◇聖書箇所: 詩篇 72篇◇(2月5日) 「王は 弱い者や貧しい者をあわれみ 貧しい者たちのいのちを救います。虐げと暴虐から 王は彼らのいのちを贖います。王の目には 彼らの血は尊いのです。」…詩篇72:13-14 最後の20節に「ダビデの祈りは終わった」とあります。本詩篇はダビデが、息子であり、自分の後継者としてイスラエルの王座についたソロモンのために、彼の治世が御旨にかない、祝福されるよう、主に願った祈りです。その中で繰り返され、読者の心に留まるのは、王が民の苦しむ者、貧しい者、虐げられている者たちをあわれみ、弁護し、救い出すように、彼らの敵を打ち砕くようにと願う、ダビデのことばです。そしてそれらは、預言として、来たるべきメシア、御国の王なるイエス・キリストを指し示している、と見ることができるのです。キリストは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と言われ(マタ5:3)、たましいに飢え乾きを覚えている人々に、神の国がもたらすいのちと祝福を伝えられました。そして神に敵対する者の虐げ、罪の束縛から、すべての民を贖い解放するために、王であるキリストは、ご自身のいのちを十字架の上でささげてくださったのです。「王の目には彼らの血は尊い」とありますが、彼らの血とはすなわち、一人ひとりのいのち、存在なのです。神の目に高価で尊い存在である私たちは、神の深い愛とあわれみによって、そのように、死からいのちへ、闇から光へと移され、永遠に神とともに生きる者とされているのです。「王の名がとこしえに続き その名が 日の照るかぎり増え広がりますように。人々が彼によって祝福され すべての国々が彼をほめたたえますように(17節)。ダビデのその願いは、神ご自身の、そして贖われた私たちの願いです。15節には、「王のためにいつも彼らが祈り 絶えず王をほめたたえますように」とありますが、私たちは、どんなときにも主をほめたたえ、神のみこころがなされるよう、絶えずとりなす者でありたいと思います。 すべての栄光が神にありますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇 71篇◇(2月4日) 「私の口は絶えず語り告げます。あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っておりませんが。」…詩篇71:15 「あなたの義によって私を救い 助け出してください」、「わが神よ 私を悪者の手から助け出してください…」。詩人はそのように、神に願い求めています(2,4節)。自らのいのちが敵に狙われ、不正を行なう者や残虐な者に捕らえられようとしている中にあって(4,10節)、詩人は、敵が言うように(11節)、神が遠く離れてしまったのでは…との思いに駆られることもありました(12節)。しかし、それを振り払うかのように、詩人は目を天に向け、「しかし私は 絶えずあなたを待ち望み いよいよ切に あなたを賛美します。」と告白しているのです(14節)。詩人のその口はまた、神の義と救いを人々に語り告げ、自分自身にも言い聞かせるものとなっていましたが、彼は「そのすべてを私は知っておりませんが」と言っています。神の義と救いがいかに大きく、自分はそのほんの一部しか知り得ていないということを覚え、主への感謝と畏れをもって、詩人はそのように告白しているのです。神の義と救い…それは、神が正しい方であり、主権をもってご自身のみこころにかなう者を悪しき者から守り、助け出し、そのことを通してご自身の栄光を現されるということです。詩人は、悪者の言動に心が揺り動かされつつも、その神の義が地の上に貫かれ、救いがなされ、正しい者たちが決して恥を見ることがないことを信じて、「ただあなたの義だけを心に留めて」(16節)と言って、主にある希望を抱き続けようとしているのです。「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」。パウロもそのように言っています(1コリ8:2)。偉大な神の義と救い…それは人間の考えをはるかに越えたものであって、私たちは、ただその神のみわざの現れを待ち望むべきなのです。人にとっては奇跡(7節)と思われる主のそのみわざは、神にとっては必然のこと、御旨にかなったことなのです。そのことを覚え、主を賛美したいと思います。 神の義と救いを証しする者とされますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 9章37-50節◇(2月3日) 「…あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」…ルカ9:48 弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がりました。誰がそれを言い出したのか、また、どのような基準によってそれを決めようとしていたのかは不明です。どれだけ多くの癒やしや悪霊追い出しのわざをなすことができたのか…(6,40節)、主が山に登ったときに連れていってもらったか…(28節)、主の質問に正しく答えることができたか…(20節)など、彼らはさまざまなことを挙げつつ、熱心に議論していたに違いありません。そのように弟子たちは、自分が認められたいという承認欲求、他者よりも抜きん出たいという競争心を持っていたのです。もうすぐ人々の手に渡されるようになる…と、主がご自身の苦難を予告されたにもかかわらず(44節)、弟子たちはそのような議論で白熱していたのです。主イエスはそんな彼らの心を見抜いておられました。しかし、彼らを非難したり叱責したりせず、一人の子どもの手を取って脇に立たせました。そして、このような子どもを受け入れる者、すなわちその小さく弱い存在を認め、また、子どものような純真な心を持つ者こそ、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた父を受け入れる者だ…。そして、自分はこの子のように一番小さい者だとへりくだり、自分は人より偉いなどと主張しない者こそ一番偉いのだ…と、主は弟子たちに告げられたのです。私たちはしばしば、あの人のようにはできない…と落ち込んだり、あの人は何もやっていない…と他者をさばいたりしてしまいます。しかし、自分と他者を比較するそのあり方は、主に喜ばれるものではないのです。主は、「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのであり(23節)、その負うべき十字架、主に従う道は、それぞれに備えられているのです。「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねたペテロに対し、主は、「あなたに何の関わりがありますか、あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハ21:22)。脇目もふらずに主にだけ目を留め、従って行きたいと思います。 絶えずへりくだって歩むことができますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 9章1-17節◇(2月1日) 「すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」」…ルカ9:13 主イエスは、弟子たちにご自身の権威と力を授けられ、神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために、彼らを人々のところに遣わされました。すると12人の弟子たちは、村々を巡り、その権威と力を用いて成果をあげました。彼らが帰って来てそのことを報告した後、主イエスは彼らを連れてベツサイダに退きましたが、追ってきた群衆のために、宣教と癒やしの働きを日が暮れるまで行い続けたのです。すると、見かねた弟子たちは、群衆を解散させ、めいめいが里に行って食べ物を確保するよう促すべきだと、主に進言しました。ところが主は彼らに対し、あなたがたが食べ物をあげなさい、と命じられたのです。弟子たちは当惑し、また反発しました。群衆の数は男性だけで約5千人もいるのに、手元にあるのはたった5つのパンと2匹の魚だけ…一体どうやって全員に食べ物をあげるのか…そのために自分たちが里まで行って、食べ物を大量に買って持って来なければならないのか…と。そんな彼らの思いを知っておられた主イエスは、そのわずかな手元の食べ物を取り、神に感謝と賛美をささげてそれを裂き、弟子たちに渡して人々に分配させました。すると全員が食べて満腹し、必要は満たされたのです。「小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり…」(ルカ16:10)。それは、小さなことを軽視するな…とという意味だけではありません。主イエスから権威と力を授けられた弟子たちは、村々を巡って成果をあげましたが、何千人もの人々の空腹を満たすという大きなチャレンジに対しては、その重圧に押しつぶされるかのように、自らの信仰を働かせることができませんでした。しかし主は、事の大小にかかわらず信仰をもってそれを行うこと、そしてご自身の命令に忠実に従うことを求めておられるのです。そのような者でありたいと思います。 どんなときにも主に信頼することができますように。 |