◇聖書箇所: 詩篇 75篇◇(5月8日)

「まことに 神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる。」…詩篇75:7

神への感謝のことばで始まるこの詩篇の1節の最後には、「あなたの奇しいみわざが 語り告げられています」とありますが、続く2-5節では、神がなさるそのみわざが、主ご自身のことばとして語られています。神は、定めの時を決めてこの世を公正にさばかれるのであり、「地の柱を立てる」とはその別な表現です。地に悪と暴虐が満ち、正しい者の心が揺らいでしまうようになっても、神はそのようにしてご自身の義を打ち立てられ、主に信頼して従う者が倒れないようにしてくださるのです。また神は、「おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな」と、自らを誇る悪者どもに対して告げています。角は力や権威の象徴です。彼らは、神を畏れることなく、自分たちの力に拠り頼み、権威をまとい、傲り高ぶって横柄な態度を取り、また語る者たちなのです。しかし、そんな者たちがのさばるのを、神が放置されることはありません。7節にあるように、角を上げる者、すなわち、自らの力を誇って高ぶる者たちを神は低くされ、逆に、神の前にへりくだり、主に拠り頼む者たちを、神は高く上げられるのです。「杯」(8節)は神の怒りの象徴です。「混ぜ合わされた泡立つぶどう酒」とは、ぶどうだけで作られた純粋なものではなく、甘みを意図的に増したものであり、悪者どもはそれを喜んで飲み干しますが、悪酔いして気分が悪くなり、立てなくなるのです。「私は悪者どもの角を ことごとく切り捨てます。正しい者の角は 高く上げられます」(10節)。詩人はそのように言っていますが、もちろん、詩人自身が切り捨てるわけではなく、義なる神がそのようにしてくださると、信仰をもって告白しているのです。私たちもしばしば、自分の弱さを認め、主に拠り頼むことに抵抗を感じ、自分の力だけで事をなそうとしてしまいますが、神が高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高く上げる方であることを、しっかりと心に留めて歩みたいと思います。

主にすべてを明け渡すことができますように。

◇聖書箇所: 詩篇 74篇◇(5月7日)

「神は 昔から私の王この地において 救いのみわざを行う方。あなたは 御力をもって海を打ち破りその水の上の 竜の頭を砕かれました。」…詩篇74:12-13

この詩篇が書かれた年代は不明ですが、「敵」が聖所を荒し、火で焼き払い、シオンの山が汚されているとあることから、バビロンによるエルサレム神殿の破壊のときなのかもしれません。詩人には、神がご自身の民に怒りを燃やし、敵の振る舞いを容認し、何もせずに放置しているように思えました。そして詩人は、そのことに怒りさえ覚え、なぜですか、いつまでですか、と繰り返して問いただし、神の対応を非難しているのです(1-11節)。しかし詩人は、そのように現状を目を向けることをしばしやめ、静まって、神がかつてなされたみわざを思い巡らしています(12-17節)。それは、神が初めに天と地を創造されたときにまで及ぶものであり、その黙想の中で詩人は、創造者であり全能者なる神の、力と義と真実をあらためて教えられたのです。またその神が、「私の王」であることを示され、個人的な関係を取り戻し、「あなた…あなた…」と、繰り返し親しく呼び掛けたのです。その静まりを経て詩人は、なぜ、いつまでと神に問い詰めることをやめました。そして、心に留めてください、忘れないでくださいと、神の好意とあわれみを求めてへりくだり、偉大な神は、虐げられている民に目を留め、敵の手から必ず救い出してくれるはずだと、神に全幅の信頼を寄せて祈り求める者となったのです(18-23節)。私たちも、現状を見て心奪われるなら、詩人と同じように、なぜ、いつまでと、神に不満をぶつけることに終始してしまいます。しかしそこから退き、静まり、主の偉大な創造と救いのみわざを覚えるなら、その神が私の神、私の王であることを認めるなら、私たちもまた、主をあなたと親しく呼び、力と義と真実に満ちたそのお方に、信頼をもって祈り求める者とされるのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10、口語訳)。日々そのようにして歩みたいと思います。

確信と平安が与えられますように。

◇聖書箇所: 詩篇 73篇◇(5月6日)

「しかし 私にとって神のみそばにいることが 幸せです。私は 神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。」…詩篇73:28

神を信じて誠実に歩んでいた詩人でしたが、つまずいて滑りかけるような不安定な歩みとなってしまいました。それは、3-12節に書かれているように、悪しき者たち、すなわち、神を信じない者たちが繁栄し、高慢になり、神を信じる者たちを嘲り、やりたい放題、言いたい放題であるのを見聞きし、そのことをねたみ、かつ、理不尽だと神を非難する思いが湧き上がっていたからです。しかし、あるとき、その状況は一変しました。それは、詩人が「神の聖所に入って彼らの最期を悟った」(17節)からです。聖所とは、文字どおりの神殿を指すのか、それとも、神の臨在の中に身を置いたということなのかは不明です。いずれにしても詩人は、そこでの神との深い交わりの中で教えられたのです。悪者の繁栄はあくまで一時的であって永遠ではないということ、彼らの最期は悲惨なものであるということ、神は真実なお方であり、正しい者が決して恥を見ることはないということを…。「私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした」(22節)。詩人は、自分が獣のように、悪しき者たちがのさばっていることに対して本能的に反応し、感情のおもむくままに神を責めていたことに気づきました。そして、主の前に自らの不信仰を悔い改めたのです。と同時に、主がそんな自分の手をしっかりとつかんで、離れないようにしてくださったことを知ったのです(23節)。そのように、不条理と思えることの中で、神から離れそうになった詩人は、神のみそばにいることの幸いをあらためて覚えてこう告白しました。「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。…しかし 私にとって神のみそばにいることが 幸せです」と(27-28節)。私たちの幸いとは、何よりも神のみそばにいて、主の愛と恵みを受け、御手で守られ、支えられることなのです。私たちも詩人に倣い、そのように告白したいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 26章27-46節◇(5月3日)

「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるとき、わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしが彼らの神、主だからである。」…レビ26:44

26章27-28節には、イスラエルの民がなおも、主に聞き従おうとせず、逆らって歩むなら、主もまた激しい憤りをもって民に逆らい、その罪に対して7倍重く、つまりそれまでののろいよりもはるかにひどく彼らを懲らしめるとあります。「これにもかかわらず」という表現に、数々のわざわいにも懲りない民の罪深さが示唆されています。29節以降にはその具体的なのろいが描写されています。民は飢餓に苦しむあまり、自分の子の肉を食べるというおぞましい行動に走るのです。また、民が慕っていた偶像の高き所は打ち壊され、バラバラになった偶像の上に民の死体が積み上げられるようになるのです。さらに、民は追われて国々の間に散らされ、住んでいた町は廃墟となり、あまりの惨状に敵も?然としてしまうのです。そのような中、生き延びた者たちも、神が彼らを臆病にさせるので、何でもない物音を恐れて慌てて逃げ惑い、折り重なって倒れ、そこで朽ち果ててしまうのです。しかし主は、民を根絶やしにされるのではありません。41-42節には、民がへりくだり、自分たちの咎の償いをする、すなわち真の悔い改めに至るなら、主は、民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされるとあります。そしてそれは、その契約を主が忘れていたというわけではなく、主が契約を確かにされる、それを破棄せずきちんと実行するという意味なのです。44節は驚くべき主の宣言です。「これにもかかわらず」逆らう民に対して、「それにもかかわらず」、主は彼らを退けず、絶ち滅ぼさず、彼らの父祖たちとの契約のゆえに祝福してくださるのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀3:22-23a,3版)。私たちも、主の恵みとあわれみを受け、キリストの血による契約の中にあることを覚えて感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 26章1-26節(5月2日)

「わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。」…レビ26:19

26章には、イスラエルの民に対する、神の祝福とのろいが書かれています。そしてそれは、民が神が定めた掟に従って歩むかどうかという、神が定めた基準によって、どちらがもたらされるかが決められたのです(3節)。4-13節は神の祝福です。地は産物を生じ、木々や穀物は実を結び、敵は倒れ、子孫が増し加えられるのです。それらは、神がアブラハムとの間に結ばれた、祝福の契約(創17:7)の成就にほかなりません。そして、その文脈の最後である13節には、「わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたを奴隷の身分から救い出すために、エジプトの地から導き出した…」と、25章38節で語られたことが繰り返されているのです。14節以降には、一転して、神が与えるのろいが書かれています。肺病や熱病に冒され、心も病み、野の獣が放たれて子や家畜が奪われ、疫病も起こり、敵の手に落ちて飢餓で苦しむようになるのです。その文脈中の19節には、「わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き」とあります。民が神の掟に聞き従わないのは、自分の力を頼みとし、神は不要だと高慢になっているからなのです。そしてそれは思い上がりであり、神はそのような心を持った者を、御前から退けられるのです。その神は、今も私たちに対して、わたしの教えに聞き従い、わたしの祝福を受ける者となるのか…。それとも自分の力を頼みとし、わたしののろいを受ける者となるのか…と、選択を迫っておられるのです。私たちはキリストにあって罪の奴隷から贖われた者です。束縛から解放され、くびきが砕かれ、自立して歩む者とされています(13節)。しかし、神の所有の民、主のしもべとして、みことばを通して示されている神の御旨に従って歩むこと、主の命令を守り行うことは、神の民にとって当然であり、そこに平安と喜び、祝福といのちがもたらされるのです。そのことをあらためて覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 25章29-55節◇(5月1日)

「わたしはあなたがたの神、主である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。」…レビ25:38

レビ記25章の後半には、住居の買い戻し、貧しい者への支援、奴隷などの身売りされた者の買い戻しについての規定が書かれています。38節のことばが、その貧しい者に対する教えの文脈の中にあり、「あなたがたの神となるために」と語られていることに心が留まります。主は、「あなたがたにカナンの地を与えるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した…」と言われたのではありません。主が民を奴隷から解放し、荒野の歩みを導いて約束の地に導き入れるのは、単にそこに安住させ、豊かな暮らしをさせるためではないのです。民が自由を享受して好きなように生きるためでもないのです。「あなたがたの神となるために」…。そう言われた主は、<わたしがあなたがたを守り、導き、すべての必要を満たすことを信じなさい…。わたしの主権を認め、わたしのことばに従順に聞き従いなさい…。そうすればわたしは、あなたがたの上にわたしの力と栄光を現わそう…>と、そのようなメッセージを民に伝えられたのです。私たちもかつては罪の奴隷であり、自由を奪われていました。48節以降には、身を売った奴隷も自分で自分自身を買い戻すためができるとありますが、私たちを罪の奴隷から買い戻すことができるのは、十字架にかかり、ご自身のいのちを代価としてくださった、イエス・キリストただお一人なのです。そしてそのようにして贖われた私たちは、霊的なイスラエルの民とされ、神の国の祝福にあずかっているのです。しかし、だからと言って、与えられた自由をはき違えてはならないのです。祝福だけを追い求める者であってはならないのです。私たちは神のしもべ(55節)、キリストのしもべであって(1コリ4:1)、主に忠実に仕え、御旨を行うべく生かされているからです。キリストがわたしの主となっているか、主に聞き従う者となっているか…と、自己吟味したいと思います。

救われた喜びが絶えずありますように。