◇聖書箇所: ルカの福音書 1章1-25節◇(1月4日)

「御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。…」」…ルカ1:13

祭司であったザカリヤは、神殿で香をたく奉仕にあたっていましたが、そのとき突然、主の使いであるガブリエルが彼の前に現れました。ザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われましたが、その御使いは、恐れなくてよい、不妊の女性であるあなたの妻エリサベツは男の子を産む、その子をヨハネと名付けよと、ザカリヤに命じたのです。ガブリエルはさらに言いました。その子は主の前に大いなる者となり、イスラエルの子らを主に立ち返らせ、主のために整えられた民を備える働きをする…と。ところがザカリヤは、妻が子を産むことが信じられず、そのしるしを求めたのです。すると御使いは、私のことばを信じないあなたは、子が産まれるまで口がきけなくなるとザカリヤに告げ、ただちにそのとおりになりました。「ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです」。その御使いのことばは、ザカリヤとエリサベツが、自分たちに子が与えられるようずっと願っていたということを意味しています。エリサベツは身ごもったとき、「主は…私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言いましたが、二人は、自分たちに子が与えられないことで、心に痛みを覚えていたのです。それなのになぜ御使いから妻の懐妊を告げられても、ザカリヤはそれを信じられなかったのでしょうか…。あまりにも長い間願いが聞かれず、自分たちが高齢となったため、子がいないことがみこころなのだ…と、自らに言い聞かせていたのかもしれません。しかし神は、彼らの願いを忘れてはおらず、ご自身の時にそれをかなえられたのです。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝3:1)。人の考えを越えた神のご計画と導きがある、ということをあらためて覚え、主にすべてを委ねつつ、願い続け、祈り続け、主の答えを待ち望み続ける者でありたいと思います。

どんなときにも主に信頼することができますように。

◇聖書箇所: 詩篇 70篇◇(1月3日)

「あなたを慕い求める人たちがみな あなたにあって楽しみ 喜びますように。 あなたの救いを愛する人たちが 「神は大いなる方」と いつも言いますように。」…詩篇70:4

「神よ 私を救い出してください。主よ 急いで私を助けに来てください」(1節)。詩人はそのように、自らの救いを主に願い求めています。5節にも「急いでください」、「遅れないでください」とありますが、彼の「いのちを求める者たち」(2節)は間近に迫っており、詩人にとって、主の助けは緊急を要するものだったのです。詩人のその敵は、彼が神を信じ、求めていることを知っていました。そして、神が彼をあたかも見捨てたかのように、救いの手を伸ばそうとしないのを見て、「あはは」と言って詩人をあざ笑い、神の存在自体をも否定するような、不遜な者たちであったのです。詩人はそのような彼らが神によって辱められ、退けられ、卑しめられるよう願っていましたが、状況は変わりませんでした。しかし詩人は知っていました。神は真実なお方であられ、主を待ち望む者、慕い求める者たちに対して、必ずみわざを現してくださるということを。だからこそ、目の前の現実は厳しいものであっても、信仰と忍耐をもって、主にあって楽しみと喜びを受け取ることができる、主の大いなる御力が現され、御名があがめられるようになると疑わず、そのようにしてくださいと祈ったのです。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブ11:1)。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(同10:36)。忍耐とはただじっとがまんするということではありません。神が真実な方、大いなる方であることをみことばに立って確信し続け、主がご自身の時と方法をもって御力とみわざを現してくださるよう待ち望み続ける、そのような積極的なあり方なのです。私たちもしばしば苦難の中に置かれますが、ますます主に信頼して歩み続けたいと思います。

信仰がさらに強められますように。

◇聖書箇所: 詩篇 69篇◇(1月2日)

「しかし私は 主よ あなたに祈ります。神よ みこころの時に あなたの豊かな恵みにより 御救いのまことをもって 私に答えてください。」…詩篇69:13

「神よ 私をお救いください。水が喉にまで入って来ました…」と、詩人はのっけから神に訴えています(1節)。4節では、敵が自分を滅ぼそうとしていると言っていることから、このままではいのちが奪われる…と、切羽詰まった状況をそのように描写しているかもしれません。あるいは、自分の罪過が神に知られているとする詩人は(5節)、自分が神から見放され、ずぶずぶと泥沼の底へと沈んでいくように感じていたのかもしれません。そのような中、いてもたってもいられなくなった詩人は、粗布をまとって泣き悲しみ、断食をしつつ主に悔い改め、主の赦しと助けを待ち望みました。しかし彼は、人々から嘲られ、そのことがうわさ話、酔いどれの歌の材料とされ、ますます惨めな状況に置かれたのです(10-12節)。「しかし私は 主よ あなたに祈ります」。そのきっぱりとした詩人のことばに心が留まります。たとえ人からどう思われようとも、だれも自分の味方になってくれなくても、こんな自分を神はかえりみてくれるのか…と疑いが心に湧いてきても、主よ、私はあなたに祈り求めます…と、恵みとあわれみに満ちた主が、祈りに答え、泥沼から、敵の手から救い出してくださる…と信じ、祈りの祭壇の前にとどまり続ける決断をしたのです(14節)。「心の貧しい者たちよ 見て喜べ。神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ」(32節)。そのように、心の貧しい者、誇れるものは何もないと、自らの乏しさ、罪深さを認める者は、へりくだり、神に拠り頼み、主に祈り求めるのです。そして主は、そのような者の祈り、叫びを確かに聞かれ、捕らわれの中から救い出し、解放し、ご自分の大切な民として守り支えてくださるのです。そのことを覚え、私たちも詩人のように、どんな状況でも主を待ち望み、祈りの声を上げたいと思います。

主の守りと支えがありますように。