◇聖書箇所: エレミヤ書 51章20-44節◇(12月3日)

「それゆえ、主はこう言われる。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する。バビロンの海を干上がらせ、その泉を涸らす。」」…エレミヤ51:36

20-23節には「あなたによって…砕き」ということばが繰り返されています。そのように、バビロンは国々を砕くための道具(鉄槌、1節)として主に用いられますが、彼らがシオンにおいて行ったすべての悪のゆえに、主は、ご自身の民の目の前で、彼らに報復されるのです(24節)。28節の「メディア」は、後にペルシャに併合された強大な国ですが、主は、バビロンを滅ぼすために、今度はその者たちや27節に書かれている諸国を道具として使い、バビロンの地を、住む者が誰もいない、荒れ果てた地とされるのです。すると、バビロンの戦士たちは、そのような状況に追い込まれて、戦う気力をすっかり失い、砦の中に座り込んでおろおろとおじ惑うのです(30-32節)。「見よ。わたしはあなたの訴えを取り上げ、あなたのために報復する」。ご自身の民に向かって主はそう言われました。そのように主は、御名を呼び求めて訴える者たちの声に確かに耳を傾け、力強い御腕を動かし、彼らを敵の手から守ってくださるのです。正しい報いをなされるのです。「私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し 貧しい者のために さばきを行われることを」と詩篇に書かれているとおり(詩140:12)なのです。主は、根拠のない敵の偽りの訴えを退け、聖徒たち一人ひとりを弁護してくださるお方です。パウロも、「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです」と語っています(ロマ8:33)。主は、私たちの訴えに確かに耳を傾け、それを取り上げ、私たちを虐げようとする者から守ってくださいます。また、神に選ばれ救われた私たちを、責め立てる者がいても、私たちが、神に愛され、キリストにあって罪赦され、義なる者であると、弁護してくださるのです。誰にも理解してもらえないと心細く感じるときも、人を見るのではなく、何よりも主に祈り、主を呼び求めたいと思います。

主からの慰めと励ましがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 51章1-19節◇(12月2日)

「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」…エレミヤ51:5

主は、ご自身の教えに従わず、みこころに逆らい、ご自分から離れてしまったイスラエルとユダの民を見捨てることなく、バビロンの手から救い出し、回復を与えると約束されました。しかしそれは、彼らがそのような取扱いを受けるのにふさわしい者たちであったからではなく、ひとえに主の深いあわれみによることであったのです。10節は、そのようにしてバビロンから解放される、主の民の告白です。「主は私たちの義を明らかにされた」。しかしそれは、彼らの正しさが主に認められた、ということではありません。あくまでも主の恵みにより、そして、主がアブラハムと結ばれた、子孫の祝福という約束を伴った契約のゆえに、そのように取り扱われるということなのです(19節)。ここに、主からの一方的な罪の赦しに基づく、民の救いと回復が示唆されているのです。ご自身の民に対する、主の一方的な恵みとあわれみ…義と認めてくださること…。それは決して、自動的、機械的にもたらされるものではありません。アブラハムは、満天の星を見上げるように主から命じられ、あなたの子孫はこのようになると告げられ、子がいなかった高齢の彼はその主を信じたのです。そして主は、その信仰のゆえに、アブラハムを義と認められたのです(創15:5-6)。そのように、神によって義とされるということは、契約と信仰に結びついたことであって、人間の側のがんばり、知恵、知識、富など一切のものは、その根拠とはなり得ません。そして私たちも、キリストが人類のために成し遂げてくださった、十字架と復活による贖いを信じたゆえに、主の血潮による新しい契約に基づき、罪赦されて、義と認められたのです(ロマ3:24)。それはただ、神の恵みとあわれみによることであって、神の民に加えられた私たちもまた、決して主に見捨てられることはないのです。そのことを深く心に留めたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 50章21-46節◇(12月1日)

「高ぶる者よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。-万軍の神、主のことば-おまえの日、わたしがおまえを罰する時が来たからだ。」…エレミヤ50:31

50章の後半でも、バビロンに対して主がなされるさばきがが語られています。「全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか」とありますが(23節)、諸国を圧倒的な勢力をもって征服した大国も、彼らがイスラエルの神を侮り、自らの力を誇って高ぶっていたために(29、30,32節)、主によって無残にも滅亡させられるのです。創世記11章には、頂が天に届く塔を建て、自分たちの名をあげようとする企みを主が阻止し、彼らのことばを混乱させて散らされたという記事がありますが、そのバベルの塔が建てられた場所が後のバビロンです。神と対等な立場になろうとするバビロンの高ぶりは、彼らの先祖の時代からすでに現されていたのです。主はまた、「主に争いを仕掛けたからだ」とバビロンに指摘しておられます(24節)。神に造られた人が、神に勝つことなどできるわけないのに、主に争いを仕掛ける、戦いを挑む…それがどれほど愚かで罪深いことであるのか、彼らは気づきませんでした。自分たちの戦力、財宝、偶像の神を誇り、肉の思いに支配された彼らは、自分たちがどれほど神の前には無に等しい存在であるのか、わからなくなってしまっていたのです。35-38節には「剣が…、剣が…」と繰り返されていますが、諸国の民を襲い滅ぼすために彼らが頼った剣が、今度は自分たちのところに下るという、皮肉な結果となってしまうのです。私たちはバビロンのように主に争いを仕掛けることはないでしょう。しかし、主からの恵みを当たり前のように日々受け取っているとしたら、それらに対する感謝が湧いてこないとしたら、そのくらいならわざわざ祈らなくてもやれると思うなら、それは、自分の存在を神の前に高くしようとする、高ぶりの兆しなのかもしれません。神がおられなければ、主が与えてくださらなければ、私は一歩も前に進めない、何もすることができない…。常にそのように自分を低くして歩みたいと思います。

ますます謙遜な者とされますように。