◇聖書箇所: 列王記第二 17章24-41節◇(8月23日)

「このようにして、これらの民は主を礼拝すると同時に、彼らの刻んだ像にも仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行った。今日もそうである。」…2列王17:41

アッシリアの王は、イスラエルの民を捕囚とし、自国に連行しましたが、同時に、バビロンなどの地から異邦の民をサマリヤの町々で代わりに住まわせました。しかし、彼らがイスラエルの神を畏れず、主が獅子を送り込んでそのうちの何人かを殺させたため、王の指示により、捕囚の中の祭司の一人が連れ戻され、彼らに対し、イスラエルの神の礼拝のしかたを教えることとなったのです。にもかかわらず彼らは、めいめい自分たちの信じる偶像の神々を作り、それらを高き所の宮に置いて拝みました。また、自分たちの子どもを火で焼いてささげるという、彼らの忌まわしいならわしを続けたのです。とは言え、イスラエルの神をまったく無視したわけではなく、獅子の一件がそうさせたのか、形式的ではあっても、主の祭司が教えたところに従って主を礼拝したのです。列王記の記者は、「彼らは主を礼拝しながら、同時に、…自分たちの神々にも仕えていた」と記しています(33節)。35-39節には、主がご自身の民と結ばれた契約に基づく、律法の教えが書かれています。そこには、主だけを恐れ(畏れ)て礼拝せよ、ほかの神々を恐れ(畏れ)るな、とあります。しかしながらサマリアに残された者たちも、移住させられた異邦人たちも、その教えを守ろうとはせず、イスラエルの神と、異教の神や人の手による偶像の神、そのどちらにも礼拝をささげて仕えようとしたのです。「だれも二人の主人に仕えることはできません」と主イエスは言われました(マタ6:24)。ともすれば私たちは、主を信じると言いつつも、世的なものにも心を寄せ、頼みにしようとします。また、神を山になぞらえ、登り口は違っても頂上は同じだと説く、普遍主義的な思想が人々に受け入れられます。しかし神は、そのようなあり方を退けられます。それは非聖書的なのです。そのことを覚え、主だけを畏れて仕える者でありたいと思います。

二心が砕かれ取り除かれますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 17章1-23節◇(8月22日)

「しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちのように、うなじを固くした。」…2列王17:14

イスラエルの王ホセアは、アッシリアの王シャルマネセルに貢ぎ物を納めていましたが、エジプトから助けを得てアッシリアに抵抗しようと企み、途中で貢ぎ物を納めるのを止めました。すると、それを知ったアッシリアの王がイスラエル全土に攻め上ったため、首都サマリヤは陥落し、民はアッシリア領土の何ヶ所かに捕らえ移されました。そのように、ヤロブアム王から2百年あまり続いたイスラエル王国は、ついに滅びてしまったのです。そのような事態となった理由が7-23節に総括されています。イスラエルの民は、カナン人や周囲の異邦人に倣ってバアルやアシェラや子牛の偶像を拝み、高き所で犠牲を供え、自分たちの子どもに火の中を通らせ、占いやまじないをしました。それは主が忌み嫌われることであって、民がそれらの罪を犯して、主の激しい怒りを引き起こしたため、主が彼らを御前から投げ捨てられたのです。主はすべての預言者たちと先見者たちを通し、それらの悪の道から立ち返り、律法全体に従ってご自身の命令と掟を守るよう、イスラエルとユダに命じておられました。それにもかかわらず、イスラエルはそれを無視し、自分たちの肉なる思いを押し通したのです。14節には「うなじを固くした」とありますが、彼らは頑なで、強情で、自分たちの過ちを認めようとはしなかったのです。「叱責されても、なお、うなじを固くする者は、突然打ち砕かれて、癒されることがない」(箴29:1)。日々、主のみことば(律法)と向き合い、主の御声に耳を傾け、自らの歩みを吟味する中で罪を悔い改め、主に立ち返り、主のあわれみを乞い求める…。固い石の心ではない、そのような柔らかい肉の心を持つ者を、主は顧みてくださるのです。そして、主ご自身が、御霊の働きによって、私たちをそのような者へと変えてくださるのです(エゼ36:26-27)。信仰をもってそのことを受けとめ、ますます主を畏れてへりくだり、主に従い続けたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 16章◇(8月21日)

「アハズは使者たちをアッシリアの王ティグラト・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から救ってください。」」…2列王16:7

南ユダではヨタムの死後、彼の子アハズが王となりましたが、アハズは先代の王たちのように主の目にかなうことを行なわず、先住のカナン人の異教の慣わしをまねて、自分の子どもに火の中を通らせることまでしました。またその頃、南ユダの預言者イザヤが、アラムと北イスラエルの連合軍が攻めてきても恐れるな、主のしるしを求めよとアハズに告げましたが(イザ7:4,11)、彼はそれには耳を貸さず、アッシリアの王に金銀を送って助けを求めました。するとそれは功を奏し、アラムの王は殺され、アハズとユダの民は難を逃れることとなったのです。しかし、それはあくまで人間的な手段による一時的な解決であって、主がもたらされた勝利と祝福ではありませんでした。にもかかわらず、アハズの心はますます主から離れ、アッシリアの王に会うためにダマスコに行ったときに見た異教の祭壇に魅了された彼は、何と、それとそっくりのものを、祭司ウリヤに命じてエルサレムに築かせたのです。その結果、主の宮にあった青銅の祭壇は移動され、洗盤などの他の器具も取り外され、アハズが築かせたその「大いなる祭壇」が、ささげ物を焼いて煙りするところとされたのです。そのことがどれほど大きな主への背信行為であったかは言うまでもありません。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です…救ってください」。アハズは使者たちをアッシリアの王に送り、そのように伝えさせましたが、そのことばは、本来、神である主に対して告白されるべきものだったのです。しかし彼が人間的なものに頼った結果、異教の祭壇による礼拝という霊的な汚染が国に拡散してしまったのです。「あなたの神、主に、しるしを求めよ」(イザ7:11)。試練・苦難のときに誰に頼り、何を求めるのかが私たちにも問われています。どんなときにも主を呼び求め、主の助けと救い、しるしとみわざを待ち望みたいと思います。

ますます主だけに拠り頼む者とされますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 15章23-38節◇(8月20日)

「イスラエルの王ペカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが来て、イヨン、…ハツォル、ギルアデ、ガリラヤ、ナフタリの全土を占領し、その住民をアッシリアへ捕らえ移した。」…2列王15:29

15章後半にも多くの王が登場します。北イスラエルでは依然として王が次々と入れ替わり、国家の安定は失われ、末期症状とも言える状況でした。メナヘムの子ペカフヤは、彼の侍従ペカが起こした謀反により殺され、そのペカもまたエラの子ホセアの謀反により討たれましたが、そのような中、ペカの時代に、アッシリア王ティグラト・ピレセル(三世)によってイスラエル北部の領土を奪われ、住民がアッシリヤへ捕らえ移されてしまったのです。メナヘム王は、プルとも呼ばれるティグラト・ピレセルがイスラエルに圧力をかけてきたとき、銀千タラントを彼に与えて去らせ、事なきを得ましたが、それはメナヘムが「プルの援助によって、王国を強くする」ことをもくろんでのことでした(19節)。しかしそれは裏目に出て、政情が不安定になっているイスラエルの足もとを見るようにして、プルは時機をはかって一気に攻撃をしかけたのです。結果的に、メナヘムの人間的な思いからの期待は、そのようにして無残に打ち砕かれてしまいました。列王記の記者は、メナヘム、ペカフヤ、ペカもまた、先代の王たちと同様に、ヤロブアムの罪を離れなかったと記しています(18,24,28節)。そのように、国家のリーダーである王たちが主に背を向け、罪を犯し続け、それをちっとも悔い改めようとしなかった状況にあって、主がイスラエルをアッシリヤの手に渡すようにされたのは、受けるべき当然の報い、結果であったと言えるのです。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」(ガラ6:7)。私たちは、自らが蒔いた種がもたらすものを、刈り取らなければなりません。イスラエルは、国家の滅亡という取り返しのつかない事態に陥りましたが、私たちは、そのことを教訓として受け取り、主に従順に従い続ける者でありたいと思います。

良い実を結ぶことができますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 15章1-22節◇(8月19日)

「彼は主の目に悪であることを行い、一生の間、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった。」…2列王15:18

15章には、南ユダと北イスラエルの王がめまぐるしく代わっていく様子が描かれています。ユダではアマツヤの子アザルヤ(別名ウジヤ)が16歳で王となり、52年間の長きにわたって国を治めました。一方イスラエルでは、ヤロブアム(二世)の後に王となった彼の子ゼカリヤは6ヶ月、さらにそのゼカリヤを討って王となったヤベシュの子シャルムは、わずか1ヶ月という短い治世でした。そのシャルムもガディの子メナヘムによって殺されました。それらのイスラエルの王たちについて、列王記の記者は、「彼は主の目の前に悪を行い…ネバテの子ヤロブアムの罪から離れなかった」という慣用句のような表現で断じています(14:24,15:9,15:18)。そのヤロブアムの罪とは、金の子牛を作って民に拝ませたことですが(1列12:28)、それはつまり、イスラエルのまことの神に背を向け、人の手による偶像に心を向けたということであり、バアル礼拝も含め、主に聞き従わず、拠り頼もうとしないあり方はすべて、「ヤロブアムの罪」だと言えるのです。ところで、神の人エリシャはヨアシュ王の時代に亡くなりましたが(13:20)、それ以降、列王記には預言者の名前が記されていません(実際には主のことばがホセアにありましたが…(ホセ1:1-2))。そしてそれは、預言者が常に、国を治める王たちに神のことばを告げ、主のみこころを示し、王に助言や叱責を与える状況ではなかったということであり、そのような中、イスラエルの王位は、私欲と野心に満ちた者たちによって争われたのです。またその統治は、人間的な手段によってなさたのです(19-20節)。神に背を向け続けるゆえに、国が滅びてしまうイスラエル…そこに、終わりの日に近づいているこの世界が重なります。そのような中、聖徒とされた私たちは、神のことばにしっかりと心を留め、御霊の助言と促しに耳を傾け、主のメッセージを取り次ぐ「預言者」として、神の国の到来と祝福を人々に伝えていきたいと思います。

主のみこころがこの地になりますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 14章17-29節◇(8月18日)

「主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。」…2列王14:27

北イスラエルではヨアシュの子ヤロブアムが王となりました。北イスラエルの最初の王、ネバテの子ヤロブアムと区別するために「ヤロブアム2世」とも呼ばれます。彼もまた、主の目に悪であることを行なう罪深い王でした(24節)。それはもちろん主が望まれないことであり、主は、ヤロブアムに怒りを燃やし、彼と彼が統治しているイスラエルの国を滅ぼすことだってできたのです。ところが主は、そうはされず、むしろイスラエルを顧みてその領土を回復させました。26節にはその理由として、「イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主がご覧になったからである」と記されています。主は、ご自身の民が、周辺の国からの圧迫と、内政が破綻している状況の中で、苦しみ、倒れそうになっているのを見、また、民の悲痛な叫びを聞いて、心を動かされたのです。元より、主がアブラハムと結ばれた契約、すなわち、子孫を空の星、海辺の砂のように増やす祝福の約束が、ヤロブアムの時代に途切れてしまうことは、ご自身のご計画、みこころではありませんでした。アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)…と連綿と続くその契約は、さまざまな歴史を経ても、決して消滅してしまうことなく継続し、さらにキリストの血による新しい契約の中に入れられた私たちへも、受け継がれているのです。「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した」(25節)。それはもちろん、ヤロブアムの力によることではありません。「イスラエルを助ける者もいなかった」(26節)中で、主ご自身がイスラエルを助け、不忠実な王であるヤロブアムを用いて、そのよううにしてくださったのです。そのように主は、恵みとあわれみに満ちたお方であり、その大能の力と力強い御腕により、民を支え、守り、導いてくださるのです。私たちもまた、神の民として、苦難の中にあっても主に拠り頼み、祈りと叫びをもって主を待ち望みたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 13章◇(8月16日)

「神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」」…2列王13:19

北イスラエルでは、エフーの死後、彼の子エホアハズが王となりましたが、主の目の前に悪を行ったため、主は怒りを燃やし、アラムにイスラエルを虐げさせました。しかし彼が主に助けを祈り求めると、主はそれを聞き入れられ(4節)、族長たちとの契約のゆえにイスラエルを顧みて、彼らが滅ぼされないようにされたのです(23節)。そのように、主から離れまた近づき…と、中途半端な態度を取り続けたイスラエルの王や民…。それはエホアハズの後を継いだ彼の子ヨアシュにも見られます。ヨアシュはエリシャが死に瀕していたとき、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました(2:12参照)。彼はエリシャが神から受けていた権威を認め、アラムの脅威から国が守られるようにと願い求めたのです。するとエリシャは彼に弓と矢を取らせ、いくつかのことを指示しましたが、矢で地面を打つよう命じたヨアシュが3度打ってやめてしまったことに激怒したエリシャは、彼を非難し、あなたは3度だけアラムを討つことになると告げ、実際そのことばのとおりになったのです(25節)。その矢は「アラムに対する主の勝利の矢」(17節)でした。主にあって圧倒的な勝利を得るのだ、という強い思いがヨアシュにあったなら、彼は5回、6回と矢を打ったはずです。しかし3回でやめてしまった彼の行動に、エリシャは、主に対する中途半端な期待と信頼を見たのです。「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」(詩62:8)。王ダビデは、どんなときにも、とことん神に拠り頼め、心を神の御前に注ぎ出せ、と民に命じています。私たちも、中途半端な態度、信仰ではなく(黙3:16)、主への全き信頼の心をもって主の勝利の矢を打ち続け、放ち続け、圧倒的な勝利を得る者でありたいと思います。

主にあって勝利することができますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 12章◇(8月15日)

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも主の目にかなうことを行った。」…2列王12:2

7歳という若さでユダの王となったヨアシュは、40年間という長きにわたって国を治めましたが、彼の後ろ盾となり、油を注いで王とした、祭司エホヤダの指導と支えがあったことを、列王記の記者は記しています。それは、ヨアシュが、年齢的なこともありましたが、悪い王ではなかったものの、弱さや不十分さのゆえに独り立ちできず、助けを受けて王の任務を果たし得たということです。ヨアシュは祭司たちに、主の宮への課徴金や献金を元に、宮の破損を修理するよう命じていましたが、一向に実行に移さない彼らに業を煮やした彼は、祭司たちにその金が渡されないようにし、責任も持たせなくしました。するとエホヤダは、主の宮の入口に新たに献金箱を設け、そのお金を王の書記と大祭司が工事の監督者たちに渡し、宮の改修が進むようにしたのです。祭司たちは霊的な事柄にもっぱら当たっており、事務的なことは不得手だったでしょう。しかしヨアシュはそのことを考慮せず、宮の修理をとにかく進めたいという思いにとらわれ、知恵と導きを求めて主に祈ろうとはしなかったのです。そのように、何が最善なのかを深く考えず、その場しのぎの態度に終始するヨアシュの姿勢は、アラムの王ハザエルがエルサレムに攻め上って来たときにも現れました。彼は、ハザエルを去らせるために、先代の王たや自分が聖別して主にささげた大切な物や、宝物倉のすべての金を、ハザエルに渡してしまったのです。言うまでもなくそれは、主に喜ばれることではありませんでした。その後彼は、家来たちの謀反により打ち殺されました。私たちも弱くて足りない者です。だからこそそれを素直に主の前に認めて、御霊の助けと導きを日々祈り求める必要があるのです。うまくいかない事があるなら、その根本的な原因を主から教えられ、それを変えていくことが大切なのです。その場しのぎではない本質的なあり方を、常に主に尋ね求めるべきなのです。主がその求めに確かに答えてくださることを覚えたいと思います。

主からの知恵と導きが与えられますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 11章◇(8月14日)

「エホヤダは、主と、王および民との間で、彼らが主の民となるという契約を結ばせ、王と民との間でも契約を結ばせた。」…2列王11:17

ユダの王アハズヤの母アタルヤは、アハズヤがエフーに殺されたことを知ると、自らが王となり、ダビデ家の血筋を絶つために、ただちにユダの家に属する王の一族全員を滅ぼしました(1節、2歴22:10参照)。しかし、アハズヤの子であり、まだ若かったヨアシュは、アハズヤの妹エホシェバによって、乳母とともに主の宮に6年間かくまわれ、殺されずに生き延びることができたのです。7年目に、エホシェバの夫である祭司エホヤダ(2歴22:11)はヨアシュに王冠をかぶらせ、ユダの人々も彼を王と宣し、彼に油を注ぎ、「王様万歳」と叫びました。アタルヤはその声を聞いて謀反が起きたことを知りましたが、万事休す、彼女は連れ出され、王宮で殺されました。そのアタルヤは、オムリの孫娘(8:26)、つまりアハブとイゼベルの娘であって、アハズヤの助言者となり、北イスラエル王国の悪を南ユダ王国に持ち込み、バアル信仰を国中に広めた人物でした。そして主は、そんな彼女がユダの王としての権威を濫用し、悪を深めることを阻止すべく、そしてダビデの家系からの王を立てるべく、6年の期間を経て、祭司エホヤダとその妻エホシェバを用いてアタルヤを退け、ヨアシュを王とされたのです。アタルヤの死後、エホヤダは王や民に対して、「主の民となる」という契約をまず結ばせました。すると民衆は、自分たちの国に主のみこころがなることを願い、バアルの宮を取り壊し、その祭壇と像を徹底的に打ち砕き、バアルの祭司も殺したのです。「この町は平穏であった」(20節)ということばが心に留まります。それは単に国に戦いがなかったということではなく、主が、ご自身に従う決意をしたユダの民を喜ばれ、一人ひとりに平安を与え、民が住む町々を御手で守られたということなのです。主は私たちにも「平穏」をもたらそうと願っておられます。日々、主が喜ばれないものを取り除き、主の民として生きることを決心したいと思います。

主の御旨のうちを歩む者とされますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 10章18-36節◇(8月13日)

「主はエフーに言われた。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に就く。」」…2列王10:30

エフーはすべての民を集め、自分はバアルに大いに仕えるつもりであり、バアルのためにきよめの集会を開催するので、バアルの信者は全員バアルの宮に集うようにと命じました。しかしそれは、彼の策略であったのです。布告を知って集まった信者たちがバアルの宮に入り、そこがいっぱいになると、エフーは、信者だけに祭服を着させ、そこに混じっていた主のしもべを宮の外に出させた上で、宮の外に配置した侍従たちに対して、信者を一人残らず討ち取れ、と命じたのです。彼らはそのとおりに実行し、さらにバアルの宮も徹底的に破壊しました。そのようにエフーは、バアルをイスラエルから根絶やしにするという功績を立てましたが、ヤロブアムが作った金の子牛に仕えることはやめず、主の律法を守り通そうとまではしませんでした。そのことは29節、31節に繰り返されていますが、それらにはさまれた30節には、主からエフーに対する称賛のことばが書かれているのです。「あなたはわたしの目にかなったことをよくやり遂げ…」と。そしてそのことのゆえに、エフーの子孫が4代目まで王座に就くと、主は彼に約束されたのです。そのことをどう受けとめればよいのか…私たちは困惑します。しかし確かに言えることは、主は主権者であられ、エフーのような者をも用いて、ご自身の計画を成し遂げられるということです。そしてそのエフーは、非の打ち所がない、完全な者ではなかったということです。私たちもまた、主の前に罪のない全き者ではありません。しかし、一人ひとりは確かに主に贖われ、御霊の油注ぎを受け、主の働きを担い、主に尊く用いられるのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。…主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタ25:21)。私たちも主から、そのような称賛のことばを受け取る者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 10章1-17節◇(8月12日)

「だから知れ。主がアハブの家について告げられた主のことばは一つも地に落ちないことを。主は、そのしもべエリヤによってお告げになったことをなされたのだ。」…2列王10:10

イスラエルの王ヨラムとユダの王アハズヤを討ち取り、アハブ王の妻であったイゼベルを殺したエフーは、それで満足することなく、さらに行動し続けました。アハブにはサマリアに70人の子どもがいましたが、エフーは手紙を送り、イズレエルの長老たちやその子の養育係たちに対して、その子どもたちを殺害し、彼らの首を持って来るようにせよ、と命じたのです。エフーに従わないと自分たちが殺される…と恐れた彼らは、その命令を実行しました。しかしエフーはさらに、ユダのアハズヤ王の身内の者42人をもを捕らえて殺させ(14節)、その後もイズレエルに残っていたアハブに属する者を皆殺しにし、一族を根絶やしにしたのです(17節)。容赦なく徹底的にそれらにあたるエフーは、冷徹かつ無慈悲な存在に思えます。彼の残酷なやり方と凄惨な場面に接すると、思わず眉をしかめたくなってしまいます。しかし、それらはすべて、主が計画され、エフーを用い、主ご自身が成し遂げられたことだったのです。主は、エリヤを通してアハブに、「わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし…」と告げ、「それは…あなたが引き起こしたわたしの怒りのゆえであり、あなたがイスラエルに罪を犯させたためだ」と言われていたのであって(1列21:21-22)、その主のことばのとおりになったのです。「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを」(ロマ11:22a)。神は愛といつくしみに満ち、同時に、ご自身に背く者に怒りを燃やされるお方なのだ…とあらためて教えられます。また私たちには、子孫や後の世代に主の祝福がもたらされるための責任があるのだ…ということにも気づかされます。主のご計画は確かに実現する…主ご自身が成し遂げられる…。そのことを覚えつつ、ますます主への畏れをもって歩む者でありたいと思います。

主の御旨にかなう者としてきよめられますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 9章14-37節◇(8月11日)

「彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言った。二、三人の宦官が彼を見下ろしていたので、彼が「その女を突き落とせ」と言うと、彼らは彼女を突き落とし、彼女の血が壁や馬にはねかかった。」…2列王9:32-33a

30節以降には、アハブ王をそそのかしてイスラエルに罪を犯させた、彼の妻イゼベルの悲惨な最期が記されています。アハブが死に、彼の子ヨラムの治世になってからも、彼女の影響力は衰えることなく、姦淫と呪術が国中にまん延していました。しかし、義なる神は、そのことを放置されることなく、預言者エリシャを通してエフーをイスラエルの王とし、彼を用いてイゼベルのいのちを取られたのです。窓から突き落とされた彼女のからだは、一部しか残っていませんでしたが(35節)、「犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう」とエリヤを通して言われた主のことばは(1列21:23)、確かに成就したのです。その際、イゼベルに仕える宦官たちがいましたが、主は、彼らの中から、彼女を守ることよりもエフーの命令に従う数人の者たちを起こし、彼らを用いて彼女を窓から突き落とさせ、ご自身の計画を遂行されました。17-24節には、ヨラム王の最期の場面が書かれていますが、王からエフーの元に遣わされた数人の騎兵たちもまた、エフーに言われたとおりに彼の後に従う者となり、ヨラムを裏切ったのです。そのようにして彼らはそれぞれ、自分たちの主人に従わずに主が油注がれた王エフーに従い、主の御旨をなす者、主に用いられる者となったのです。現代においても、この地は闇に覆われ、罪と悪がまん延しています。しかし義なる神は、そのことを放置されず、主権者として、ご自身の統治をこの地に必ず回復され、まことの神に立ち返る者を起こしてくださるのです。この世界がサタンに牛耳られることなど決してありません。神の国をこの地にもたらされたキリストは、死からよみがえられ、サタンに勝利されたお方なのです。そして、キリストに贖われた聖徒たちをとおして、主は、神の国を打ち建てられるのです。私たちも主の命令に従って行動し、そのために用いられる者でありたいと思います。

御国が来ますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 7章◇(8月8日)

「王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。」…2列王7:17

飢えに苦しむサマリアの住民に対して、エリシャは、明日の今ごろには小麦粉や大麦が安く売られて手に入るようなる、と告げました。しかしそれを聞いた、王の側近である侍従の一人は、「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか」と言って否定したのです。するとエリシャは彼に、あなたはそのことを目撃するが、それを食べることはできないと告げました。エリシャのその預言は思いがけない形で成就しました。主がアラムの陣営に大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らはイスラエルに襲撃されたとすっかり思い込み、陣営を何もかもそのままにして、慌てて逃げていたのです。実はそのことを王に知らせたのは、ツァラアトに冒され、町の中に入れずにいた4人の者たちでした。彼らはやけっぱちになり、殺されることも覚悟してアラムの陣営に入り込んだところ、そこがもぬけの殻だということを発見したのです。そのことを知った王と民は、難なくアラムの陣営をかすめ奪い、エリシャのことばどおり、小麦粉と大麦は安く売られるようになりました。そしてそれを否定した侍従は、人々に踏みつけられて死んだのです。エリシャは民に、「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる」と命じ、起こることを告げました(1節)。しかし王の侍従はそれを聞いても、そんなことはあり得ないと、一笑に付したのです。けれども、神の人のことばを否むということはすなわち、主のことばを否み、引いては主ご自身を否むということにほかならないのです。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる」…。主のことばは、今もすべての人に対して、聖書を通して与えられており、御霊によって確かに語られています。それを聞いて信じる者は「生きる者」とされるのです。主のことばを「アーメン、信じます」と素直に受け入れ、その約束の成就を待ち望む者でありたいと思います。

みことばに伴うしるしがもたらされますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 6章24-33節◇(8月7日)

「彼は言った。「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」」…2列王6:31

エリシャの懐柔策によりいったんは回避された、アラムによるイスラエル攻略の動きが再び起こり、サマリアはアラム軍によって包囲されてしまいました。それに加えてサマリアには大飢饉が起こっていたため、人々は苦しみ、ろばの頭や鳩の糞さえも売り買いされるようになっていました。そんな中、国を巡回していたイスラエルの王を一人の女性が呼び止め、子どもを食べて生き延びようとこの女から持ちかけられ、まずは自分が子どもを差し出したのに、翌日になると彼女は、自分の子どもを隠してしまった、と訴えたのです。それを聞いた王は、着ていた自分の衣を引き裂き、感情をあらわにしました。その後、王はエリシャを殺害しようと考え、使者を遣わしました。なぜなら王は、イスラエルが直面している困難は神のさばきによるものだと感じており、それに対し、積極的にとりなしの働きをしようとしないエリシャを見、さらに女性から悲惨でおぞましい現実を聞かされると、彼の屈折した心理によって、神に対する不満と怒りは、イスラエルへの神のさばきを告げるエリシャへの憎悪となり、ひいてはそれが殺意へと変わっていったからです。王は、女性の訴えを聞いて衣を引き裂いたとき、その下に粗布を着ていました。彼は国の窮状への主の介入を祈り求めてはいたのです。しかし、その答えが得られない状態が続く中、彼のうちに不満や怒りがどんどんたまっていったのです。しかし、だからといって、王はその矛先をエリシャに向けるのではなく、国の指導者として誰よりも主の前に深く悔い改め、神の人エリシャに協力を求め、ともに主のあわれみを求めるべきだったのです。私たちが王と同じような感情を持つとき、それを自分の内に押し殺したり、自分の至らなさを棚に上げて人に向けたりすることなく、へりくだって自らのあり方を吟味し、主に悔い改め、主のあわれみと介入を祈り求めるべきなのです。そのような者でありたいと思います。

絶えず謙遜な者として歩むことができますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 6章1-23節◇(8月6日)

「そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」…2列王6:17

イスラエルと戦っていたアラムの王は、自分たちの動きがすべて相手に読まれているのを知り、初めはスパイの存在を疑いました。しかし家来から、それが預言者エリシャの働きによるものだと聞くと、彼を殺害すべく、ドタンに軍隊を送り、夜のうちにその町を包囲しました。朝起きてその軍隊を見た召使いから、起こっていることを知らされたエリシャは、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と彼に告げ、彼の目が開かれるようにと主に祈りました。すると、ただちにその願いは聞かれ、その召使いが目を上げると、自分たちの味方である火の馬と戦車が山に満ちているのが見えたのです。その後、アラム軍の兵士たちが盲目にされ、連れて行かれたサマリアで目が開かれた際にも、主は、そのことを願ったエリシャの祈りに答えられ、結局彼らは、エリシャが指示した盛大なもてなしによって懐柔されて、アラムに戻って行ったのです。私たちが自分の目でみて認識する「現実」は、必ずしも「事実」ではありません。実際、加工された「フェイク」画像が悪用され、騙されるケースが増えています。そもそも私たちに備わっている目は、錯視と呼ばれる目の錯覚をたやすく起こしてしまう、頼りないものなのです。その意味では私たちの目もまた、本来見るべきものが見えていない「盲目」の状態であり、「私の目を開いて見えるようにしてください」と、主に祈り求めるべきなのです。エマオへの途上の二人の弟子たちの目は、主イエスが説き明かされた聖書のことばと、主との親密な交わりの中で開かれましたが(ルカ24:13-31)、私たちもまた、主との交わりの中で、みことばの光に照らされて悟りを得、霊の目が開かれるようになるのです。日々そのような扱いを受け、恐れずに歩む者とされたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 5章◇(8月5日)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」…2列王5:14

ツァラアトに冒されていたアラムの将軍ナアマンは、癒しを求めてエリシャを訪ね、彼の家の入口に立ちました。しかし、エリシャは自分からナアマンに対応しようとせず、代わりに使者を遣わし、ヨルダン川で7回あなたの身を洗えば治る、とナアマンに伝えさせたのです。それを聞いたナアマンは激怒し、ただちに帰途につきました。ナアマンは、エリシャが出てきて、手を自分の患部の上に置いて祈ってくれるだろうと期待していました。ところが実際には、ヨルダン川に入って7度身を洗えという、想定していなかった指示だけだったのです。将軍である自分への扱いがそれか!…と、彼が持っていたプライドも、その憤りの理由の一つとなったに違いありません。しかしそんなナアマンに、思いとどまるよう彼のしもべたちが進言すると、彼は素直にそれを受け入れ、指示されたことを忠実に実行しました。すると、ツァラアトは完全に癒され、彼のからだは幼子のようになったのです。もしナアマンが、憤ったまま帰宅したなら、しもべの進言を無視したなら、川で身を洗うのを途中でやめたなら、その偉大な神のみわざが起こることはありませんでした。エリシャを通して彼に与えられたのは、イスラエルの神からのチャレンジであり、彼はそれをクリアしたのです。主は、私たちにも信仰のチャレンジを与えられます。思いもよらない想定外の事が、しばしば起こります。しかし私たちは、いかなる状況であってもただ主に信頼し、先入観やプライドを捨てて主権者なる主の前にへりくだり、神のことばを素直に受け入れ、忍耐をもって主の導きや促しに従い通すべきなのです。そうするとき、私たも、主のみわざを体験することができるのです。身に起こる一つ一つの事に心騒がせることなく、ひたすら主に拠り頼む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 4章18-44節◇(8月4日)

「それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。」…2列王4:34

4章にはエリシャを通してなされた4つの奇蹟が記されていますが、今日の箇所である18節以降においても、人々の必要が満たされ、「生きる者」とされたことが示されています。特に2つ目の奇蹟では、多くのスペースが割かれ、ある夫婦に与えられた息子が病気で急死し、エリシャがその子を生き返らせた様子が詳しく描かれています。その夫婦はエリシャにいつも食事を提供していましたが、子がなかったため、エリシャが彼らの好意への報いとして主に願うと、男の子が与えられました。ところが、その子は、ある日激しい頭痛に襲われて死んでしまったのです。母親は急いでエリシャのところに出かけて行きましたが、彼女は、子どもを生き返らせてもらう願いより、エリシャを責め立てる思いを抱いていたのです(28節)。事情を察したエリシャが彼女の家に着くと、死んだその子は、エリシャのために夫婦が作った部屋の寝台の上に、横たえられていました。それを見た彼は、部屋の戸を閉め、二人だけになって主に祈り、さらにその子の上に身を伏せて、口と口、目と目、手と手と合わせました。そしてさらに、寝台から降りて部屋を歩きながら祈り、再び同じことをすると、なんとその子は生き返ったのです。エリシャが子どもの口に自分の口を合わせたとき、きっと息を吹き込んだでしょう。しかしそれは「人工呼吸」ではなく、神の息が自分を通して子どもに吹き込まれ、「生きる者」となるように祈り願いつつの行為であったのです。また、目と目、手と手と、からだの同じ部位を合わせたのは、自分のいのちが「分与」されるようにとの思いからのことだったのでしょう。そこに主イエスによる贖いが暗示されています。御霊に満たされて真の意味で「生きる者」となることの大切さを教えられます。いのちをもたらされる主を絶えず求めたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 3章◇(8月2日)

「これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。」…2列王3:18

アハズヤ王の死後、彼の兄弟(アハブの息子)のヨラムがイスラエルの王となりました。彼はモアブの王が自分に背いたのを知ると、ユダの王ヨシャファテに一緒に戦うよう要請し、さらにエドムの王もその同盟に加わり、3人の王はそれぞれの陣営を率いてモアブに進軍しました。ところが途中、回り道をしたため飲み水がなくなると、ヨラムは、イスラエルの神に助けを求めようとはせず、主は初めから我々をモアブの手に渡すつもりだったのだと言って主を非難しました。しかしヨシャファテが、主のみこころを尋ね求める預言者はいないのかと尋ね、ヨラムの家来からエリシャがいると聞くと、3人の王は彼のもとを訪ね、水を飲むことができるということと、モアブが敗北するという預言のことばを彼の口から聞いたのです。その後、その預言は確かに成就しました。そのようにヨラムは、困難な状況に陥ると、これは主が仕組んだことだと勝手に決めつけ、主を責めるようなことばを繰り返し(10,13節)、モアブと戦う前から戦意を失ってしまいました。ところがヨシャパテは、主のことばを聞くために預言者を求め、語られたことばをしっかりと握って前進し、主にあって勝利を得たのです。ここに2人の王の対照的な態度が描かれています。エリシャは、「もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう」とヨラムに告げました(14節)が、実際、そこにヨシャパテがいなかったら、その戦いの結果は異なっていたに違いないのです。私たちはどうでしょうか…。ともすればヨラムのように現実に心を奪われ、否定的な思いに捕われてしまいます。しかし、私たちはヨシャパテに倣って、主のことばをしっかりと握って前進すべきなのです。そうすれば、主がもたらされる勝利にあずかることができるのです。私たちの目には大きな困難と見えることも、「主の目には小さなこと」であるということを覚えたいと思います。

主が戦いに勝利させてくださいますように。

◇聖書箇所: 列王記第二 2章◇(8月1日)

「渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。」…2列王2:9

預言者エリヤは、ギルガルからベテルへ遣わされようとしたとき、弟子のエリシャに対し、一緒に行かずにとどまっているよう命じました。しかしエリシャは、「私は決してあなたから離れません」と言い、エリヤについて行ったのです。二人のそのやり取りは、さらにエリコ、ヨルダンと進む中でも、同様に三度繰り返されました。エリシャは、預言者仲間から、今日あなたの主人は主に取られると言われ、知っていると答えましたが、彼は、とどまっていなさいというエリヤの命令を額面通りには受け取っていませんでした。本気でついて行くかどうかが試されている…と理解していたのです。実際エリヤは、ついてくるエリシャを拒んだり叱責したりせず、三度目のやり取りの後に、「あなたのために何をしようか…求めなさい」と彼に促し、エリシャは、エリヤの霊のうちから二倍の分(「二つの分け前」:3版)を求めたのです。エリシャが求めたのは、地上的な祝福ではありません。それはエリヤに与えられていた霊的なものであり、律法の規定による、長子が受ける「二倍の分」を求めたということはつまり、エリヤが行った力ある働きを継承すべく、エリヤの後継者となることを意味していたのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ7:7)。主イエスもそう命じられました。主は、弟子である私たちに対して、聖霊の油注ぎや賜物など、霊的な祝福を積極的に求めるよう願っておられるのです。なぜならそれは、そのようにして私たちが整えられ、主ご自身が私たちを通して働かれ、神の国がこの地にさらに打ち建てられていくからです。そのことを覚え、「主よ、どうか私を祝福し、あなたのために用いてください…」と、祈り求める者でありたいと思います。

主の油注ぎが豊かにありますように。