◇聖書箇所: ルカの福音書 11章37-54節◇(3月12日)

「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」…ルカ11:42

一人のパリサイ人からの招きに応じて、主イエスは彼の家に入って食卓に着きましたが、食事の前にきよめの洗いをしないことに驚いている彼に対して主は、パリサイ人たちのさまざまな間違ったあり方を指摘されました。・内側が強欲と邪悪で満ちている(39節)。・正義と神への愛をなおざりにしている(42節)。・人々からの尊敬を好む(名誉欲に満ちている)(43節)。すると、そこに同席していた律法の専門家の一人が、そのことばは自分たちへの侮辱でもあると言って憤りましたが、主は彼に対しても、次のように指摘したのです。・律法を人々に負わせるのに自分たちはそれを負わなくても良いように抜け道を考えている(46節)。・先祖たちが殺した預言者たちの墓を建てて、それで責任を逃れようとしている(47節)。・知識の鍵を人々から取り上げ、神の国に入ろうとするのを妨害している。自分たちは入ろうとはしない(52節)。そのように、主イエスが辛辣なことばで批判したパリサイや律法学者たちは、偽善者でした。本音と建前を使い分け、裏と表の顔を持ち、形式的なこと、目に見える外面にこだわり、それを自分たちの思い通りにすることで満足する者たちであったのです。また彼らは自尊心が高く、人からほめられることが大好きであったのです。「わざわいだ」と訳されていることばは、新改訳第2版では「忌まわしいものだ」、新共同訳聖書では「不幸だ」と訳されています。主は、彼らが神の祝福にあずかれない不幸な者だと言われただけでなく、人々が神の祝福にあずかりたいと願っているのに、彼らがそれを邪魔しているのだ、わざわいそのものだ、忌まわしい存在だと非難しているのです。そのような面が自分のうちにもないか、彼らを反面教師として自己吟味したいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章27-36節◇(3月11日)

「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」…ルカ11:30

主イエスは、ご自身の周りに集まった群衆の数が増えてきたとき、ご自分を試みようとして天からのしるしを要求した者たちを意識して、「しるし」について語られました。「ヨナのしるし」のほかにはしるしは与えられない、人の子、つまり主イエスご自身が、この悪い時代のためにしるしとなるのだと、人々に告げられたのです。「ヨナのしるし」…それは、アッシリアの首都ニネベの町に神から遣わされたヨナが、その任務を拒んだために船から海に投げ出され、三日三晩魚の腹の中に置かれ、その後、陸に吐き出された彼がニネベの町にあらためて行って町が滅ぼされると警告すると、人々が悪い行いを悔い改めたので、神はわざわいを下すことを思い直されたという、ヨナ書に書かれている出来事を指しています。ヨナがニネベの人々のためにしるしとなったように、人の子がこの時代のためにしるしとなる…。主のそのことばには、ヨナがご自身の型であり、十字架で死に、葬られ、3日目によみがえること、またそれはユダヤ人だけでなく、異邦人を含めた全世界の民の救いのためであることが暗示されています。キリストによるその大いなる贖いのみわざは、人類の歴史上最大の出来事であって、そのしるしは、すべての時代のすべての人々が、自分のこととして受け取るべきものなのです。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(2ペテ3:9)。ニネベの人々をあわれみ、わざわいを起こすことを留められた神は、今の時代においても、福音を聞いて人々が悔い改めることを望んでおられるのです。主に贖われた聖徒として、先に救われたことを感謝しつつ、神のその救いのご計画の実現のために、遣わされたところで主のメッセージを伝えたいと思います。

それぞれの働きが尊く用いられますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 11章14-26節◇(3月10日)

「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」…ルカ11:20

主イエスは、口をきけなくする悪霊を追い出しておられましたが、人々の中には、それは悪霊どものかしらベルゼブルによることであって、イエスという人物は、悪霊をあやつる魔術師のような存在だ、と考える者がいました。また別の者たちは天からのしるしを要求し、決定的な奇跡を起こせるかどうか試しました。それにより、イエスがどのような存在なのかを判断しようとしたのです。そのような心を見抜かれた主は、彼らに言われました。内輪もめする国は滅びるのだから、サタンの国でも、かしらとその手下どもとの間で争いが起きるはずがない…。だからわたしは、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのではない…。悪霊を服従させる権威は神のみが持っているのであり、それはわたしがもたらした神の国として、あなたがたのところにすでに来ているのだ…。主イエスはそのように彼らに説き明かされたのです。「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出している…」と主イエスは言われました。エジプト王ファラオのお抱え呪法師たちが、神が次々にエジプトに起こされるわざわいに接し、自分たちの秘術の限界を認めて、「これは神の指です」と言ったことが思い起こされます(出8:19)。神の指とはすなわち、神の力、神の権威を意味しており、神の国の本質を表すものなのです。その神の国は、主イエスが2千年前にこの地上にもたらされ、私たちの間に確かに存在し、今なお拡大し続けているのです。「もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと…」(22節)。彼とは、神に敵対し、人々を惑わす悪しき者、サタンのことです。そして、彼に打ち勝つ強い人とは、人々を罪の束縛、悪しき霊の支配から解放し、救いをもたらしてくださる、イエス・キリストなのです。キリストは今も生きておられ、御国の王として、すべてを統べ治めておられます。そのことを覚え、どのような状況にあっても、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

主にあって勝利する者とされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 10章25-42節◇(3月8日)

「彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」」…ルカ10:37

有名な「良きサマリヤ人のたとえ」が書かれています。ある律法の専門家が主イエスに対し、何をすれば永遠のいのちを受け継ぐことができるかと尋ねました。そこには、イエスを試みる意図があったのです(25節)。主イエスが律法はどう教えているのかと聞くと、彼はその道の専門家として即座に、申命記6章5節とレビ記18章5節の2つの戒めを挙げました。すると主は、その答えは正しい、それを実行せよ、そうすればあなたが求めている永遠のいのちを得ることができるのだ、と彼に告げたのです。すると彼は、では私の隣人とは誰か…と主に問いました。彼は、自分がその律法をちゃんと守り行なっているということを、主イエスに認めさせようと考えていたのです(29節)。ところが主は、その問いには答えず、たとえによって「隣人」の本当の意味を教えようとされたのです。そのたとえにおいて、強盗に襲われた人を見過ごしにした祭司やレビ人は宗教の専門家です。主は明らかに、目の前にいるその律法の専門家を意識しておられました。そして、傷ついた人をあわれみの心をもって介抱したのが、ユダヤ人から雑婚のあり方を非難され軽蔑されていたサマリヤ人であったというそのたとえを通して、主は、その律法の専門家に、律法の精神を理解しようとせず、ただ形式的、うわべだけの行動によって自分を正当化しようとする、律法主義者の誤ちを指摘されたのです。38-42節には、マルタとマリアという姉妹が主イエスとどうかかわったのかが書かれています。姉のマルタは主をもてなすという「形」にこだわって心が乱れ、主の足もとにただ座っている妹をさばいていましたが、イエスはそのマルタに「必要なことは一つだけ」、すなわち、ご自身を喜んで迎え入れる「心」だと言われたのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サム16:7)。形やうわべではなく感謝と喜びをもって主に仕え、愛とあわれみの心をもって困っている人を支援したいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 10章17-24節◇(3月7日)

「しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」…ルカ10:20

イエスの弟子たちは、2人1組となって人々のところに遣わされ、イエスの御名により悪霊さえも追い出すことができることを体験し、喜んで帰って来てそのことを主に報告しました。それに対して主は、そのように、自分たちに与えられている権威によって、悪しき霊どもを服従させられること自体を喜ぶのでなく、自分たちの名が天に書き記されていることを喜びなさい、と言われました。その後、主イエスは、聖霊によって喜びにあふれて、それらのこと、すなわちご自身をメシアと信じて従う者たちの名が天に書き記されていることは、幼子、つまり、その神の子どもたちだけに知らされることであり、この世の賢者には隠されていることなのだと、祈りのことばとして神に向かって語られました。その「幼子たち」とはすなわち、すべての時代の聖徒たちのことなのです。主はさらに、ご自分がすべてを支配する権威を父から与えられていること(22節)、また、弟子たちが体験している驚くべき力、悪しき霊の服従、すなわち神の国の現れは、ご自身が来られる以前にはだれも見聞きできなかったものなのだ、と弟子たちに告げられました(24節)。主イエスは御国の王であられます。そしてこの地上に神の国を確かにもたらしてくださったのです。主に贖われたすべての聖徒たちは、天に名が記されている者、御国に国籍を持つ者であり、王なるイエスによる統治と祝福のもとにこの地上に生かされている、御国の民なのです。弟子たちが見聞きしたこと、体験したことは、神の国の豊かな祝福の一部に過ぎません。そして、神の子どもたちには、そのすべてを受け取る権利が、キリストにあって与えられているのです。そのことにしっかりと心を留めつつ、御国の民とされていることの感謝と喜びと誇りをもって、王なる主イエスに従っていきたいと思います。

御国の豊かな祝福にあずかる者とされますように。

◇聖書箇所: レビ記 19章19-37節◇(3月4日)

「あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」…レビ19:30

レビ記19章の後半にも、民が生活する中で適用すべき、さまざまな具体的な規定が書かれていますが、26-31節では、他国の異教的なあり方を避けるよう求められています。そしてそれらは、現代の社会の中にも見られることであり、私たちもまた、キリストにあって贖われた、信仰によるアブラハムの子孫、霊的なイスラエルの民として、それらを避けるように主から求められているのです。「まじないをしてはならない。占いをしてはならない」(26節)。まじないは「呪い」と書きます。人間的な力と方法により、災いや病を排除しようとすることです。占いもまた、運勢を自然現象やくじで判断することです。星占いは当たり前のようにメディアで取り上げられており、人々の心は無意識のうちにそれらに支配され、思いや行動において、悪影響を受けてしまっているのです。「自分の身に入れ墨をしてはならない。わたしは主である。」(28節)。入墨(タトゥー)は皮膚に針を使って色素を注入し、洗っても落ちない模様などを作り出すことです。それは元々異教の儀式でなされていたことであり、単なるファッションのようにとらえてはならないのです。私たちは、神によって造られ生かされている肉体を、聖霊が住まわれる宮として大切にし、きよく保つべきなのです。主は私たちに対し、自らのからだをもって神の栄光を現わすことを願っておられるのです(1コリ6:20)。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」(出20:8)。十戒のその大切な教えが30節にも出て来ます。キリスト者にとっての聖なる日は、キリストがよみがえられた週の初めの日、日曜日です。この日を旅行や買い物のためにではなく、何よりも主を礼拝し、罪の奴隷から解放された「出エジプト」を覚えて感謝し(申5:15)、みことばを通して主の御旨を受け取るのです。「イエスさま、あなたは私の主です」と告白し、その主に信頼して歩む決意を新たにするのです。そのことを覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 19章1-18節◇(3月3日)

「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」…レビ19:18

レビ記19章には、主がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒(出20章)が繰り返されていますが、18節には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という大切な第二の戒めとして、主イエスが引用し、人々に語られた教え(マタ22:39)が書かれています。レビ記を開き、その教えをあらためて読む中で気づかされるのは、「わたしは主である」ということばが、その後に書かれているということです。そしてそれは、主権者であられる神が、そのことをご自身のみこころとして、民に命じておられるということです。ですから、民はそれに対して、自分の思いや感情を越えて従うことが求められているのです。「わたしはあなたがたの神、主である」、「わたしは主である」と、他の戒めにおいても、何度も繰り返されていることに心が留まります。「わたしは主である」。またそれは、その戒めを人間的な努力、肉の力によって行おうとしても、そこには限界がある、ということです。律法とは、人がそのことに気づくために主が与えられたものであって、罪人である私たちは、ただ主の前にへりくだり、主のあわれみと恵みに拠り頼むしかないのです。そして、主の霊が臨むとき、完全ではなくても、主の御旨を行う者とされるのです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」。主は単に、「あなたの隣人を愛しなさい」とは命じられませんでした。私たちと神との関わりは「縦」の関係、人々との関わりは「横」の関係だとよく言われますが、その横の関係が神の御旨にかなうものとなるためには、まず私たちの縦の関係が確かなものとされること、すなわち、自分がどれほど神に愛されているか、その事実を、頭ではなく心と霊で受け取ることが大切なのです。そのようにして初めて、私たちは、自分の隣人を、神に愛されている自分自身と同じように、真実に愛する者とされるのです。そのことを日々主に祈り求めたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 17章◇(3月1日)

「実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。」…レビ17:11

17章には血についての教えが書かれています。そして、その中心の思想は「肉のいのちは血の中にある」ということです。そのことは11節と14節に書かれてあり、14節では、いかなる肉の血も食べてはならないとあります。それは血がいのちそのものであるからであり、また血は宥め(贖い)のために用いられるものだからです。主は、イスラエルの民だけでなく寄留者も含め、血を食べた者に敵対し、民の間から断ち切ると言われたのです(10節)。そのようにレビ記に書かれている、主へのささげ物の血による宥め(贖い)は、イエス・キリストが流された血潮の予型です。そしてその血はささげ物が屠られる、つまり殺されることによって流される血でなければなりませでした。ですから、不慮の事故などで死んだ牛や羊をささげ物として会見の天幕の入り口に持ってきて、その血を使って宥めをすることはできなかったのです。へブル書の作者もこう言っています。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブ9:22)。新改訳3版では「血を注ぎ出すことがなければ」と訳されています。キリストは父のみこころに従い、十字架にかかり、太い釘で手足を打ち付けられ、ローマ兵により脇腹を槍で刺され、確かに神へのささげ物となって血を注ぎ出されたのです。そしてそれはキリスト自身の宥めのためではなく、罪と咎に満ちた私たちの贖いのためであり、傷(罪)のない神の子羊であるキリストのその尊い血が、死ぬべき者たちにいのちをもたらしたのです。主イエスは言われました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタ26:28)。キリストの血が、すべての人を罪から贖うだけでなく、永遠のいのちを与える代価であり、私たちがそれをただ恵みとして受けたことを覚えたいと思います。

主の祝福が満ちあふれますように。