◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 3章◇(5月12日)

「しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」…ヘブル3:6

3章において鍵となっている一つのことばは「神の家」です。「モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に…」と(2節)、イスラエルの民をエジプトから約束の地へと導いた、偉大な指導者モーセについて、著者はまず言及しています。この場合の神の家とは、神の民、イスラエル民族であり、神は、モーセを通して、彼らを奴隷から解放し、エジプトを脱出させ、カナンの地を領土として彼らに与え、ご自身の祝福にあずからせたのです。続いて筆者は、それにまさる者としてイエス・キリストを指し示しています。モーセは、神の家の中の一人として、神の家が建て上げられるために忠実に仕えましたが、神の御子であるキリストは、油注がれた王として、イスラエルだけでなく全人類を神の家として建て上げ、神のみこころがなされるべく、忠実に治められるのです。「神の家」とは、神が所有者である家ということです。また神ご自身が建てられ、支えられるということです。そして神は、そこをご自身の住まいとされ、栄光と御力をそこに豊かに現わしてくださるのです。しかしもし私たちが、そこを「自分の家」にすべく、自らの力でそれを建てて守ろうとするならどうでしょう。その家はキリストという岩の上に建てられていないので、強風が吹き、洪水が押し寄せると、倒れてしまうのです(マタ7:27)。私たちは神の家とされました。しかしそれだからもう安心…というわけではないのです。「もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすえば、そうなのです」とあるとおりです。キリストは神の家を建て上げ忠実に治められますが、一方でサタンは、私たちからその確信と希望と誇りを奪おうとするのです。40年間荒野をさまよったイスラエルの民も、不信仰に陥り、約束の地に入ったのはわずかな信仰の勇者だけでした。そのことを覚え、忍耐と信頼をもってキリストに従い続けたいと思います。

恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 1章◇(5月10日)

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」…ヘブル1:3

ヘブル人への「手紙」とありますが、最初に挨拶もなく、誰がどこに宛てて書いたものかも明らかではありません。手紙というよりむしろ説教のようだとも言われるこの書簡は、ヘレニズム(ギリシャの文化)に染まった社会に生きるキリスト者たち、特に、多数のユダヤ人信徒がいた教会に宛てたものだと考えられています。また、読者が旧約聖書の知識を持っていることを想定しており、多くの聖句を引用していることが一つの特徴となっています。当時、キリスト教もヘレニズムの影響を受けていましたが、神の被造物である御使いを神と同じ存在と誤解し、御使いを礼拝する者がいました。さらに彼らは、キリストを御使いと同列に扱っていたのです。ヘブル書の著者は、手紙の冒頭から多くの聖句を引用して、その考えがいかに間違ったものであるかを強調しています。冒頭からキリストがどのような方かが示されています(2-3節)。神の御子であるキリストは、世界の創造のみわざをなされ、神の本質の完全な現れとして、そのことばと行いにおいて神を啓示され、世の罪人をその尊い血潮により贖い、力あることばによって万物を統べ治め、いと高き所で神の右の座に着いてとりなしておられるのです。その油注がれた預言者、祭司、王であられるキリストが、神に仕える存在である天使と同じはずがないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)。現代でも、キリストだけが救い主とするのは排他的だと非難し、寛大さと協調性を要求する声があります。しかしそれは人間から出た考えであって、その背後には、キリストを引きずり降ろそうとするサタンが働いているのです。キリストだけが「主」となっているかどうか、心の王座におられるか、日々、自分自身を吟味したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 76篇◇(5月9日)

「神が さばきのために地のすべての貧しい者たちを救うために立ち上がられたそのときに。」…詩篇76:9

1-7節には、敵を打ち砕かれるヤコブの神の輝かしさや威厳、その御名の偉大さが示されています。敵の放つ火矢、彼らが持つ盾と剣、頼みとする戦車や馬…それらはみな、神が怒りをもって倒されるので、どんな勇士にも手の施しようがないのです。だれも神の御前に立てないのです。ではその敵とはだれなのでしょうか…。詩人は、イスラエルやユダにとって大きな脅威となった、アッシリアやバビロンのような国を想起していたのかもしれません。また、7節のことばからは、そのような歴史上の者たちだけでなく、終末において滅ぼされるべきサタンのことが、預言的な意図をもって語られている、とも考えられます。9節には「地のすべての貧しい者たちを救うために」とあります。ヤコブの神が、ご自身の民だけでなく、すべての国民を救ってくださる方であることが示されています。主イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と言われましたが(マタ5:3)、「貧しい者」とは心の貧しい者、すなわち、自分の罪深さ、足りなさを認め、神のあわれみを求めて生きる、敬虔な人のことです。そしてそのような者は、終わりの日に神のさばきの座に立たされても、滅びに定められることはなく、救いにあずかることができるのです。天の御国において主とともに永遠に生きる者とされるのです。経済的な貧しさの中で神を非難する人がいます。逆に、富んでいても神を畏れる謙遜な人がいます。持てる富の多い少ないにかかわらず、自分がいかに貧しく、欠けだらけ、足りないだらけの者であるかを主の前に認めて、ひたすら神に拠り頼んで生きる者こそ、幸いなのです。「主は貧しい者を正義に歩ませ 貧しい者にご自身の道をお教えになります」(詩25:9)。悪と不正がはびこるこの世にあって、主の再臨、御国の完成を待ち望みつつ、公義を行なう者、主の道をまっすぐに歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 75篇◇(5月8日)

「まことに 神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる。」…詩篇75:7

神への感謝のことばで始まるこの詩篇の1節の最後には、「あなたの奇しいみわざが 語り告げられています」とありますが、続く2-5節では、神がなさるそのみわざが、主ご自身のことばとして語られています。神は、定めの時を決めてこの世を公正にさばかれるのであり、「地の柱を立てる」とはその別な表現です。地に悪と暴虐が満ち、正しい者の心が揺らいでしまうようになっても、神はそのようにしてご自身の義を打ち立てられ、主に信頼して従う者が倒れないようにしてくださるのです。また神は、「おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな」と、自らを誇る悪者どもに対して告げています。角は力や権威の象徴です。彼らは、神を畏れることなく、自分たちの力に拠り頼み、権威をまとい、傲り高ぶって横柄な態度を取り、また語る者たちなのです。しかし、そんな者たちがのさばるのを、神が放置されることはありません。7節にあるように、角を上げる者、すなわち、自らの力を誇って高ぶる者たちを神は低くされ、逆に、神の前にへりくだり、主に拠り頼む者たちを、神は高く上げられるのです。「杯」(8節)は神の怒りの象徴です。「混ぜ合わされた泡立つぶどう酒」とは、ぶどうだけで作られた純粋なものではなく、甘みを意図的に増したものであり、悪者どもはそれを喜んで飲み干しますが、悪酔いして気分が悪くなり、立てなくなるのです。「私は悪者どもの角を ことごとく切り捨てます。正しい者の角は 高く上げられます」(10節)。詩人はそのように言っていますが、もちろん、詩人自身が切り捨てるわけではなく、義なる神がそのようにしてくださると、信仰をもって告白しているのです。私たちもしばしば、自分の弱さを認め、主に拠り頼むことに抵抗を感じ、自分の力だけで事をなそうとしてしまいますが、神が高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高く上げる方であることを、しっかりと心に留めて歩みたいと思います。

主にすべてを明け渡すことができますように。

◇聖書箇所: 詩篇 74篇◇(5月7日)

「神は 昔から私の王この地において 救いのみわざを行う方。あなたは 御力をもって海を打ち破りその水の上の 竜の頭を砕かれました。」…詩篇74:12-13

この詩篇が書かれた年代は不明ですが、「敵」が聖所を荒し、火で焼き払い、シオンの山が汚されているとあることから、バビロンによるエルサレム神殿の破壊のときなのかもしれません。詩人には、神がご自身の民に怒りを燃やし、敵の振る舞いを容認し、何もせずに放置しているように思えました。そして詩人は、そのことに怒りさえ覚え、なぜですか、いつまでですか、と繰り返して問いただし、神の対応を非難しているのです(1-11節)。しかし詩人は、そのように現状を目を向けることをしばしやめ、静まって、神がかつてなされたみわざを思い巡らしています(12-17節)。それは、神が初めに天と地を創造されたときにまで及ぶものであり、その黙想の中で詩人は、創造者であり全能者なる神の、力と義と真実をあらためて教えられたのです。またその神が、「私の王」であることを示され、個人的な関係を取り戻し、「あなた…あなた…」と、繰り返し親しく呼び掛けたのです。その静まりを経て詩人は、なぜ、いつまでと神に問い詰めることをやめました。そして、心に留めてください、忘れないでくださいと、神の好意とあわれみを求めてへりくだり、偉大な神は、虐げられている民に目を留め、敵の手から必ず救い出してくれるはずだと、神に全幅の信頼を寄せて祈り求める者となったのです(18-23節)。私たちも、現状を見て心奪われるなら、詩人と同じように、なぜ、いつまでと、神に不満をぶつけることに終始してしまいます。しかしそこから退き、静まり、主の偉大な創造と救いのみわざを覚えるなら、その神が私の神、私の王であることを認めるなら、私たちもまた、主をあなたと親しく呼び、力と義と真実に満ちたそのお方に、信頼をもって祈り求める者とされるのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10、口語訳)。日々そのようにして歩みたいと思います。

確信と平安が与えられますように。

◇聖書箇所: 詩篇 73篇◇(5月6日)

「しかし 私にとって神のみそばにいることが 幸せです。私は 神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。」…詩篇73:28

神を信じて誠実に歩んでいた詩人でしたが、つまずいて滑りかけるような不安定な歩みとなってしまいました。それは、3-12節に書かれているように、悪しき者たち、すなわち、神を信じない者たちが繁栄し、高慢になり、神を信じる者たちを嘲り、やりたい放題、言いたい放題であるのを見聞きし、そのことをねたみ、かつ、理不尽だと神を非難する思いが湧き上がっていたからです。しかし、あるとき、その状況は一変しました。それは、詩人が「神の聖所に入って彼らの最期を悟った」(17節)からです。聖所とは、文字どおりの神殿を指すのか、それとも、神の臨在の中に身を置いたということなのかは不明です。いずれにしても詩人は、そこでの神との深い交わりの中で教えられたのです。悪者の繁栄はあくまで一時的であって永遠ではないということ、彼らの最期は悲惨なものであるということ、神は真実なお方であり、正しい者が決して恥を見ることはないということを…。「私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした」(22節)。詩人は、自分が獣のように、悪しき者たちがのさばっていることに対して本能的に反応し、感情のおもむくままに神を責めていたことに気づきました。そして、主の前に自らの不信仰を悔い改めたのです。と同時に、主がそんな自分の手をしっかりとつかんで、離れないようにしてくださったことを知ったのです(23節)。そのように、不条理と思えることの中で、神から離れそうになった詩人は、神のみそばにいることの幸いをあらためて覚えてこう告白しました。「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。…しかし 私にとって神のみそばにいることが 幸せです」と(27-28節)。私たちの幸いとは、何よりも神のみそばにいて、主の愛と恵みを受け、御手で守られ、支えられることなのです。私たちも詩人に倣い、そのように告白したいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 26章27-46節◇(5月3日)

「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるとき、わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしが彼らの神、主だからである。」…レビ26:44

26章27-28節には、イスラエルの民がなおも、主に聞き従おうとせず、逆らって歩むなら、主もまた激しい憤りをもって民に逆らい、その罪に対して7倍重く、つまりそれまでののろいよりもはるかにひどく彼らを懲らしめるとあります。「これにもかかわらず」という表現に、数々のわざわいにも懲りない民の罪深さが示唆されています。29節以降にはその具体的なのろいが描写されています。民は飢餓に苦しむあまり、自分の子の肉を食べるというおぞましい行動に走るのです。また、民が慕っていた偶像の高き所は打ち壊され、バラバラになった偶像の上に民の死体が積み上げられるようになるのです。さらに、民は追われて国々の間に散らされ、住んでいた町は廃墟となり、あまりの惨状に敵も?然としてしまうのです。そのような中、生き延びた者たちも、神が彼らを臆病にさせるので、何でもない物音を恐れて慌てて逃げ惑い、折り重なって倒れ、そこで朽ち果ててしまうのです。しかし主は、民を根絶やしにされるのではありません。41-42節には、民がへりくだり、自分たちの咎の償いをする、すなわち真の悔い改めに至るなら、主は、民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされるとあります。そしてそれは、その契約を主が忘れていたというわけではなく、主が契約を確かにされる、それを破棄せずきちんと実行するという意味なのです。44節は驚くべき主の宣言です。「これにもかかわらず」逆らう民に対して、「それにもかかわらず」、主は彼らを退けず、絶ち滅ぼさず、彼らの父祖たちとの契約のゆえに祝福してくださるのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀3:22-23a,3版)。私たちも、主の恵みとあわれみを受け、キリストの血による契約の中にあることを覚えて感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 26章1-26節(5月2日)

「わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。」…レビ26:19

26章には、イスラエルの民に対する、神の祝福とのろいが書かれています。そしてそれは、民が神が定めた掟に従って歩むかどうかという、神が定めた基準によって、どちらがもたらされるかが決められたのです(3節)。4-13節は神の祝福です。地は産物を生じ、木々や穀物は実を結び、敵は倒れ、子孫が増し加えられるのです。それらは、神がアブラハムとの間に結ばれた、祝福の契約(創17:7)の成就にほかなりません。そして、その文脈の最後である13節には、「わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたを奴隷の身分から救い出すために、エジプトの地から導き出した…」と、25章38節で語られたことが繰り返されているのです。14節以降には、一転して、神が与えるのろいが書かれています。肺病や熱病に冒され、心も病み、野の獣が放たれて子や家畜が奪われ、疫病も起こり、敵の手に落ちて飢餓で苦しむようになるのです。その文脈中の19節には、「わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き」とあります。民が神の掟に聞き従わないのは、自分の力を頼みとし、神は不要だと高慢になっているからなのです。そしてそれは思い上がりであり、神はそのような心を持った者を、御前から退けられるのです。その神は、今も私たちに対して、わたしの教えに聞き従い、わたしの祝福を受ける者となるのか…。それとも自分の力を頼みとし、わたしののろいを受ける者となるのか…と、選択を迫っておられるのです。私たちはキリストにあって罪の奴隷から贖われた者です。束縛から解放され、くびきが砕かれ、自立して歩む者とされています(13節)。しかし、神の所有の民、主のしもべとして、みことばを通して示されている神の御旨に従って歩むこと、主の命令を守り行うことは、神の民にとって当然であり、そこに平安と喜び、祝福といのちがもたらされるのです。そのことをあらためて覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 25章29-55節◇(5月1日)

「わたしはあなたがたの神、主である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。」…レビ25:38

レビ記25章の後半には、住居の買い戻し、貧しい者への支援、奴隷などの身売りされた者の買い戻しについての規定が書かれています。38節のことばが、その貧しい者に対する教えの文脈の中にあり、「あなたがたの神となるために」と語られていることに心が留まります。主は、「あなたがたにカナンの地を与えるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した…」と言われたのではありません。主が民を奴隷から解放し、荒野の歩みを導いて約束の地に導き入れるのは、単にそこに安住させ、豊かな暮らしをさせるためではないのです。民が自由を享受して好きなように生きるためでもないのです。「あなたがたの神となるために」…。そう言われた主は、<わたしがあなたがたを守り、導き、すべての必要を満たすことを信じなさい…。わたしの主権を認め、わたしのことばに従順に聞き従いなさい…。そうすればわたしは、あなたがたの上にわたしの力と栄光を現わそう…>と、そのようなメッセージを民に伝えられたのです。私たちもかつては罪の奴隷であり、自由を奪われていました。48節以降には、身を売った奴隷も自分で自分自身を買い戻すためができるとありますが、私たちを罪の奴隷から買い戻すことができるのは、十字架にかかり、ご自身のいのちを代価としてくださった、イエス・キリストただお一人なのです。そしてそのようにして贖われた私たちは、霊的なイスラエルの民とされ、神の国の祝福にあずかっているのです。しかし、だからと言って、与えられた自由をはき違えてはならないのです。祝福だけを追い求める者であってはならないのです。私たちは神のしもべ(55節)、キリストのしもべであって(1コリ4:1)、主に忠実に仕え、御旨を行うべく生かされているからです。キリストがわたしの主となっているか、主に聞き従う者となっているか…と、自己吟味したいと思います。

救われた喜びが絶えずありますように。