◇聖書箇所: ルカの福音書 19章11-27節◇(4月3日) 「主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』」…ルカ19:17 「ミナのたとえ」が書かれています。マタイの福音書に出てくる「タラントのたとえ」(25:14-30)と比較すると、共通点と相違点があります。ミナのたとえでは、主人は王となって帰ってくる者であり、主はそのたとえを、弟子を含む、そこにいた人々に向かって話されたのです。そのたとえにおいて、主人の指示は、1ミナを資本金として商売をせよということであり、その主人は遠い国で王位を授かってから戻って来ることになっていました。しかし主人の国の人々は彼を憎んでおり、使者を送り、王としての受け入れを拒否する意志を先方に伝えたのです。結局それは無効とされ、主人は王となって戻り、1ミナを預けたしもべ全員にに結果を報告させました。10ミナ、5ミナとそれぞれもうけを出した者たちは、それに見合う数の町の統治権が与えられましたが、あるしもべは、その主人が、預けなかったものまで取り立てると恐れ、何もせず、1ミナを布に包んだまましまっておいたのです。すると、それを知った主人は、それならなぜ銀行に預けて利息を得なかったのかと怒り、1ミナを彼から取り上げ、10ミナ持っている者に与えるよう指示したのです。このたとえを主が話された理由が11節に書かれています。人々が考えていた神の国とは、政治的な意味でのものであり、民衆はそうでないと分かるとイエスを憎みました。しかし、主がもたらされた神の国とは、全世界の王なるキリストが支配・統治される霊的な王国であって、主は、そのただ中で人々になされる、救い、癒やし、解放などのみわざを人々に告げ知らせること、すなわち神の国の福音の宣教を、ご自分の弟子たちに命じられたのです。そのたとえにおける主人とは主イエスであり、主は再びこの地に来られます。そのときイエスを王として拒絶した者はさばかれてしまうのです(27節)。また、しもべが主人から預けられたミナとは神の国の福音です。それを多くの人々に届ける忠実なしもべでありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 19章1-10節◇(4月2日) 「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」…ルカ19:10 ローマから委託され人々から税金を取り立てる取税人…。そのかしらであったザアカイは、人々から非国民呼ばわりされ、「罪人」として、のけ者にされていました。そのザアカイは、エリコの町を通って行かれる主イエスのことを噂に聞き、自分も一目見ようと通りに出ましたが、背が低かったため群衆が壁となって見ることができません。そこで、いちじく桑の木に登るという行動に出たところ、まもなくそこを通りかかったイエスから声を掛けられたのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしている…」と。木の下に立ち止った主イエスが、上を見上げてそのように言われたのを聞いたとき、ザアカイは驚いたに違いありません。なぜなら主イエスが、自分の名を呼び、「あなたの家に泊まることにしている」と言われ、その訪問があらかじめ計画されていたことだと、示唆されたからです。また、人々から金を脅し取るという罪を犯していたにもかかわらず(8節)、主イエスがそんな自分と積極的に関わろうとされたからです。ザアカイは急いで木から降り、大喜びでイエスを自宅に迎え入れました。そして、主の前で罪を告白し、財産を貧しい人に施すことや、脅し取った物を4倍にして返すことを約束したのです。すると主イエスは彼に向かってこう言われました。「今日、救いがこの家に来ました…人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」と。ザアカイが自分の行為を反省し、人々への施しと弁償を約束したから「救い」が彼の家に来たのでしょうか…。そうではなく、救い主なるイエスが彼の家に来られ、非国民扱いされていた彼を受け入れられたからこそ、その愛に、恵みに応え、神のみこころにかなう者でありたいという切なる願いが、彼のうちに起こされたのです。私たちもまた「失われた者」でした。そして、主に名を呼ばれ、救いの恵みにあずかったのです。そのことをいつも、驚きと喜びと感謝をもって受け止めたいと思います。 救いの喜びが絶えずありますように。 |
◇聖書箇所: ルカの福音書 18章31-43節◇(4月1日) 「「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」」…ルカ18:41 一人の盲人のいやしの記事が書かれています。その人はいつものように道端に座って物乞いをしていましたが、大勢の人々の足音が聞こえたので、いったい何事かと尋ねると、ナザレ人イエスが通られるのだと言うのです。癒やしと解放のみわざをなされていたイエスのうわさは、彼の耳にも届いていました。そして、そのイエスがエリコの町にも来られたと知って、この自分の目が見えるようにしてもらいたいと、彼は強く願ったのです。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」。そのように彼が大声で叫ぶと、人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます声を張り上げて叫びました。すると主イエスは立ち止まり、彼を呼び寄せ、「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねられたのです。その盲人が自分に何を求めているのか…。それは明白であり、主イエスがそれを知らないはずはありませんでした。しかし、そのとき主は、あえて彼にそう尋ねたのです。その人は、そんなこと決まっているじゃないか、と思ったでしょうか…。そうではありません。彼は、イエスは必ず自分を癒やしてくださるという信仰をもって、「主よ。目が見えるようにしてください」と答えたのです。すると、それを聞いた主は、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」と彼に告げ、盲目であった彼の目は、ただちに見えるようになったのです。「わたしに何をしてほしいのですか」。主は私たちにも、あえてそう尋ねられます。そしてそれは、あなたはわたしを誰だとするのか、あなたはそのことを本気で願い、わたしがそうするのを信じているのか…という問いなのです。その盲人は、目が見えるようになった後、神をあがめながらイエスについて行ったとあります。そして、人々はそれを見て神を賛美したのです(43節)。そのように、私たちの上になされる主のみわざを通し、人々が神をほめたたえるようになることを願いたいと思います。 主に叫び求めることができますように。 |