通して告げておられるにもかかわらず、それに心を留めようとせず、今の時代に起こっているその兆候を見聞きしようともせず、将来に備えようとしないあり方です。また、何が神の目に正しいことなのか、すなわち神のみこころを自ら尋ね求めようとはせず、パリサイ人たちが勝手に定めた教えにもかかわらず、それらを無批判に受け入れ、それに従っていれば神からさばかれることはないと思い込み、安心し、彼らの言いなりになっていた受け身の態度であったのです。ともすれば私たちも、今を生きることに精一杯となり、将来必ず起こるとみことばが示していること、すなわち主の再臨とさばきに対して無関心になってしまいます。また、日々の歩みにおいて、何が神のみこころであるのかを主に尋ね求めようとせず、結果的に、この世の価値観や自分の感情に流されてしまいます。しかし主は、世の中に起こっている事象から今の時代をしっかり見分けるように、そして、日常の小さなことにおいてもみこころを祈り求め、何が正しいかを自ら判断するようにと、私たちに対しても願っておられるのです。漫然と日々を過ごすのではなく、起こっていることから今の時代を見分け、主のみこころを選び取る者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章22-34節◇(3月15日)

「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。」…ルカ12:28

「愚かな金持ちのたとえ」を人々の前で話された後、主イエスは、今度は弟子たちに対して、「何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい」(22節)と言われました。それは、漁師などの定職から離れ、主イエスに従っていくことを決心した彼らの中に、衣食住について心配する者たちがいたことを示唆しています。主はさらに言われました。烏のことをよく考えよ…人間のように穀物を育てて刈り入れることはしないし、倉も持ってはいない…。また、草花のことも考えてみよ…働きも紡ぎもしないし、明日炉に投げ込まれてしまうような存在だ…。しかし、神が彼らを養っておられるのだ。神が装ってくださるのだ。神が生かしておられるのだ。ましてや、私と行動をともにしているあなたがたに、神はどんなにか良くしてくださることだろうか…。それなのにあなたがたは、この私を、神を信頼しないのか、不安を覚えるのか…と、主は弟子たちに迫られたのです。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい」(29節)。その主のことばは、キリストに贖われて弟子とされた私たちにも語られています。それは、毎日同じものを食べて過ごせという意味ではもちろんありません。さまざまなメニューの食事を感謝と喜びをもって食することは、主のみこころです。しかし衣食住のことに心がとらわれ、満足できるものを絶えず追い求め、そうならないと思い煩うのであれば、そのようなあり方は間違っているのです。それは「この世の異邦人」、すなわち、神に信頼しようとしない者たちのあり方だと主は言われたのです(30節)。「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」(31節)。私たちのすべての必要を知っておられ、良いもので満たしてくださる神に、絶えず信頼して歩みたいと思います。

感謝と喜びが心にありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章13-21節◇(3月14日)

「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」」…ルカ12:15

主イエスが人々に語られた「愚かな金持ちのたとえ」が、16-20節に記されています。その金持ちは、自分の倉を大きなものに建て替え、そこに穀物や財産をすべて収納すれば、これから先何年も楽に暮らせると考えました。しかし神は、彼に対して「愚か者」と叱責し、おまえのたましいは今夜取り去られる、と告げられたのです。この金持ちはどこが愚かであったのでしょうか…。彼は自分のたましいに向かって「さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と言いましたが、それは、倉にため込んだ穀物や財産があれば、安心だと思ったからです。日々の労苦から解放され、楽することができると考えたからです。主イエスはそのたとえを話された後、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」と言われましたが、「神に対して富む者」とはどのような人なのでしょうか…。それは、神に拠り頼み、神から豊かな恵みをいただき、神に生かされる人のことです。しかし、この金持ちが拠り頼んでいたのは、倉の中に蓄えた穀物や財産であって、神ではなかったのです。「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」(マタ6:20-21)。倉に穀物を貯蔵し、財産を収納すること自体が悪いわけではありません。問題はその人の「心」です。すなわち、安心だ、大丈夫だと考え、希望と平安を持つ根拠をどこに置くのか、ということです。自分のいのちを支えてくれるのは財産ではありません。「その人のいのちは財産にあるのではない」と主が言われたとおりです。今、私たちの心はどこにあるのでしょうか…。地上の富を追い求めず、神に対して富む者、天に宝を積む者でありたいと思います。

まず神の国と神の義を求める者とされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 12章1-12節◇(3月13日)

「それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。」…ルカ12:7

パリサイ人と律法学者たちのあり方を非難した主イエスのところに、いつの間にか多くの群衆が押しかけ、身動きできないほどになりました。すると主は弟子たちに、いくつかのことを語られましたが、まず言われたのは、パリサイ人のパン種、偽善に気をつけよとの教えでした。偽善とは、その人が主張する「善」が偽りものであるということです。パリサイ人たちは律法に精通し、それを守り行うよう人々に教えていましたが、それは表向きの姿であって、彼ら自身、それを完全に守り通していたわけではなく、勝手に例外規定のようなものを作りだし、人知れず逃れ道を設けるという「裏」があったのです。主イエスは、彼らの偽善に注意せよと語ったあとさらに、「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません」と言われました(2節)。それは、人が愚かな知恵で何かを隠そうとしても、神の目にはすべてが明らかであって、やがてそのこともあらわにされ、公に知られるようになるということです。そのように神がなされるのだから、彼らの存在に心乱されないようにせよ、迫害されても恐れるな、何よりもすべてを知っておられる神を畏れよ、一切を神に委ねて心安らかにされよ、と主は言われたのです。当時、5羽の雀が2アサリオンで売られていました。1羽あたり2百円程度の安い金額です。しかし主は、そんな雀の1羽でさえも神に覚えられており、取るに足りないものとして忘れられるようなことはない、と言われました(6節)。さらに、弟子たちの髪の毛にも言及し、その本数が何本なのか、それも神に数えられ知られているのだ、そのあなたがたは、多くの雀よりも価値のある、特別な存在として造られ生かされている、と言われたのです。そしてそれは、主に贖われた私たちにも向けられていることばです。すべてを知ってくださっている主を畏れ、その主にますます信頼して歩む者でありたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章37-54節◇(3月12日)

「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」…ルカ11:42

一人のパリサイ人からの招きに応じて、主イエスは彼の家に入って食卓に着きましたが、食事の前にきよめの洗いをしないことに驚いている彼に対して主は、パリサイ人たちのさまざまな間違ったあり方を指摘されました。・内側が強欲と邪悪で満ちている(39節)。・正義と神への愛をなおざりにしている(42節)。・人々からの尊敬を好む(名誉欲に満ちている)(43節)。すると、そこに同席していた律法の専門家の一人が、そのことばは自分たちへの侮辱でもあると言って憤りましたが、主は彼に対しても、次のように指摘したのです。・律法を人々に負わせるのに自分たちはそれを負わなくても良いように抜け道を考えている(46節)。・先祖たちが殺した預言者たちの墓を建てて、それで責任を逃れようとしている(47節)。・知識の鍵を人々から取り上げ、神の国に入ろうとするのを妨害している。自分たちは入ろうとはしない(52節)。そのように、主イエスが辛辣なことばで批判したパリサイや律法学者たちは、偽善者でした。本音と建前を使い分け、裏と表の顔を持ち、形式的なこと、目に見える外面にこだわり、それを自分たちの思い通りにすることで満足する者たちであったのです。また彼らは自尊心が高く、人からほめられることが大好きであったのです。「わざわいだ」と訳されていることばは、新改訳第2版では「忌まわしいものだ」、新共同訳聖書では「不幸だ」と訳されています。主は、彼らが神の祝福にあずかれない不幸な者だと言われただけでなく、人々が神の祝福にあずかりたいと願っているのに、彼らがそれを邪魔しているのだ、わざわいそのものだ、忌まわしい存在だと非難しているのです。そのような面が自分のうちにもないか、彼らを反面教師として自己吟味したいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章27-36節◇(3月11日)

「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」…ルカ11:30

主イエスは、ご自身の周りに集まった群衆の数が増えてきたとき、ご自分を試みようとして天からのしるしを要求した者たちを意識して、「しるし」について語られました。「ヨナのしるし」のほかにはしるしは与えられない、人の子、つまり主イエスご自身が、この悪い時代のためにしるしとなるのだと、人々に告げられたのです。「ヨナのしるし」…それは、アッシリアの首都ニネベの町に神から遣わされたヨナが、その任務を拒んだために船から海に投げ出され、三日三晩魚の腹の中に置かれ、その後、陸に吐き出された彼がニネベの町にあらためて行って町が滅ぼされると警告すると、人々が悪い行いを悔い改めたので、神はわざわいを下すことを思い直されたという、ヨナ書に書かれている出来事を指しています。ヨナがニネベの人々のためにしるしとなったように、人の子がこの時代のためにしるしとなる…。主のそのことばには、ヨナがご自身の型であり、十字架で死に、葬られ、3日目によみがえること、またそれはユダヤ人だけでなく、異邦人を含めた全世界の民の救いのためであることが暗示されています。キリストによるその大いなる贖いのみわざは、人類の歴史上最大の出来事であって、そのしるしは、すべての時代のすべての人々が、自分のこととして受け取るべきものなのです。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテ3:9)。ニネベの人々をあわれみ、わざわいを起こすことを留められた神は、今の時代においても、福音を聞いて人々が悔い改めることを望んでおられるのです。主に贖われた聖徒として、先に救われたことを感謝しつつ、神のその救いのご計画の実現のために、遣わされたところで主のメッセージを伝えたいと思います。

それぞれの働きが尊く用いられますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章14-26節◇(3月10日)

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」…ルカ11:20

主イエスは、口をきけなくする悪霊を追い出しておられましたが、人々の中には、それは悪霊どものかしらベルゼブルによることであって、イエスという人物は、悪霊をあやつる魔術師のような存在だ、と考える者がいました。また別の者たちは天からのしるしを要求し、決定的な奇跡を起こせるかどうか試しました。それにより、イエスがどのような存在なのかを判断しようとしたのです。そのような心を見抜かれた主は、彼らに言われました。内輪もめする国は滅びるのだから、サタンの国でも、かしらとその手下どもとの間で争いが起きるはずがない…。だからわたしは、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのではない…。悪霊を服従させる権威は神のみが持っているのであり、それはわたしがもたらした神の国として、あなたがたのところにすでに来ているのだ…。主イエスはそのように彼らに説き明かされたのです。「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出している…」と主イエスは言われました。エジプト王ファラオのお抱え呪法師たちが、神が次々にエジプトに起こされるわざわいに接し、自分たちの秘術の限界を認めて、「これは神の指です」と言ったことが思い起こされます(出8:19)。神の指とはすなわち、神の力、神の権威を意味しており、神の国の本質を表すものなのです。その神の国は、主イエスが2千年前にこの地上にもたらされ、私たちの間に確かに存在し、今なお拡大し続けているのです。「もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと…」(22節)。彼とは、神に敵対し、人々を惑わす悪しき者、サタンのことです。そして、彼に打ち勝つ強い人とは、人々を罪の束縛、悪しき霊の支配から解放し、救いをもたらしてくださる、イエス・キリストなのです。キリストは今も生きておられ、御国の王として、すべてを統べ治めておられます。そのことを覚え、どのような状況にあっても、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

主にあって勝利する者とされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 10章25-42節◇(3月8日)

「彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」」…ルカ10:37

有名な「良きサマリヤ人のたとえ」が書かれています。ある律法の専門家が主イエスに対し、何をすれば永遠のいのちを受け継ぐことができるかと尋ねました。そこには、イエスを試みる意図があったのです(25節)。主イエスが律法はどう教えているのかと聞くと、彼はその道の専門家として即座に、申命記6章5節とレビ記18章5節の2つの戒めを挙げました。すると主は、その答えは正しい、それを実行せよ、そうすればあなたが求めている永遠のいのちを得ることができるのだ、と彼に告げたのです。すると彼は、では私の隣人とは誰か…と主に問いました。彼は、自分がその律法をちゃんと守り行なっているということを、主イエスに認めさせようと考えていたのです(29節)。ところが主は、その問いには答えず、たとえによって「隣人」の本当の意味を教えようとされたのです。そのたとえにおいて、強盗に襲われた人を見過ごしにした祭司やレビ人は宗教の専門家です。主は明らかに、目の前にいるその律法の専門家を意識しておられました。そして、傷ついた人をあわれみの心をもって介抱したのが、ユダヤ人から雑婚のあり方を非難され軽蔑されていたサマリヤ人であったというそのたとえを通して、主は、その律法の専門家に、律法の精神を理解しようとせず、ただ形式的、うわべだけの行動によって自分を正当化しようとする、律法主義者の誤ちを指摘されたのです。38-42節には、マルタとマリアという姉妹が主イエスとどうかかわったのかが書かれています。姉のマルタは主をもてなすという「形」にこだわって心が乱れ、主の足もとにただ座っている妹をさばいていましたが、イエスはそのマルタに「必要なことは一つだけ」、すなわち、ご自身を喜んで迎え入れる「心」だと言われたのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サム16:7)。形やうわべではなく感謝と喜びをもって主に仕え、愛とあわれみの心をもって困っている人を支援したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 10章17-24節◇(3月7日)

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」…ルカ10:20

イエスの弟子たちは、2人1組となって人々のところに遣わされ、イエスの御名により悪霊さえも追い出すことができることを体験し、喜んで帰って来てそのことを主に報告しました。それに対して主は、そのように、自分たちに与えられている権威によって、悪しき霊どもを服従させられること自体を喜ぶのでなく、自分たちの名が天に書き記されていることを喜びなさい、と言われました。その後、主イエスは、聖霊によって喜びにあふれて、それらのこと、すなわちご自身をメシアと信じて従う者たちの名が天に書き記されていることは、幼子、つまり、その神の子どもたちだけに知らされることであり、この世の賢者には隠されていることなのだと、祈りのことばとして神に向かって語られました。その「幼子たち」とはすなわち、すべての時代の聖徒たちのことなのです。主はさらに、ご自分がすべてを支配する権威を父から与えられていること(22節)、また、弟子たちが体験している驚くべき力、悪しき霊の服従、すなわち神の国の現れは、ご自身が来られる以前にはだれも見聞きできなかったものなのだ、と弟子たちに告げられました(24節)。主イエスは御国の王であられます。そしてこの地上に神の国を確かにもたらしてくださったのです。主に贖われたすべての聖徒たちは、天に名が記されている者、御国に国籍を持つ者であり、王なるイエスによる統治と祝福のもとにこの地上に生かされている、御国の民なのです。弟子たちが見聞きしたこと、体験したことは、神の国の豊かな祝福の一部に過ぎません。そして、神の子どもたちには、そのすべてを受け取る権利が、キリストにあって与えられているのです。そのことにしっかりと心を留めつつ、御国の民とされていることの感謝と喜びと誇りをもって、王なる主イエスに従っていきたいと思います。

御国の豊かな祝福にあずかる者とされますように。

◇聖書箇所: レビ記 19章19-37節◇(3月4日)

「あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」…レビ19:30

レビ記19章の後半にも、民が生活する中で適用すべき、さまざまな具体的な規定が書かれていますが、26-31節では、他国の異教的なあり方を避けるよう求められています。そしてそれらは、現代の社会の中にも見られることであり、私たちもまた、キリストにあって贖われた、信仰によるアブラハムの子孫、霊的なイスラエルの民として、それらを避けるように主から求められているのです。「まじないをしてはならない。占いをしてはならない」(26節)。まじないは「呪い」と書きます。人間的な力と方法により、災いや病を排除しようとすることです。占いもまた、運勢を自然現象やくじで判断することです。星占いは当たり前のようにメディアで取り上げられており、人々の心は無意識のうちにそれらに支配され、思いや行動において、悪影響を受けてしまっているのです。「自分の身に入れ墨をしてはならない。わたしは主である。」(28節)。入墨(タトゥー)は皮膚に針を使って色素を注入し、洗っても落ちない模様などを作り出すことです。それは元々異教の儀式でなされていたことであり、単なるファッションのようにとらえてはならないのです。私たちは、神によって造られ生かされている肉体を、聖霊が住まわれる宮として大切にし、きよく保つべきなのです。主は私たちに対し、自らのからだをもって神の栄光を現わすことを願っておられるのです(1コリ6:20)。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」(出20:8)。十戒のその大切な教えが30節にも出て来ます。キリスト者にとっての聖なる日は、キリストがよみがえられた週の初めの日、日曜日です。この日を旅行や買い物のためにではなく、何よりも主を礼拝し、罪の奴隷から解放された「出エジプト」を覚えて感謝し(申5:15)、みことばを通して主の御旨を受け取るのです。「イエスさま、あなたは私の主です」と告白し、その主に信頼して歩む決意を新たにするのです。そのことを覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 19章1-18節◇(3月3日)

「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」…レビ19:18

レビ記19章には、主がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒(出20章)が繰り返されていますが、18節には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という大切な第二の戒めとして、主イエスが引用し、人々に語られた教え(マタ22:39)が書かれています。レビ記を開き、その教えをあらためて読む中で気づかされるのは、「わたしは主である」ということばが、その後に書かれているということです。そしてそれは、主権者であられる神が、そのことをご自身のみこころとして、民に命じておられるということです。ですから、民はそれに対して、自分の思いや感情を越えて従うことが求められているのです。「わたしはあなたがたの神、主である」、「わたしは主である」と、他の戒めにおいても、何度も繰り返されていることに心が留まります。「わたしは主である」。またそれは、その戒めを人間的な努力、肉の力によって行おうとしても、そこには限界がある、ということです。律法とは、人がそのことに気づくために主が与えられたものであって、罪人である私たちは、ただ主の前にへりくだり、主のあわれみと恵みに拠り頼むしかないのです。そして、主の霊が臨むとき、完全ではなくても、主の御旨を行う者とされるのです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。主は単に、「あなたの隣人を愛しなさい」とは命じられませんでした。私たちと神との関わりは「縦」の関係、人々との関わりは「横」の関係だとよく言われますが、その横の関係が神の御旨にかなうものとなるためには、まず私たちの縦の関係が確かなものとされること、すなわち、自分がどれほど神に愛されているか、その事実を、頭ではなく心と霊で受け取ることが大切なのです。そのようにして初めて、私たちは、自分の隣人を、神に愛されている自分自身と同じように、真実に愛する者とされるのです。そのことを日々主に祈り求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 17章◇(3月1日)

「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」…レビ17:11

17章には血についての教えが書かれています。そして、その中心の思想は「肉のいのちは血の中にある」ということです。そのことは11節と14節に書かれてあり、14節では、いかなる肉の血も食べてはならないとあります。それは血がいのちそのものであるからであり、また血は宥め(贖い)のために用いられるものだからです。主は、イスラエルの民だけでなく寄留者も含め、血を食べた者に敵対し、民の間から断ち切ると言われたのです(10節)。そのようにレビ記に書かれている、主へのささげ物の血による宥め(贖い)は、イエス・キリストが流された血潮の予型です。そしてその血はささげ物が屠られる、つまり殺されることによって流される血でなければなりませでした。ですから、不慮の事故などで死んだ牛や羊をささげ物として会見の天幕の入り口に持ってきて、その血を使って宥めをすることはできなかったのです。へブル書の作者もこう言っています。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブ9:22)。新改訳3版では「血を注ぎ出すことがなければ」と訳されています。キリストは父のみこころに従い、十字架にかかり、太い釘で手足を打ち付けられ、ローマ兵により脇腹を槍で刺され、確かに神へのささげ物となって血を注ぎ出されたのです。そしてそれはキリスト自身の宥めのためではなく、罪と咎に満ちた私たちの贖いのためであり、傷(罪)のない神の子羊であるキリストのその尊い血が、死ぬべき者たちにいのちをもたらしたのです。主イエスは言われました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタ26:28)。キリストの血が、すべての人を罪から贖うだけでなく、永遠のいのちを与える代価であり、私たちがそれをただ恵みとして受けたことを覚えたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。