◇聖書箇所: エレミヤ書 29章15-32節◇(11月1日) 「それは、二人がイスラエルの中で恥辱となることを行い、隣人の妻たちと姦淫し、わたしが命じもしなかった偽りのことばをわたしの名によって語ったからだ。わたしはそれを知っており、その証人である-主のことば。」…エレミヤ29:23 エレミヤは、偽預言者であるアハブとゼデキヤについて、二人はバビロンの王の手に渡され、民の目の前で彼に打ち殺されると告げました(21節)。それは、隣人の妻たちとの姦淫という、性的不品行の罪もさることながら、彼らが偽り、自分たちのことばを主の名によって主のものとして人々に語るという、冒涜の罪を犯したからです。神の名を口に出す…それは本来、イスラエルの民にとって畏れを伴うことでした。実際、「主の名をみだりに口にしてはならない」という律法(十戒)を破ることを必要以上に恐れて(出20:7)、巻物の中に書かれている「ヤーウェ」という神の名を読むときには、わざわざ、「アドナイ」といちいち読み替えていたのです。しかしエレミヤの時代には、神を畏れる者が少なくなり、主の名によって、偽りのことばが平気で語られていたのです。そのような時代を経て、父なる神は、人類の救い主として、ご自身の御子イエスをこの地上に遣わされました。そのキリストは、すべての人の罪を赦すために、身代わりとなって十字架にかかり、死からよみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。そのキリストの御名は、流された血による新しい契約において、さばきとのろいではなく、勝利と祝福をもたらす名となっているのです。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます」(ヨハ14:14)。イエス・キリストはそのように言われました。私たちが、主の名によって人々に語り、主の名によって勝利を宣言し、また、主の名によって祈り求め、主の名によって祝福をとりなすとき、そこに、大いなる主のみわざが現されるのです。そして、ただ主があがめられ、主に栄光が帰されるのです。ますますキリストの御名をあがめ、御名によってすべてのことをなす者でありたいと思います。 主の祝福が豊かに満ちあふれますように。 |