◇聖書箇所: 列王記第二 1章◇(7月31日) 「…この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。」」…2列王1:13 屋上の自室の欄干から落ちて重体になったイスラエルの王アハズヤは、自分の病が治るかどうか、使者たちを遣わし、異教の神に伺いを立てさせようとしました。すると主の使いがエリヤに、アハズヤがそんなことをするのは彼がイスラエルの神を認めないからであり、彼は必ず死ぬと告げたのです。そこでエリヤは王の使者たちに会いに出て行き、そのように伝えました。戻ってきた使者たちから、エリヤから告げられたことばを聞いたアハズヤは、恐れを抱き、五十人隊の長とその部下をエリヤのところに遣わし、下りて自分のところに来るよう命じさせました。不吉なことを言うエリヤを殺すつもりだったのかもしれません。しかしその使者たちは2度も、天からの火によって焼き尽くされたのです。アハズヤは懲りずに3度目の使者たちを遣わしましたが、その五十人隊長は、エリヤの前にひざまずき、自分と部下のいのちを助けてほしいと懇願しました。しかしそれは、単なる命乞いではありませんでした。脚注によれば、「お助けください」の直訳は、「あなたの目に尊いものとしてください」という意味です。それは彼が、アハズヤを恐れることなく、イスラエルの神を畏れ、まことの神の御旨がなるよう願っていたことを暗示しています。主は彼のその心を知っておられました。だからこそ、主の使いはエリヤに、「彼といっしょに降りて行け。彼を恐れてはならない」と告げ、エリヤはそのとおりに行動し、結局、王は主のことばのとおりに死んだのです。私たちもまた、この世にあって、さまざまな権威の下に置かれます。しかし、決して人を恐れることなく、何よりも主権者なる神を畏れ、その主の目に尊いものとされることを願うべきなのです。どのような状況にあっても、主に信頼し、みこころがなるように願いつつ、主の導きに従って行動する者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 14章◇(7月30日) 「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。わたしの怒りが彼らから離れ去ったからだ。」…ホセア14:4 ホセア書の最後の章です。イスラエルの回復が約束されています。「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する」と…。「背信」とは「裏切る」ことですが、そのことばの語源は、信ずべきものに「背」を向け、他のものを「信」じるということです。イスラエルはまさに、信ずべきまことの神に背を向け、他のさまざまなものを信じて頼っていましたが、主は彼らのその背信の心を取り除き、赦すと告げられたのです。しかしそのように、主に再び愛される者として回復されるためには、イスラエルは主に立ち返らなければなりませんでした。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたは自分の不義につまずいたのだ」(1節)。「不義」とは、主の目に正しくないこと、「背信」の行為であって、それを認めて悔い改め、もう神に背を向けないと決意することが、主に立ち返るということなのです。そしてその際、イスラエルが主に願い、また告白すべきことばが2-3節に書かれています。「アッシリアは私たちを救えません。私たちはもう馬に乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』と言いません」(3節)。彼らは、他国であるアッシリヤによって、馬や戦車などの軍備によって、偶像の神によって守られ救われると信じていました。しかし、それらは頼りにはならない、救ってくれないということに、ようやく気づいたのです。5-7節には、民に対する神の怒りが離れ去ったあとのイスラエルの祝福が、ゆりの花、レバノン杉、オリーブやぶどの木などをたとえて描写されています。根を張り、花を裂かせ、実を結び、その輝きと香りが増して、ぶどう酒のような収穫をもたらす者となるのです。そのように、主に立ち返り、神に信頼する者こそ、祝福を受けるのです。キリストにあって神の民とされた私たちもまた、そこに加えられていることを覚えたいと思います。 主の祝福が満ちあふれますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 13章◇(7月29日) 「わたしはよみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖う。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」…ホセア13:14 ホセアが13章で描いているエフライム(イスラエル)…。それは、主を畏れ、自らを主の前に低くして歩んでいたのに、満ち足りると高ぶって、主の前につけあがる姿です。震えながら主のことを語り、主をあがめていたのに、バアルに心を寄せ、偶像に口づけしてしまう…(1-2節)荒野において主に養われ、食べ物を与えられても、感謝の心を持たず、食べ飽きたと不平不満を言う…(5-6節)。そのような罪深さ、愚かさを彼らは持っていたのです。そんな頑なな民を、主は取り扱わなければなりませんでした。7-8節では、獅子、豹、熊といった猛獣にご自身をなぞらえ、彼らを「食らう、引き裂く」と告げています。そこまでしなければ、イスラエルは罪深い歩みをやめようとせず、主の前に立ち返ろうとはしなかったからです。そのような彼らには「荒療治」が必要だったのです。しかし、イスラエルを愛しておられる主は、その「死」を通してもなお、彼らを救い出そうとされました。罪と死とよみの力から民を贖い、彼らをその束縛から解放すると約束されたのです(14節)。「死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか」。パウロはこのことばを引用し(1コリ15:55)、十字架と復活により贖いを成し遂げられたキリストを語っています。主の愛とあわれみによって生かされているのに、感謝せず、へりくだらず、高ぶる、つけあがる、不満をぶつける…。それは私たちのうちにも見られる罪深いあり方です。そしてその罪を赦し、救い出すために、キリストは来られたのです。そのキリストを信じ、キリストとともに死んでよみがえるなら、すべての者は罪と死の支配から解放され、永遠に生きる者とされるのです。その救いの恵みにあずかっていることを感謝したいと思います。 平安と喜びが心にありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 12章◇(7月28日) 「あなたは、あなたの神に立ち返り、誠実と公正を守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」…ホセア12:6 3-4節には、イスラエル民族の祖であるヤコブの歩みが語られています。兄エサウのかかとをつかんで母の胎から出て来たヤコブは、エサウの長子の権利を食べ物と引換えに彼から手に入れ、さらに父イサクをだまして、エサウが受けるべき祝福を横取りしたのです(創25,27章)。その後ヤコブは、母リベカの兄の元で働き、妻をめとり(12節)、兄エサウと再会しようとしますが、その途中、人の姿をした御使いと夜明けまで格闘してもものつがいをはずされ、自分の力に頼ろうとするあり方を砕かれ、主に拠り頼む者と変えられました。そして、ベテルで祭壇を築いたヤコブは、神との深い交わりの中で、ヤコブ(「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」の意)から、イスラエル(「神が支配される」の意)に改名せよと、主から命じられることとなったのです(創32,35章)。そのヤコブのことを、ホセアがここで引き合いに出しているのは、「エフライムは…アッシリアと契約を結び、エジプトに油を送る」とあるとおり(1節)、ヤコブの子孫である当時のイスラエルの民もまた、自分たちの知恵や力、人間的な策略によって生き延びようとしていることを指摘し、ヤコブが弱さを覚えつつも主に拠り頼む者と変えられ、ベテルで祭壇を築いたように、あなたがたも主に立ち返り、主の御旨にかなう歩みをし、主を待ち望む者となれと、民に訴えるためであったのです。しかし彼らは、自分たちのうちにある富、力、勤労の実を根拠とし、自分たちは正しい、罪となる不義はないと言い張って、主に従おうとはしなかったのです(8節)。そのような頑迷さは、私たちにも少なからずあります。しかし主は、しばしばそんな私たちの「もものつがいをはずす」ことにより、自らの弱さを覚えさせるのです。ベテルの祭壇を築かせられるのです。そのことを覚え、いつでも主に立ち返る者、常にへりくだって主に従う者、「神に支配される者」でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 9章◇(7月25日) 「彼らは主にぶどう酒を注がず、自分たちのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、これを食べる者はみな身を汚す。…」…ホセア9:4 イスラエルの民に対するホセアのことば(1-9,14,17節)と、主のことば(10-13,15-16節)が書かれています。主は、ご自身の民であるイスラエルを、荒野のぶどう、いちじくの木のように見られ、そこに好ましい実が実るのを期待しておられました。しかし彼らは、偶像であるバアルを拝んで身を委ね、彼ら自身、忌むべきものとなってしまったのです。主は、エフライム(イスラエル)の栄光は鳥のように飛び去り、子は産まれず、失われ、人がいなくなるようになると、わざわいを予告されました。本来子どもは、主の賜物、報酬としての胎の実です(詩127:3)。それなのに主がそのようなわざわいを下されるということは、神に聞き従わないイスラエルの歩みが、いかに神の怒りと憎しみを引き起こしたかを示唆しています。また彼らが、そこまでしなければ主に立ち返ろうとしない、頑迷な民だということなのです(15節)。そして、そのように霊的に堕落した民は、神を畏れて礼拝せず、きよいささげ物も献げず、主への感謝と賛美をもって楽しみ喜ぶというその本来の意義を忘れ、ただ自分たちの快楽のために主の祭りの日に集い、ぶどう酒を飲み、パンを食すのです。しかし、そのパンは霊的な意味で汚れており、それは主の宮に持ち込めないのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる…」(申8:3)。イスラエルの民は、何よりも、霊的なパンである神のことばを食し、それによって養われるべきであったのです。3節のホセアのことばは民が捕囚となることの預言ですが、そのようにするなら、たとえ彼らが異教の地にあってもきよく保たれ、立派な神殿がなくても真実に主を礼拝し、自らを主へのいけにえとし、主に喜ばれることができたのです。私たちも、みことばによって養われ、きよく保たれ、主が喜ばれる実を豊かに結ぶ者でありたいと思います。 主の御旨にかなう者とされますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 8章◇(7月24日) 「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののように見なす。」…ホセア8:12 「あなたの口に角笛を当てよ」と主はイスラエルに言われています(1節)。それは、鷲として表現されているアッシリアの襲来を知らせ、その敵と勇ましく戦うよう民を鼓舞するようにとの命令です。しかし、そもそもその敵は、民が主との契約を破り、偶像を慕って神のおしえに背いたゆえに、主ご自身が送られたものであるのです。イスラエルの民は、生活の豊かさと安定を求め、主に拠り頼むことなく偶像に頼り、また他国に贈り物をして、支援を期待していました。しかしそんな人間的な望みは、打ち砕かれるのです。彼らには主から律法が与えられており、その教えと戒めは心の板に書き記し、絶えず思い起こして守り行うべきものなのです。しかし彼らは、主を畏れず、それを他国人のもののようにみなして軽んじ、そこから主のみこころを尋ね求めなかったのです。そのようにして彼らは「善を退けた」のです(3節)。ともすれば私たちの信仰生活においても、みことばを読ことが形式的、表面的なものとなってしまうことがあります。単に知識として神を「知っている」とするなら(2節)、それで満足してそれ以上主を求めようとしないならば、そのようなあり方は主に喜ばれないのです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい」(申6:5-6)。主がご自身の民に求めておられるあり方、それは、心といのちと力を尽くして主を愛し、個人的な主との交わりのときを確保し、みことばを通して主の御旨を尋ね求め、主の御声を聴いてそれに従って歩む者となることです。そしてそれこそが、霊的な意味において、祭壇を築き、いけにえをささげ、霊とまこと、御霊と真理によって主を礼拝するということなのです。そのようにして、主が求めておられ、喜ばれる歩みを、日々重ねていきたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 7章◇(7月23日) 「エフライムは愚かな鳩のようで、良識がない。 エジプトを呼び求め、アッシリアに飛んで行く。」…ホセア7:11 4-7節ではエフライム(イスラエル)が「かまど」にたとえられています。かまどは料理のため、またパンを焼くために火が焚かれるところですが、ここではそのかまどは、権力者たちを引きずり下ろそうとする者たちの心の中に燃え上がる、悪しき企てのことを暗示しています。実際、北イスラエルでは、陰謀と暗殺によるクーデターが次々に起こり、10の王朝において19人の王が立ったのです。またイスラエルは、自国を周辺諸国の脅威から守るために、エジプトやアッシリアといった大国の力を頼みにすべく、それらの国と同盟を結ぼうとしましたが、主は、そのように、ご自身に拠り頼もうとしない彼らを非難しています(8-16節)。そして主は、彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き降ろされるので、その政治的な策略は失敗に終わり、彼らはアッシリヤの剣によって倒され、エジプト人から嘲笑されてしまうのです(16節)。他国との同盟は契約を取り交わすことによって成立します。しかしその契約は絶対不変のものではなく、さまざまな状況下での人の思惑によって、簡単に破られてしまいます。しかし、神がイスラエルの父祖たちと結ばれた祝福の契約はそうではありません。それは永遠に有効なものであり、キリストの血による新しい契約として引き継がれ、全きものとされ、イスラエルだけでなく、すべての国民に救いと祝福をもたらすものとなったのです。「わたしは わたしの契約を汚さない。唇から出たことを わたしは変えない」(詩89:34)。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(ヘブ13:8)。変わることのない主に拠り頼み、確かな主の約束、みことばに立って歩む者こそ幸いなのです。人はしばしば心変わりし、信頼を寄せる者を裏切りますが、主は、決してそのようなことがないお方だからです。人間的、地上的なものに頼ることなく、その主に心をしっかりと向けて歩み続けたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 6章◇(7月22日) 「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」…ホセア6:6 6章は、「さあ、主に立ち返ろう」という、ホセアが民に呼び掛けたことばで始まっています。イスラエルは主の教えに聞き従わず、偶像を慕って神の怒りを買いました。しかしホセアは、そのことのゆえに主が私たちを引き倒し、打ってもなお、いやし、包んでくださる方であると告白しています。また彼は、「主を知ることを切に追い求めよう」と促し、そうするなら主は、朝明けをもたらす暁の光のように確かに現われ、大雨のように来て地を潤してくださるのだ、と民に告げているのです。一方、主は、ホセアを通してこう語られました(4-11節)。「あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ」(4節)。そして、そのような彼らを切り倒し、口を開いてご自身のことばにより断罪し、闇を切り裂く光のようにさばきを送る、と宣告されたのです。主がイスラエルの民に求めておられるのは、何よりも、ご自身に対する真実の愛であって、形式的ないけにえではありません。多くの牛や羊を持って来て、全焼のささげ物として祭壇に供えても、それが単なる儀式としてのものであるなら、それは決して主に喜ばれないのです。「神を知る」。それは、神についての知識を得ることではありません。主が求めておられるのは、主の御前に進み行き、主のことばを聴き、主の御旨を悟ることです。そして、それで終わらず、主のことばに聞き従い、主のみこころのうちを実際に歩むことであり、それこそが主を真実に愛するということなのです。私たちがどんなに聖書に精通していても、そのような主との深い交わりを持っていなければ、また、多くのみことばを暗記していても、それらを実践していないなら、それでは、神を知っているとは言えないのです。「主を知ることを切に追い求めよう」。主のみわざ、御力を日々体験することにより、さらに主を深く「知る」者でありたいと思います。 主との交わりがますます豊かにされますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 5章◇(7月21日) 「エフライムは虐げられ、さばかれて打ち砕かれる。彼が自ら進んで人の決め事に従って歩んだからだ。」…ホセア5:11 「今や、エフライムよ、あなたは姦淫をし、イスラエルは汚れてしまった」(3節)。主はエフライムに対し、そのように指摘しています。エフライム族の割り当て地はカナンのほぼ中心にある丘陵地であり、民が主を礼拝するための神殿は、エルサレムに置かれる前は、そこの町シロにあったのです。そのことから、ここでのエフライムは、北イスラエル全体を指していると考えられます。「彼らは、自分の悪行を捨てて自分の神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあり、彼らが主を知らないからだ」(4節)。姦淫とは、主の妻であるイスラエルが不貞を働くこと、すなわち偶像礼拝を意味していますが、そのような罪を犯させる「姦淫の霊」が彼らを誘惑し、神から引き離していたのです。そして神の激しい怒りは、そのように姦淫の罪にまみれたイスラエルの上に注がれ、彼らは打ち砕かれてしまうのです(10-11節)。「彼が自ら進んで人の決め事に従って歩んだからだ」(11節)。3版では「彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ」と訳しています。人が考え、決めたこと、それは、偶像に拠り頼もう、という愚かで罪深いものです。またもっと広い意味では、人間的な知恵と考えに基づくものであり、それが真理に基づいておらず、主のみこころにかなっていないなら、まさにむなしいものなのです。ともすれば私たちも、安易に人の考え、教え、決め事を受け入れ、従ってしまうことがあります。しかし、すべてのことにおいて、私たちは、主のみこころを尋ね求めるべきなのです。へりくだって、主よ教えてください、導いてくださいと、主の知恵と導きを祈り求める謙遜さが、私たちには求められているのです。15節には「わたしの顔を慕い求める」と、主が民に求めるあり方が示されています。この世にあっても、神の民として、常にそのように歩む者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 2章◇(7月18日) 「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。」…ホセア2:19 2節から13節には、ホセアの妻ゴメルがイスラエルを表し、愛人に心奪われて姦淫の罪を犯す「母」として描かれています。そしてそのゴメルに対する夫ホセアの思いは、偶像や異教の神を慕い、神に背を向けて離れてしまったイスラエルへの、主の思いにほかならないのです。ゴメルが愛人たちとの生活で、物質的充足が得られると期待していたように(5節)、イスラエルもまた、真の神を捨て、豊作の神とされるバアルを慕い、拠り頼んでいました(13節)。しかし神は、そのような彼らを裸にし、その恥を暴き、ぶどうやいちじくの木々を荒れすたらせ(12節)、飢えと渇きで苦しむようにされるのです。そしてそのようなみじめな彼女は、バアルや誰によっても救い出されることはないのです(10節)。14-23節は、そのようなゴメルが表すイスラエルの回復と祝福の約束、預言のことばです。その日、彼女は、「私のバアル」を呼び求めるのではなく、「私の夫」、唯一まことの神に立ち返り、主を恋い慕うようになるのです(16節)。神とイスラエルの関係が、そのように、夫と妻の深い関係としてここに示されています。教会はキリストの花嫁です(エペ5:24)。また教会とは、エクレシア=聖徒たちが召し集められたところであり、キリストのからだの各器官である一人ひとりは、キリストの花嫁とされているのです。それはホセアとゴメル、神とイスラエル、キリストと教会、キリストと聖徒たちの間の霊的な関係を表し、その両者が夫婦としての深い結びつきの中にあるということです。そしてキリストの血によって贖われた私たちが、その新しい契約により、永遠の契りを結ばれている(19節)ということなのです。主はそのように、神以外のものに心奪われる私たちをも引き戻し、回復と祝福にあずからせてくださるのです。その主の真実の愛、変わることのない主の恵みとあわれみを覚え、感謝と賛美を主に献げたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: ホセア書 1章◇(7月17日) 「ユダの人々とイスラエルの人々は一つに集められ、一人のかしらを立ててその地から上って来る。まことに、イズレエルの日は大いなるものとなる。」…ホセア1:11 ホセアは、南ユダの預言者イザヤとほぼ同年代に生きた、北イスラエルの預言者です。当時、イスラエルの民は主に背を向け、霊的な淫行、すなわち偶像礼拝にふけっていました。そして主は、そのことに対するご自身の痛みと悲しみを、ホセアにも味わわせようとするかのように、彼に対して、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取るようにと命じられたのです(2節)。ホセアは主に従い、ゴメルという女性を妻としました。彼女は男、女、男と、3人の子を産みましたが、主はそれぞれに、イズレエル(地名・「散らされる」・「実を結ぶ」の意)、ロ・ルハマ(「愛されない」・「あわれまれない」の意)、ロ・アンミ(「わたしの民ではない」の意)という名を付けるようにと、ホセアに命じられたのです。主は、ロ・ルハマが生まれたとき、「わたしはもう二度とイスラエルの家をあわれむことはなく、決して彼らを赦さない…」と言われ、ロ・アンミのときも、「あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではない…」と告げられました。しかし驚くべきことに、10-11節には、そのイスラエルが回復して祝福されることが、ホセアを通して主から語られているのです。「イスラエルの子らの数は…海の砂のようになる」(10節)。それは、主がアブラハムと結ばれた契約の成就にほかなりません。主は、イスラエルの民が背信の罪を犯しても、愛と忍耐をもって彼らを導き、立ち返らせるのです。分裂したイスラエルとユダは再び一つとされるのです。そこには「一人のかしら」であるメシア、キリストが暗示され、霊的なイスラエル、すべての聖徒たちの回復と祝福という、終末的な出来事が預言されています。ますますその主を畏れて歩む者でありたいと思います。 主を待ち望む者とされますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇78篇 40-72節◇(7月16日) 「主は しもべダビデを選び 羊の囲いから召し出された。 乳を飲ませる雌羊の番から 彼を連れて来て 御民ヤコブを ご自分のゆずりの民イスラエルを 牧するようにされた。」…詩篇78:70-71 神は、ご自分の民をエジプトから連れ出し、羊の群れの先頭に立つ羊飼いのようにして、荒野における歩みを導かれました(52節)。そして、民の飢え渇きを満たすべく、天からマナを降らせ、うずらをも降らせて肉を食べさせ、岩から水を湧き出させて、彼らの必要を満たしてくださったのです(15,23,27,29節)。それなのに民は、わがままで、不従順で、神に逆らい、神を悲しませました(40節)。そして、約束の地として神から与えられたカナンの地でも、彼らの子孫は先祖たちと同じように神を裏切り、偶像の神に心を寄せ、神のねたみと怒りを引き起こし、多くの者が、敵の剣によっていのちを奪われることとなってしまったのです(56-64節)。しかし、あわれみ深い神は、そんな民を見捨てることはありませんでした。やがて、羊飼いであったダビデを選び、油を注ぎ、イスラエルの王として任命し、ご自身の民を牧する牧者、すなわち、民を守り、養い、導く者として立て、用いてくださったのです(70-72節)。その神は、2千年前、イスラエルの民のみならず、すべての国民が従うべき王として、ダビデの子孫、ユダ族の中から、イエス・キリストを立てられました。このお方は良き羊飼いとして、弱い羊たちを守り、養い、導かれるのです。また、失われた1匹の羊を必死になって捜し出し、大喜びで群れの元へ連れ戻される羊飼いなのです(ルカ15:4-6)。そしてその羊のように、神から離れてさまよっていた私たちが、神の元に戻ることができるよう、身代りとなって罪の刑罰を受け、十字架でいのちを捨ててくださったお方なのです。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」(ヨハ10:11)。どんなことがあっても、私たちの牧者であるこのお方に信頼し、しっかりとついて行きたいと思います。 主の御声に聞き従う者とされますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇78篇 23-39節◇(7月15日) 「しかし 神はあわれみ深く 彼らの咎を赦して 滅ぼされなかった。 怒りを何度も抑えて 憤りのすべてをかき立てられることはなかった。」…詩篇78:38 今日の箇所に書かれているのは、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野の旅を続ける中での出来事です。食べる物がなく、彼らがモーセとアロンに不平を言うと、神はマナと呼ばれるパンのような食べ物を朝ごとに天から降らせ、また、肉が食べたいと言う民にうずらを降らせ、彼らはそれらを食べて十分に満ち足りたのです。しかし、民の欲望はそれで収まりませんでした。詩篇の記者は「彼らがその欲望を手放さず」と言っていますが(30節)、それは民が、自分たちを養ってくださる神に感謝せず、エジプトにいたほうが良かった…なぜわれわれをそこから連れ出したのか…と不満をぶつけ、さらに、おそらく、もううずらは飽きた、他の肉も食べたい…と、欲望をエスカレートさせたからに違いありません。そのように民は、神が彼らを顧み、奇しいみわざを現してくださったにもかかわらず、自らの欲望を満たそうとし続けました。そしてそのような態度は、神への感謝と賛美とはほど遠いものだったのです。そこで神が、そのことを怒り、非常に激しい疫病で彼らを打たれると(33節、民11:33)、民は、一時的には神に立ち返りましたが、長続きせず、神に信頼しようとはしなかったのです。にもかかわらず、神は、彼らを絶ち滅ぼしはしませんでした。見捨てず、見放しませんでした。民を心に留め、その咎を赦し、支え、導き続けてくださったのです。詩人は「怒りを何度も抑えて」と言っていますが、そのように神は、愛とあわれみと忍耐に満ちたお方なのです。神の民とされた私たちも、「なぜこんなことになるのか…神はいるのか…いつまで続くのか…」と、神の奇しいみわざを認めず、不満に思うことがありますが、主に立ち返り、感謝をささげ、信頼して従い続けたいと思います。 主がすべての必要を満たしてくださいますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇78篇 1-22節◇(7月14日) 「それは私たちが聞いて知っていること。私たちの先祖が語ってくれたこと。それを私たちは息子たちに隠さず 後の時代に語り告げよう。主の誉れを 主が行われた力ある奇しいみわざを。」…詩篇78:3-4 詩篇78篇には、イスラエルの歴史において神がなされた、多くのみわざが記されていますが、最初の段落には「私の民よ…私の口のことばに耳を傾けよ」(1節)、「後の時代に語り告げよう」(4節)、「その子らに教えるようにされた」(5節)と書かれています。そのように主は、民がご自身のみことばと、先祖たちになされた力ある奇しいみわざを次の世代の者に教え、その彼らがさらに、次の世代の者たちに対してそれを語り継ぐことにより、ご自身への民の信仰が継承されるように願っておられるのです。その主は、海を分けて民を通らせ、エジプトの軍隊を海に呑み込ませたお方です(13節)、また水を岩から湧き出させ、民の渇きをいやされたお方です(15節)。さらに、昼は雲の柱、夜は火の柱となり、民とともにあってその歩みを守り導かれたお方なのです(14節)。しかし彼らの先祖たちは、確かに水は出たがパンや肉をも用意できるのか…と主を試み(20節)、神に信頼しなかったため、主の怒りが彼らに向かって燃え上がったのです(21節)。「それを私たちは息子たちに隠さず後の時代に語り告げよう」。なぜ「隠さず」とあえて言うのでしょうか…。それは民が、先祖たちや自分たちが犯した罪、失敗を、次の世代に率直に語ることにためらいを感じるからです。こどもたちから軽蔑されるのではないか…と恐れるからです。しかし、それらの苦い経験をも隠さずに語ることが主のみこころであり、後の時代の者たちはそれを教訓として学ぶのです。それはすべての世代にわたって共有されるべき、民にとっての貴重な「財産」なのです。聖書は良いことも悪いこともすべて明らかにしています。そこから学んだことを自らの歩みに適用し、また、次世代の者に自分の苦い経験をも分かち合いたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 22章29-53節◇(7月12日) 「王は死んでサマリアに運ばれた。人々はサマリアで王を葬った。それから戦車をサマリアの池で洗った。犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。」…1列王22:37-38 列王記前半(第一)の最後の部分です。イスラエルの王アハブは、ユダの王ヨシャファテとともにアラムと戦うべく、ラモテ・ギルアデに出て行きました。その際にアハブは、自分が助かるために変装して敵を欺こうとし、一方ヨシャファテには王服を着るよう要請するという、人間的かつ身勝手な態度でその戦いに臨んだのです。戦いがいよいよ始まりました。アラムの王は部下たちに、イスラエルの王だけを狙って戦うよう命じたため、王服を着ていたヨシャファテが標的になりかけましたが、当人ではないとわかると部下たちは追うのをやめました。そして一人の兵士が、イスラエルの王を狙ったわけではなく、「何気なく」弓を引くと、その矢はアハブを射抜いたのです。彼は重傷を負って夕方に亡くなりました。その王の遺体はサマリアに運ばれて葬られました。また彼が乗っていた戦車は血に染まり、池の水で洗われ、犬が血をなめましたが、それは主が語られたとおりであったのです。主はそのように、王でありながらイスラエルに偶像礼拝の罪を犯させた、アハブとその妻イゼベルにわざわいをもたらし、二人のいのちを取られたのです。主が預言者エリヤを通してアハブに、「あなたにわざわいをもたらす」と告げられたとき、アハブは粗布をまとって断食をし、主の前にへりくだったため、主は「彼の生きている間はわざわいを下さない」と言われましたが(21:29)、結局彼は、無残に戦死したのです。彼は預言者ミカヤを通し、その戦いで倒れると告げられていましたが、主の前にへりくだらず、そのことばを畏れをもって受けとめず、お抱え預言者たちのことばを信じて従い、戦いに出て行ったからです。そのアハブは、主ご自身によって退けられたのです。語られた主のことばをどう受けとめ、どう行動するのか…そのことが私たちにも問われています。そのことを心に刻みたいと思います。 みことばに心を深く留める者とされますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 22章1-28節(7月11日) 「ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」」…1列王22:14 アハブは、アラムのラモテ・ギルアデの町を奪い返そうと考え、ユダの王ヨシャパテに、一緒に戦ってほしいと申し出ました。それに対しヨシャパテは、まず主のことばを伺うことを求めたため、アハブが約4百人ものお抱えの預言者たちを集めて、それが主の御旨かどうかを尋ねると、彼らは口を揃えて勝利を告げ、戦うべきだと答えました。ところが、ヨシャパテはそれには納得せず、それとは違うことを語る預言者をなおも求めたのです。連れて来られたミカヤは、全イスラエルが山々に散らされているのを見たと告げ、戦いの敗北を預言しました。そればかりか彼は、アハブをその戦いで戦死させるために、預言者たちの口に偽りを言う霊を、主ご自身が授けられたのだと、見せられた幻から真相を明かしたのです。それを聞いたアハブは怒り、ミカヤを投獄させました。ミカヤは、王に良いことを述べよと指示されましたが、それを拒否し、主からのことばをそのまま告げると答えました。実際に彼のことばは、主に背いていたアハブにとって、悪いことばかりであったのです。危険をかえりみず、あくまでも主に忠実に従ったミカヤの態度から、主のしもべのあり方について教えられます。私たちもときに、主からのことばをあずかり、それを人に伝えるよう促しを受けます。その際には、当然、ことば遣いやタイミングには十分配慮をすべきですが、その内容が聞く人にとって「良いこと」でないとしても、私たちは、主からあずかったそのことばを、「預言者」として、そのまま伝えるべきなのです。ともすれば私たちは、相手を気遣い、伝えることをためらいがちですが、それは主から託されていること、主の前に果たさなければならない「務め」なのです。パウロもこう言っています。「…語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(エペ6:20b)。どんなときにも主を畏れ、主のしもべとして忠実に仕え、人々に対して、語るべきことをきちんと伝える者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 21章17-29節◇(7月10日) 「「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」」…1列王21:29 アハブは、ナボテが死んだと聞いて、彼のぶどう畑を取り上げようとそこに下って来ていました。すると主は、エリヤを遣わし、アハブに次のようなことばを告げさせました。人殺しのあなたの血を犬たちがなめる…わたしはあなたの子孫を除き去る…犬が妻イゼベルをも食らう…と。そしてそのさばきの宣告は、二人がナボテを殺害し、彼の所有地の強奪を計画しただけでなく、イスラエル全体に偶像礼拝の罪を犯させ、主の怒りを引き起こしたことに対するものであったのです(25-26節)。そのことばを聞くとアハブは、すぐに自分の外套を裂き、身に荒布をまとって断食し、打ちしおれて歩きました。すると主は、彼の生存中はわざわいをもたらさず、彼の子孫の時代にそれをなすと、エリヤに告げたのです。主がそうされた理由、それは、たとえ一時的であるにせよ、死への恐怖が動機だったにせよ、アハブが主の前に確かにへりくだったからです。彼は単なる見せかけとして、荒布をまとって断食したのではなく、そこに悔い改めの心が伴っており、主がそれを見られたからです。なぜアハブに容赦するのか…と私たちは考えるかもしれません。しかし、神はそうではないのです。重大な犯罪を犯して極刑に処せられる者でも、神の前に自らの罪深さを認め、へりくだるならば、主はその者に目を留めてくださるのです(ルカ23:41-43)。主がいかに恵みとあわれみに満ちたお方であるかを、あらためて教えられます。その主は、アハブのような悪を行なわなくても、神に背いて歩んでいた私たちをもあわれみ、御子の十字架と復活による罪の赦し、贖いを備えてくださいました。今なお、主のみこころに従い切れない私たちですが、みことばを通してそのことが語られ、示されたなら、ただちにへりくだって主に立ち返り、恵みとあわれみに満ちたそのお方に、賛美と感謝をささげたいと思います。 主を畏れて歩む者とされますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 21章1-16節◇(7月9日) 「ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」」…1列王21:3 アハブは、宮殿のそばにあったイズレエル人ナボテのぶどう畑を自分の野菜畑にしたいと願い、それ相当の代価を支払うから譲ってほしいと彼に持ちかけましたが、ナボテは王からのその申し出をきっぱりと断りました。すると、自分の願いどおりにならなかったアハブは不機嫌になり、ふて寝をして、食事も取らなかったのです。それを知った妻イゼベルは策をめぐらし、二人のよこしまな者に「ナボテは神と王を呪った」と偽りの証言をさせ、町の人々に彼を石打ちにして殺させました。それを聞いたアハブは、自分の望みが叶ったことを単純に喜び、さっそくその畑を取り上げるべく下って行ったのです。自分の思い通りにならないと気が済まないアハブの幼児性、駄々っ子のために何でもしてやる母親のように、平気で人のいのちを奪うイゼベルの残忍性、たとえ王からの要請であっても主の教えに従ったナボテの信仰深さ…。聖書はそれらを明らかにしています。土地は神の所有物であり、先祖のゆずりの地を他人に売り渡すことは禁じられていました(民数36:7)。ナボテにとって、アハブの申し出を承諾するのは、主ご自身に背くことでした。そしてそれは、「あり得ないこと」であったのです。もし自分がナボテの立場だったら、彼のように毅然とした態度で王の要請を拒否しただろうか…と考えさせられます。なぜなら、ナボテが実際そうであったように、権力者である王に逆らえば、自らの身の危険を招くことになるからです。議会に引き出され、大祭司から、イエスの名によって人々に教えてはならない、とあらためて禁じられた使徒たちは、「人に従うより、神に従うべきです」と答えました(使徒5:29)。主に贖われた私たちも、だれからの要請であっても神に従う者、神のみこころでないことをきっぱりと拒む者、絶えず主のみことばに立って歩む者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 20章22-43節◇(7月8日) 「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」…1列王20:42b イスラエルとの戦いに敗北を喫したアラムの王ベン・ハダデは、イスラエルの神は山の神だから強いのだ、平地での戦いなら私たちのほうに勝ち目がある、と言う家来たちのことばを聞き、彼らの言いなりになって、翌年、再び戦いを交えました。しかし、その戦いもまた、さんざんな結果となり、アラム軍は大打撃を被りました。そのような中、ベン・ハダデの家来たちが、腰に荒布をまとい、首に縄をかけた姿でアハブのところに行き、ベン・ハダデが助けてほしいと懇願していると伝えると、なんとアハブは、彼を呼び寄せて和平の契約を結び、何の危害も加えずに、そのまま帰らせたのです。しかしそれは、主の御旨ではありませんでした。主は一人の預言者を用いてアハブにこう言わせました。見張っておくべき者を逃したらいのちを取られると言われていたのに、自分はそうしてしまった…と。すると、それが自分のことを指していると思わなかったアハブは、あなたはそのとおりにさばかれると、彼に告げたのです。なぜアハブはベン・ハダデを聖絶しなかったのか…。それはアラムとの2回の戦いでの勝利により、傲り、高ぶっていたからです。契約という人間的な方法に安易に頼る心があったからです。エリヤがバアルの預言者たちを聖絶したように、アハブも、宿敵ベン・ハダデを帰すべきではなかったのです。それが神の御旨だったのです。同じように、取り除くべきものをそのままにしていないか…、人間的な方法によって安易に対処しようとしていないか…と、主は私たちにも問い掛けておられます。わたしのみこころを尋ね求め、わたしに拠り頼む者、聞き従う者となってほしい…と、願っておられるのです。うまく行ったからそれでいい…ではなく、静まって絶えず主の導きを求め、それに従う者でありたいと思います。 主のみこころをなすことができますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 20章1-21節◇(7月7日) 「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」…1列王20:13b イスラエルのアハブ王とアラムの王ベン・ハダドとの最初の戦いが記されています。ベン・ハダドはアハブの元に使者を遣わし、金銀や身内の者を渡すよう求めましたが、アハブがそれを拒否したため、ベン・ハダドの指示によりアラムの軍勢が配置され、臨戦態勢となりました。一方、アハブのところに一人の預言者が来て、主のことばを告げました。それは、アラムの大軍は戦いに敗北する、その戦いを主導するのは諸国の首長に属する若者たちである、とのメッセージでした。それが聞いたアハブがさらに、だれがその戦いを仕掛けるのか、とその預言者に尋ねると、彼は、あなたです、と王に答えたのです。アハブがその若者たちの人数を調べると232人でした。彼は、その者たちを先頭にし、7千人のイスラエルの民も続いて出陣させました。すると彼らはアラムに打ち勝って大損害を与え、主のことばのとおりとなったのです。「ひとりの預言者」の名は不明です。しかし、彼を通して語られた主のことばに従ってアハブが行動を起こしたからこそ、イスラエルは勝利し、主が意図されたとおり、アハブは主こそ神であることを知ることとなったのです。妻イゼベルの影響もあって、主に対するアハブの姿勢はなお揺れ動きますが、バアルの預言者がエリヤとの対決に敗北し聖絶されたこと、エリヤが言うとおり大雨が降ったこと、そしてアラムとの戦いでの勝利と、一つ一つの出来事を通して、主はアハブやイスラエルの民に確かに働きかけておられたのです。主は私たち一人ひとりに対しても、ご自身の働きを託しておられます。その小さなことを忠実に果たすなら、また、「預言者」として主のみことば、メッセージを取り継ぐなら、主は私たちを通して人々の心に働かれるのです。そのために用いられる者とされたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 18章25-46節◇(7月5日) 「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」…1列王18:38-39 18章の後半には、エリヤとバアルの預言者たちとの戦い、つまり、イスラエルの神と彼らが仕える偶像との戦いの結末が書かれています。そもそもその偶像は、人の手によるいのちのない物体に過ぎず、初めから戦いにはなり得なかったのです。バアルの預言者たちは朝から真昼までバアルの名を呼び続け、彼らの祭壇の上に火が下るよう願い求めましたが、何も起こりませんでした。すると彼らはますます大声で叫び、自分たちの身を傷つけることさえしましたが、結局何一つ起こらなかったのです。一方、エリヤは、イスラエル部族の数にしたがって12の石で祭壇を築き、薪を並べて切り裂いた雄牛を載せ、それらに水を注ぎ、簡単には燃えないように濡らした上で主に祈り求めました。すると、主の火がたちまち降り、雄牛と薪だけでなく石と土までが焼き尽くされたのです。民はみな、それを目の当たりにして主を畏れ、ひれ伏して、「主こそ神です。主こそ神です」と告白しました。27節のエリヤのことばは皮肉に満ちており、そう言われてむきになって騒ぎ立てるバアルの預言者の姿は実に滑稽です。しかし、ときに神以外の人間的なものに心奪われ、「どっちつかずによろめいて」(21節)しまう私たちにとって、彼らや、彼らの言いなりになっていた民の愚かさ、罪深さは、決して他人事ではないのです。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」とのみことばが思い起こされます(黙3:15)。エリヤは自分の番になったときまず、壊れていた主の祭壇を築き直しました(30節)。私たちもまた、日々、祭壇を築き直し、すなわち自らのあり方を悔い改めて主との関係を築き直し、唯一まことの生ける神、主の御名を呼び求め、主のみわざを待ち望む、そのような者でありたいと思います。 信仰がますます強められますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 18章1-24節◇(7月4日) 「私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。」…1列王18:12b 18章の前半に書かれているのは、エリヤとバアルの預言者たちとの対決の序盤戦です。エリヤはアハブ王に、全イスラエルとバアルやアシェラの預言者たちを、カルメル山の自分のところに集めさせました。そして、2頭の雄牛のうち1頭をバアルの預言者たちに選ばせ、残りの1頭を自分のものとし、それぞれその雄牛をほふって薪の上に載せ、自分たちが信じる神の名を呼んだら、それに神が火をもって答えるかどうかを見ようと提案したのです。イスラエルの民は「それがよい」と同意しました。エリヤは、その戦いを挑むべく初めてアハブと会う際に、自分からは直接出向かず、王の宮廷長官であったオバデヤという人物にことづけを依頼しましたが、彼はすぐには承諾しませんでした。なぜなら、王に伝えた後にエリヤが姿をくらましてしまうと、王の怒りを買い、殺されてしまうと恐れたからです(9,12,14節)。私は必ずアハブの前に出るとのエリヤのことばを聞くと、ようやく彼は重い腰をあげ、アハブのところに行って話しをしました。オバデヤは幼少のときから主を畏れ(恐れ)ていました。イゼベルが主の預言者たちを虐殺したときも、百人の預言者を救い出しました。しかし本当に主を畏れていたならば、彼は、神の人であるエリヤを通して語られたことばに尻込みせずに、ただちに従うべきだったのです。神の主権を認め、自分のいのちは主の御手の中にあることを覚えて主に委ねつつ、神が忌み嫌われる偶像が国の中から一掃されることを、何より願うべきであったのです。「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒20:24)。パウロはそう告白しています。主に贖われた私たちもまた、人を恐れずに主を畏れ、主にすべてを委ねつつ、ためらうことなく主のことばに従う者でありたいと思います。 主の御声に従順に従うことができますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 17章◇(7月3日) 「その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」…1列王17:24 ヨルダン川の東、ギルアデの地に住むティシュベ人エリヤが登場します。預言者である彼は、飢饉が近いことをアハブ王に警告した後、主のことばに従ってケリテ川のほとりに身を隠し、川の水と、主が備えられた烏が朝夕に運んで来る、パンと肉とによって養われました。しばらくしてその川が涸れると、主はエリヤに、シドンのツァレファテにいるひとりのやもめのところに行き、そこに住むようにと命じました。彼がそのようにすると、実はそのやもめは、食糧が尽き、最後のパンを作って息子と食べて死のうとしていたところだったのです。エリヤが彼女に、油と粉は飢饉の間なくならない、まず私のためにパン菓子を作って持って来なさいと告げ、彼女が従うと、そのとおりになりました。さらに、彼女の息子が病気で死ぬと、エリヤはその子の上に三度身を伏せて主に祈り、息子を生き返らせてあげたのです。その奇蹟は、異邦人の地、しかもアハブ王の妻イゼベルの出身地シドンで起こりました。ツァレファテはツロのさらに北にある地中海沿岸の町です。異邦人であるこのやもめの女性は、エリヤが神の人であり、彼が語る主のことばは真実であると告白したのです。そしてそれは、彼女が自分の体験を通して、エリヤが信じて祈ったイスラエルの神は確かに生きておられ、神に拠り頼む者の必要を満たし、いのちをもたらす方であることを信じた、ということにほかならないのです。エリヤもやもめの女性も主のことばに従い、神の奇蹟を体験し、主の豊かな祝福にあずかりました。それこそが、「神の民」のあるべき姿なのです。イスラエルという、地理的、血による民族だけが「神の民」ではないのです。17章に書かれているこれらの出来事は、そのことを暗示しています。キリストにあって、信仰によるアブラハムの子孫、神の民とされた私たちも、ますます、主への従順と信頼をもって歩み続けたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 16章21-34節◇(7月2日) 「オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。」…1列王16:30-31 王として12年間イスラエルを治めたオムリは、その治世の7年目にシェメルという人物から山を買い、その山に町を建ててサマリアと名付け、ティルツァからそこに首都を移しました。彼は主の目の前に悪を行い、それは彼以前のだれよりも悪いものだったとあります(25節)。オムリが死ぬと彼の子アハブが王となり、22年間イスラエルを治めましたが、彼もオムリと同じく、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行ないました(30節)。それはつまり、イスラエルの王たちが犯した罪は大きくなっていくばかりで、まるで坂道を転げ落ちるように、その歯止めがかかることはなかったということです。「彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった」と記されています。アハブは、シドンの王の娘イゼベルを妻とし、彼女が信じていた異教神バアルのために神殿を建て、祭壇を築き、さらにはアシェラ像まで造るという、イスラエルの神に対する決定的な背信行為におよびました。列王記の記者はこの書の残りの部分(17-22章)のすべてを使い、アハブの治世の出来事を記していますが、そこには、彼やイゼベルがいかに罪深いかを伝えようとする意図があるのです。しかし神は、イスラエルを見放されませんでした。そのような状況の中、預言者エリヤが、歯止めの役割を果たす者として立てられ、イスラエルが主のみこころを行なうために用いられていくのです(17章~)。現代社会にまん延する悪と罪も悪化の一途をたどり、闇はますます深くなっていますが、そのような中、聖徒である私たちは、歯止めの役割を果たす者、世の光、地の塩として遣わされているのです。この地をあわれんでくださいととりなしつつ、忠実に主に仕えていきたいと思います。 御国が来ますように。 |
◇聖書箇所: 列王記 第一 16章1-20節◇(7月1日) 「ジムリは町が攻め取られるのを見ると、王宮の高殿に入り、自ら王宮に火を放って死んだ。これは、彼が罪を犯して主の目に悪であることを行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のゆえであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のゆえであった。」…1列王16:18-19 引き続き北イスラエルの王たちの歩みが記されていますが、そこを読んで気づかされることは、慣用句的な表現が繰り返されているということです。「ヤロブアムの罪に歩み…イスラエルに罪を犯させ、わたし(主)の怒りを引き起こし…」(2,7,13,19節)。そしてそれは、イスラエルにおいて、ヤロブアムが金の子牛を造ったことにより始まった偶像礼拝がいかに罪深く、また民の中に浸透していたのか、にもかかわらずそれを止める王は一人も現れず、そのことを主が嘆き悲しみ、次々と立つ王たちを退けなければならなかったのかを示しているのです。預言者エフーによる主のことばのとおり、バアシャは滅び、その子エラも家来のジムリの謀反により殺され、その後、ギベトンでの戦いを指揮していた将軍オムリが民に支持されて王とされると、追い詰められたジムリは自決しました。彼が王であった期間はわずか七日間でしたが(15節)、にもかからず、「主の目に悪であることを行い…イスラエルに罪を犯させた…」と記されているのです。罪の本質とは何か…をあらためて考えさせられます。自分はそのような血なまぐさいこととは無縁だし、王のような地位を求めることもない…と思うかもしれません。しかし、罪の本質…すなわち、神を第一とせず、人間的、地上的なことに心を寄せ、主を喜ばせることを追い求めず、主と心を一つにして歩もうとしないなら、私たちも、主の前には、それらの王たちと大差ないのです。キリストによって贖われ、霊的なアブラハムの子孫とされている私たちは、どのようにして神に仕えていくのか、主のみこころをこの地に実現していくのか、神の栄光を現わす者となるのか…。そのことが問われているのです。イスラエルの王たちを反面教師としつつ、ますますそのことを主に尋ね求めていきたいと思います。 主のみこころにかなう者とされますように。 |