◇聖書箇所: エレミヤ書 6章16-30節◇(9月30日) 「主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。」…エレミヤ6:16 「あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない」(20節b)。当時、民が礼拝において主の前に献げていた、国外から入手した貴重な乳香や菖蒲、また動物の全焼のささげ物…。それらは本来、主に喜ばれるはずのものでした。しかし主はそれを「心地よくない」と拒絶されたのです。それは、その礼拝が形式的であって、肝心な民の心と行いが、主のみこころにかなっていなかったからです。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(1サム15:22)。昨日の箇所でも、エレミヤの嘆きが記されていました。「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない」(6:10)。そのように、民は、預言者を通して語られる主のことばに耳を塞ぎ、聞き従おうとはしなかったのです。「幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ」。幸いの道は道の分かれ目に立って見渡しただけではわかりません。これがその道だ、これに歩め、と教えてくださる主に、尋ね求める必要があるのです。私たちは、その道を知るために、静まって、みことばを通して語られる主の御声に耳を傾けるのです。そして主によって示されたその幸いな道を歩み、主に聞き従っていくならば、私たちは、たましいに安らぎを見出すことができるのです。平安と安息を得るのです。それは、主がご自身の民に与えられている豊かな祝福であるのです。その祝福を受け取る者でありたいと思います。 絶えず心に平安がありますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 6章1-15節◇(9月29日) 「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」…エレミヤ6:14 「ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ」と、エレミヤは語っています。エルサレムはユダ族とベニヤミン族の領地の境界にあったたため、そこには多くのベニヤミン族も住んでいたのです。また、「わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が」とは、バビロンによる聖なる都の破壊の預言です。11節後半からは主のことばです。主の憤りは、エレミヤを通して、幼子や若い男たちの上に注ぎ出されるべきであったのです。なぜなら、エルサレムの住民がみな利得をむさぼり、宗教指導者であるはずの預言者や祭司までもがみな、偽りを行っていたからです(13節)。主は、そのように、エルサレムの中に悪が満ち、暴虐と暴行の声が絶えることなく、民が病と打ち傷を負っているさまを見聞きしておられたのです。その人々の傷を、宗教指導者たちは「いいかげんに癒やし」ていました。それは、表面的な、取り繕うだけのものであって、真の癒やしではありませんでした。また彼らは、「平安だ、平安だ」といつも言っていましたが、それはただ、人々や自分に言い聞かせているだけで、彼らの心には平安はなかったのです。平安だ、平安だ…何も心配ない…大丈夫だ…。そのように、現実を直視しようとしない楽観主義、また、先のことは考えずに今を楽しもうとする刹那主義、そして、何よりも神に背を向け、自分たちの考えで事をなそうとする人間中心主義は、当時のエルサレムの住民だけでなく、いつの時代のどこの国にもあり、多くの人々はそれに染まっています。しかし、真の平安とは、たとえ現実がどのように厳しくても、すべてを統べ治めておられる神を信じる者に与えられる希望に基づくものであって、その希望は決して失望に終わることがないのです(ロマ5:5)。どんなときにも主に拠り頼み、心安らかにされて歩む者でありたいと思います。 主の守りと支えがありますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 5章1-19節◇(9月27日) 「彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。」…エレミヤ5:12 「その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう」(1節)。主はそのように告げられました。「だれか」とはつまり、「たった一人でも」ということです。主が罪に満ちたソドムの町を滅ぼそうとされたとき、アブラハムは、10人の正しい者がいるなら赦してほしいと主に掛け合いましたが、その条件が満たせなかったため、町は滅ぼされてしまいました。エレミヤの時代にも、エルサレムの広場を探しても主の目に正しい者は一人もいないため、滅ぼされることとなってしまうのです。民が主を侮って言ったことばがそのことを表しています(12節)。主を認めず、主のことばを信用せず、どうせ…とたかをくくって神を畏れない、そのような傲慢な態度とことばは、主の怒りを引き起こすのです。そして、そのことのゆえに主のさばきに遭うときにも、「主は、何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか…」(19節)と言う彼らには、罪の自覚がなかったのです。しかし、そんな彼らに対して主は、「わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない」と、再び言われた(4:27,18節)のです。ここに、人には計り知れない、主の深い愛とあわれみがあります。私たちもかつては、神を認めない、身勝手で傲慢な者でした。しかし神は、ご自身のひとり子イエスを世に遣わし、そのキリストの十字架と復活による贖いによって、私たちの罪を赦し、信仰によるアブラハムの子孫、神の民として加えてくださったのです。罪深い私たちもときに、どうせ…、主は何もなさらない…と、主を侮るような思いになりますが、神は決して侮られるような方ではないのです(ガラ6:7)。自らの罪深さ、不信仰を認めつつ、愛とあわれみに満ちた主、すべてを統べ治められる偉大な神の前に、絶えずへりくだって歩む者でありたいと思います。 主を待ち望む者とされますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 4章19-31節◇(9月26日) 「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」」…エレミヤ4:27 「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える…」とエレミヤはうめいています。それは、主がユダに対し、わざわいがあなたの心臓にまで達している、と告げられたこと(18節)への応答であり、角笛を吹き鳴らし、戦いの雄叫びを上げながら襲来する敵の軍勢によって、祖国が荒らされ、踏みにじられてしまうことを、エレミヤが悟っていたからです。エレミヤは祭司として、民に代わって、そのような断腸の思いを吐露しているのです。エレミヤはさらに、主がもたらされるわざわいを幻として見せられました(23-26節)。地は茫漠として何もなく、天には光はなく、山々は揺れ動き、人も鳥もいなくなり、町々は主の燃える怒りによって打ち壊されていました。それはまるで、世界の創造における、混沌として光がない、闇に満ちた最初の状態のようでした。そしてその光景は、ユダの滅亡だけでなく、この世の終末、神の最終的な裁きを暗示するものだったと考えられるのです。そのような中での主のことばが心に留まります。「ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」と、主は言われたのです。人々を呑み込む洪水の中でも生き延びた、ノアと彼の家族のことが思い起こされます。それは神の恵みとあわれみによることであり、主は、ご自身が創造された世界を、本来のあるべき姿に回復させるために、みこころにかなう者たちを生かして、用いられるのです。私たちもまた、イエス・キリストという、神が備えられた箱舟に乗せられ、罪の洪水が渦巻く中、救い出されました。そしてそれは、そのようにして贖われた私たちが、やがて来る終わりの日に神がこの世をさばき、すべてが良かった初めの世界を再創造されることを覚え、キリストこそ救い主だと、人々に伝えるためなのです。その主のご計画の中で選ばれ生かされていることを感謝し、委ねられた主の働きを忠実になしていきたいと思います。 主のみわざが現されますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 4章1-18節◇(9月25日) 「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」…エレミヤ4:3b-4 主は、ユダの人々、エルサレムの住民に対して、耕地を開拓せよ、心の包皮を取り除け、と命じられました。それは、そうしなければ5節以下に書かれているわざわいが現実のものとなるという、警告のことばであったのです。畑を耕せ、茨の中に種を蒔くな…。主イエスが話された、良い地に蒔かれた種のたとえが思い起こされます。そこでは、種とは神のことばであり、茨とはこの世の思い煩いと富の誘惑のことだと言われていますが(マタ13:22)、エレミヤへのことばにおいても、種とは神の教え、民への祝福の契約であり、茨とは偶像の神、異教の神々を慕おうとする誘惑のことなのです。14節には「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか」との主のことばが書かれています。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け…。民のうち男性はみな、割礼を受けていました。生まれてから8日目に、すべての男子は、性器の包皮の肉を切り捨てなければならない、それはわたしとあなたがたの間の契約のしるしだと、主はアブラハムに言われたからです(創17:11)。しかし、主がそのときエレミヤを通して求められたのは、「心の包皮の割礼」(申10:16)であり、目に見える単なる身体的な意味での割礼ではなかったのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」(詩51:17)。自らのうちにある「いばら」、すなわち主に喜ばれないものを素直に認め、心の内のさまざまな思いを包み隠す包皮を取り除くべく、砕かれた霊と心を持つことを主は願っておられるのです。神の民である私たちも、強い意思を持ち、そのように自分をきよめる者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 3章◇(9月24日) 「行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。-主のことば- わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。-主のことば- わたしは、いつまでも恨みはしない。」…エレミヤ3:12 主は、アッシリアにより国を滅ぼされた北イスラエルを「背信の女イスラエル」と呼び、バビロンにより同じ目に遭おうとしている南ユダを「裏切る女、妹のユダ」と呼んでいます。神とイスラエルは、夫と妻との関係であって、よその男に心奪われ姦通した妻、すなわち、異邦人の偽りの神々を慕って拝んだイスラエルは、離縁状を夫である神から突きつけられ、家を追い出されたのです。しかし、そんな背信の女、離縁したはずの妻イスラエルに対し、夫である神は、「帰れ」と言われるのです。わたしの元に戻って来いと促されるのです。わたしを裏切ったことを赦そうと約束しておられるのです。それは本来あり得ないことであって、恵みに満ちた神のそのことばに、イスラエルへの深い愛を見ることができるのです。「ただ、あなたはあなたの咎を認めよ」(13節)。けれども主は、イスラエルの背信の罪を見逃して、すべてを水に流すと言われたのではありません。自分の罪と咎を認めて悔い改め、立ち返る者を、主は赦し、受け入れ、夫と妻としての関係の中に入れてくださるのです(14節)。愛される資格のない者を一方的に愛してくださるのです。父からもらった財産を放蕩して使い果たした息子は、神と父の前に罪を犯したことを認め、それを父に告白して赦しを得ようと考え、家に帰りました。そして父が走り寄って彼を抱きしめると、息子はそのことばを口にしたのです(ルカ15:21)。私たちもしばしば過ちを犯してしまいます。しかし、その咎を認めて神の元に帰るなら、いつでも主は私たちを赦し、受け入れてくださるのです(1ヨハ1:9)。主の愛の深さ、広さを覚えたいと思います。 キリストの花嫁としての喜びが絶えずありますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 2章20-37節◇(9月23日) 「…しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」…エレミヤ書2:25 2章の後半も、主がイスラエルを非難することばが続いています。20節には「あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている」とありますが、主は、民が行っていた偶像礼拝を、そのように言って咎められたのです。しかしその彼らの思いは「他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」という一方的で身勝手なものだったのです。好きです…追い求めたいのです…満足したいのです…。そのような思いは、私たちの中にも起こってきます。そのような感情自体が悪いわけではありませんが、それが自分の中で何よりも大切で、第一のことになっているとしたら、神の国と神の義を求めることが後回しにされているとしたら、異性、仕事、趣味、お金など、さまざまなことが、私たちにとっての「偶像」となり得るのです。「おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない」(32節)。イスラエルの民にとっての飾り物…それは、彼らを愛してやまない神ご自身です。エジプトで奴隷として虐げられていた民を脱出させ、乳と蜜の流れる約束の地へと導き、愛とあわれみと忍耐をもって支え続けておられる神である主…。民は自分の飾り帯を見て、その主のみわざを覚え、それを与えてくださった主だけを愛し、誇りとすべきであったのです。イエス・キリストは私たちを愛して十字架にかかり、いのちを与えてくださいました。罪の奴隷となっていた私たちを贖い、束縛から解放してくださいました。その主は、今日も私たちに、「わが愛する者よ」と言われるのです。私たちにとって、その主こそ、だれよりも愛すべきお方なのです。私たちの飾り物、誇りは、主イエスなのです。「主よ、あなたを愛します。あなたにずっとついて行きます」と告白する者でありたいと思います。 さまざまな誘惑から守られますように。 |
◇聖書箇所: エレミヤ書 2章1-19節◇(9月22日) 「今、ナイル川の水を飲みに エジプトへの道に向かうとは、 いったいどうしたことか。…」…エレミヤ書2:18 イスラエルの民の先祖たちに対する、主からの非難と嘆きのことばが書かれています。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまった…。彼らは主によってエジプトから連れ出され、実り豊かな地に導き入れられたのにもかかわらず、主を尋ね求めず、その地を汚し、忌み嫌うべきものにしたのです(5,7節)。13節には、「いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘った…」とあります。彼らは愚かにも、主が与えてくださったいのちの泉の水を飲もうとはせず、わざわざ自分たちの手で水溜めを掘りました。しかしその水溜めは壊れてしまったので、そこから水を汲んで飲むことが出来なかったのです。主はまた、他国に流れる立派な大河の水を飲むために、わざわざそこまで出向くイスラエルの民を責めています。それは、支援を乞い、政治的な同盟を結ぶということの象徴的な表現だと考えられますが、そのようなあり方は、主から与えられているいのちの水の泉を良しとせずに、それらの川の水を飲んで生き延びようとする、不信仰で不遜な民の態度であって、神に対する背信なのです。私たちにも、キリストがくださるいのちの水があります。キリストを信じてそれを飲むなら、渇きは癒され、それは私たちのうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るようになるのです(ヨハ4:14)。そのような祝福にあずかっている私たちは、それに満足せずに自分たちの水溜を掘って確保しようとしてはならないのです。それは壊れてしまって役に立たないのです。また、立派に思える他国の大河に心を寄せて、その水を飲むために、わざわざ遠くに出かけてはならないのです。なぜなら、私たちの必要を満たしてくださる主に拠り頼み、主を尋ね求めるなら、主がもたらされる豊かさを享受することができるからです。そのことを覚えて感謝し、ますます主を愛し、主に従順に従う者(2節)でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 12章◇(9月20日) 「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」…伝道者の書12:13 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」(1節)。そのように著者は、自分を創造された神を若いうちに心に留め、その主権を認め、自らの思いを神に明け渡して生きる者となるよう命じています。「わざわいの日」とは「『何の喜びもない』と言う年月」であり、老年期のことだと考えられます。そのときになると、人は身体の衰えを痛感しますが、続く2-6節ではそのような年老いた者の姿が、比喩的な表現をもって描写されているのです。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」(7節)。もし人が、創造者なる神を覚えて生きる者でないなら、死を迎えるときの心には空虚な思いしかないでしょう。希望と喜びに満ちるなどあり得ません。しかし神は、この世界を造られ、地のちりからご自身のかたちに似せて人をも形造られ、息を吹き込んで生きる者とされたのです。その神は確かに、一人ひとりを日々守り、生かしておられます。ゆえに、神の被造物であるすべての者は、自らの創造者であり主権者である神を、絶えず心に留めて歩むべきなのです。13節はこの書の結論です。神を畏れ、神の命令を守れ…。人間は本来そのような存在として造られました。しかし、狡猾な悪魔の巧みなことばに惑わされ、「食べてはならない」と、神から禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまったのです。そして、そのアダムを祖先とする全人類の罪を赦すために、神は、ご自身の御子の十字架と復活による救いを備えてくださったのです。それは、愛とあわれみに満ちた神による、再創造、回復のみわざであり、すべての人は、その神を畏れ、救い主イエス・キリストを信じ、この地上での生涯を終えた後も、天の御国において永遠に神とともに生きる者とされるのです。その神の約束、招きを、人々に宣べ伝えたいと思います。 主の御名があがめられますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 11章◇(9月19日) 「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」…伝道者の書11:6 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す」(1節)。「パン」を「神のことば」として宣教の大切さが説かれ、あるいはより広い意味で、「物惜しみせず持てるものを人に与えよ」という奨めがなされます。いずれにしても、そのように行動する者こそが、その報いを、ずっと後の日になってから、思いがけない形で見出し、受け取ることになるのです。6節にも、「あなたの種を蒔け」、「手を休めてはいけない」とあります。農夫が種を蒔くのは、その種が発芽し、成長し、その実を収穫することを待ち望むからであり、そのためには、雨の日でも風の日でも、なすべきことをし続けることが求められるのです。また「種」をより広い意味に解釈すれば、自らの手のわざの収穫は、主がもたらされるのであり、これかあれかと考えるのではなく、与えられている働きを忠実になすことが大切なのです。そのように、私たちは、神を信頼し、神に委ねつつ、一つ一つのことを、怠らずに、勤勉になすことが求められているのです。蒔いた種が鳥に食べられないように、根が焼けて枯れないように、雑草によって成長が妨げられないように、心を配り、こまめに世話をする必要があるのです(マタイ13章)。将来何が起こるのか…それは誰にもわかりません(2節)。すべては神がなされることだからです(5節)。しかしだからといって、私たちはただじっとしているのではなく、収穫を得るべく、種を蒔き、手入れし、育てなければならないのです。それぞれ自分が果たすべき分があり、最良の結果を出すための努力が求められているのです。与えられている「今」を活かすべく、主のみわざを待ち望みつつ、主のしもべとして仕えていきたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 10章◇(9月18日) 「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。」…伝道者の書10:12 本章では、知恵のある者と愚かな者の違いが強調され、箴言のような形式で、人が心に留めるべきことが語られています。まず1節に、「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる」とありますが、調香師によって作られる高価な香油も、その中にハエが入って死ぬと、ハエについていた悪い菌によって腐り、臭くなるのです。それと同様に、1節後半にあるように、少しの愚かさにも、人の知恵や栄誉を台無しにする「重み」があるのです。12-14節には、愚かな者が語ることばが何をもたらすのかが語られています。愚か者は、実は自分が、知るべきことが何かすら知らない無知な者であることをわきまえず、また、自らのことばが周りにどのような影響を与えるかを考えもせず、一方的に自分の言いたいことをしゃべって自己満足するのです。また、王や富む者の陰口を言って溜飲を下げるのです(20節)。そしてそのような者は、自分の身に起こるわざわいなど考えもしないのです。しかし、知恵ある者は、へりくだった心を持ち、丁寧にことばを選び、「恵み深い(「優しい」:3版訳)」ことばを発するので、それは人々に受け入れられるのです(9:17)。「しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています」(ヤコ3:8)。制御できない私たちの舌から出ることばが、優しく、恵み深いものとされるためには、何よりもまず私たちの心が、御霊によって満たされ支配されなければなりません。主イエスは、「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです」と言われました(ルカ6:45)。私たちの口は、神をほめたたえ、主に祈るために、また、人を慰め、励まし、主にある希望を伝えるためにあるのです。積極的に王や指導者のためにとりなすべきなのです。そのような心と口を持つ者とされたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 9章◇(9月17日) 「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。」…伝道者の書9:4 「すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも…来る」(2節)。「同じ結末」とありますが、それは、誰もが迎えなければならない「死」を意味しています。人がどんなに良い行いをしても、結局はみな同じように死を迎えることになるのなら、相応の報いがもたらされないのなら、善を行なうことに意味はない…。そう考える人々の心は、悪と狂気に満ち(3節)、悪い事を平気で行なうのです。しかし、神はすべてを知っておられるのです。確かにそれぞれの行いに応じて人に報いられるのです(詩62:12)。そしてそれは、必ずしもこの地上での歩みの中でもたらされるとは限らないのです。けれども悪者は、そのことを悟ることがありません。なぜなら、彼らの目は閉ざされており、この地上のことしか見えておらず、神が備えてくださっている永遠の世界がわからないからです。4-5節に「生きている」とありますが、それは身体的な生命のことだけを意味していません。人は、からだだけでなく、霊とたましいを持つ存在なのです。人は、神によって、地のちりで形造られ、息を吹き込まれ、「生きるもの」とされました(創2:7)。「生きている者」とは、神の霊に満たされた者であり、いのちの源なる方にしっかりとつながった者のことであるのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハ14:6)。キリストはそのように言われました。このいのちなる方につながっている者こそ、「生きている者」なのです。そして、この地上での生涯を終えた後もなお、父なる神がおられる天の御国に行き、そこで永遠に生きることができるのです。その希望をしっかりと持ち、荒野の旅を続けていきたいと思います。 永遠を思う心が与えられますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 4章◇(9月12日) 「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」…伝道者4:12 「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人」とあります(8節)。それは単に身寄りのない人という意味ではありません。その後に書かれているように、「富を求めて飽くことがない」彼のそのあり方が、人との温かい交わりなど不要だ…とする、孤独の道を歩ませるのです。そして彼には、自分の労苦を他者に分かち合う、また、自分が他者の労苦を担うという考えはないのです。作者は次節で「二人は一人よりもまさっている」と語り、「二人の労苦には、良い報いがある」と、その価値を説いています。10-11節には、そんな二人が荒野を旅をするイメージが書かれているのかもしれません。そしてそれは、私たちの人生という長旅に当てはまることなのです。12節のことばは、結婚式においてしばしば引用されます。しかしそれは、夫婦となる者たちだけへの、はなむけのことばではありません。最初の人アダムを造られた神は、「人がひとりでいるのは良くない」(創2:18)と考えて、助け手としてエバを与えられたのです。人が他者と交わりを持ち、助け合い、励まし合い、重荷を担い合って生きるのは神のみこころであり、本来あるべき姿なのです。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」。なぜ簡単には切れないのか…。それは三本の糸が密に絡む合って、まるで太くて強い一本の糸のようになるからです。一人よりも二人、一本よりも二本、そしてそこに神という三本目の糸が加わって撚り合わさることによって、試練、困難、敵に立ち向かうことができるのです。それらに打ち負かされて、倒れてしまうことはないのです。その神は、言うまでもなく、私たちと対等な存在ではありません。その糸は太くで強く、それにくらべれば私たちの糸など、か細い毛のようなものです。しかしそんな弱い私たちに、主は常に密に寄り添ってくださるのです。ひとりぼっちではないことを深く覚えたいと思います。 主の守りと祝福がありますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 3章◇(9月11日) 「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」…伝道者の書3:1 これまで主に「日の下」という表現を使ってきた作者は、3章では「天の下」という表現に変えています。「日の下」には、神の被造物である太陽の下という意味があり、「天の下」は、天におられる神が支配しているこの世界すべてを指していますが、作者は「天の下」と記すことにより、読者が神に目を向けるようにしているのです。1-8節で強調されていること、それは1節にあるとおり、「天の下のすべての営みに時がある」ということであり、2-8節にはその具体的なことが挙げられています。そのように、天の下ではすべての営みにおいて、神が定める時期(季節)や時があり、人はその支配から逃れて、自分で営みのときを決めることはできないのです。自由意志でそうしていると思えても、実はそうではないのです。作者はさらにこう言っています。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(11節)。「美しい」ということばが心に留まります。それは、うるわしく、整って、調和が取れているありさまであり、創造者であり主権者である神が事を計画され、そのように実現されるということなのです。それは、主の御手のわざなのです。一方、罪深い私たちはしばしば、神のなさることがすべて時にかなって美しい、と素直に受けとめることができません。日々の営みの中で起こることに対して不平や不満を抱き、神が最善に導いておられることに抗おうとする、おろかな者なのです。しかし、パウロはこう言っています。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」(ロマ8:28)。3版では「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と訳されています。まさに「神のなさることはすべて時にかなって美しい」のです。そのようにしてくださる主にすべてを委ね、主への信頼と従順のうちに歩みたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 2章◇(9月10日) 「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」…伝道者の書2:25 主イエスはソロモン王について、「栄華を極めた」と言っています(マタ6:29)。しかし、人がうらやむその栄華のただ中で、彼は心に空しさを覚えていたのです。快楽…彼はさまざまな欲望を満たし、肉を喜ばせていました。財産…彼はまた、金銀、宝、家畜、奴隷など、物質的な豊かさを享受していました(1-11節)。知恵…また、神から彼に与えられた知恵は唯一無二のものであり、地上のすべての王が、それを聞こうとして謁見を求めるほどでした(2歴9:23)。労苦…さらに彼は、日の下で骨折り、王として民のために多くの労苦を重ねました。しかしそれによって築いたものは、後継者が労せずして譲り受けることとなるのです(12-23節)。快楽、財産、知恵、労苦…。ソロモンはそれらに空しさしか見いだせませんでした。もし人が、それらの肉的、地上的なものを第一に追い求め、それを得て満足しようとするならば、確かにそれは空しい歩みなのです。ソロモンが神から気づかされたとおり、もし人が神から離れているなら、飲み食いしても、何かを手に入れても、どんなに豊かな暮らしをしたとしても、真の意味で楽しむことはできないのです。満たされない思い、空しさにつきまとわれ、そこには本当の喜びや平安がないのです。しかし、たとえ物質的には貧しくても、多くの労苦を負っていても、人が神にしっかりとつながり、神のみ教えに聞き従って歩むなら、神からの知恵と知識が与えられるのです。この世が与えるのとは違う平安と楽しみと喜びが、確かに心にもたらされるのです(26節)。「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない」(箴21:17)。私たちが愛して求めるべきものはこの世のもの、快楽ではありません。それは、私たちを真実に愛してくださっている神であり、私たちにいのちを与える主のみことばなのです。肉を喜ばせることなく御霊に従って歩み続けたいと思います。 絶えず主を慕い求める者とされますように。 |
◇聖書箇所: 伝道者の書 1章◇(9月9日) 「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。」…伝道者の書1:14 この書の著者は、1節や12節のことばから、ダビデの子であり、イスラエルを治めた、ソロモン王だとされています。「空の空」、「どんなに労苦しても…何の益になろう」とのことばで書き始めた著者は、さらに、「すべてのことは物憂く」(8節)、「日の下には新しいものは一つもない」(9節)と考え、「すべては空しく、風を追うようなものだ…」と言って嘆いたのです。そのように、1章には、著者の厭世の思いが色濃く表れています。それは、物事の意味が見いだせず、感謝、喜び、希望がなく、生きていることは空しい…という、死が隣り合っている世界です。しかし、そんな著者の告白は、もちろん真実ではないのです。知恵と知識に満ちていたはずのソロモンでさえ、この世界を造られた偉大な神の御旨のすべてを知ることなど、到底できないのです。神が求めておられるあり方、それは、私たちが神である主の前にへりくだり、自分は無に等しい者だと認め、自分の知恵や力ではなく、神の知恵と力を求め、主の助けと導きによって歩む者となることなのです。苦難の中で、「知っているか…することができるか…」と主から問い詰められたヨブは、こう答えました。「ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです」(ヨブ40:4)。著者の結論は出ず、さまざまな思いが行き巡っています。しかし、私たちには神のことばが与えられ、真理が啓示され、キリストの贖いによって永遠のいのちが与えられています。かつては私たちも、人生の空しさや不条理を覚え、同じように嘆いていたかもしれません。しかし今は、空しさと失望の中ではなく、主にある平安と希望と喜びが与えられているのです。何のために生まれて来たかを知り、主のために生きる者とされているのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。 栄光と誉れが主にありますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇82篇◇(9月8日) 「神よ 立ち上がって地をさばいてください。あなたが すべての国々を ご自分のものとしておられるからです。」…詩篇82:8 1節に「神々」が登場します。まことの神(エロヒーム)がその「神々」が呼び集められた「神の会議」の中でさばきを下すとあることから、それは偶像の神々、異教の神々のように思えます。一方2-4節では、神がその「神々」に向かって「おまえたち」と呼び、弱者を擁護せず、悪者たちの味方となっているのを非難していることから、「神々」は悪い王たちを意味しているのかもしれません。いずれにしてもその「神々」は、弱い者や貧しい者たちが虐げられて苦しんでいるのを、見過ごしにしているのです。助け出そうとはしないのです。ゆえにそれらは神に敵対する存在として、取り除かれてしまうのです。その「神々」は、まことの神が自分たちをさばこうとしていることを知らず、悪とやみに満ちたこの地を我が物顔に歩き回ります(5節)。しかしまことの神は、皮肉たっぷりに彼らに告げるのです。おまえたちは「神々」だ…それなのにおまえたちは王の一人のように倒れ、人のようにいのちが取られて息絶えるのだ…と(6節)。そのことを幻として見せられた詩人は、神に祈り求めました。神よ、立ち上がって地をさばいてください…と。詩人は、神が、天と地のすべてを造られた創造主であられ、また、すべてを統べ治めている主権者であられ、すべての国々とそこに住む民をご自身の所有のものとしておられることを認め、そのことを告白しているのです。今の世界を見るとき、ともすれば「神々」が、そしてその背後にあるサタンがこの世を支配し、弱者が苦しんでいるかのように思えます。しかし神は、決して彼らを見捨てたり、正しい者たちの訴えを無視したりはされないのです。ご自身が定められた時に必ずさばかれるのです。「神よ立ち上がって地をさばいてください。あなたがすべての国々をご自分のものとしておられるからです」と、私たちもそのように主に告白して祈り、主の介入を待ち望む者でありたいと思います。 祈りと叫びが主に届きますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇80篇◇(9月6日) 「万軍の神 主よ 私たちを元に戻し 御顔を照り輝かせてください。そうすれば 私たちは救われます。」…詩篇80:19 3節に書かれている詩人の祈りが、ほぼ同じ表現で3度繰り返されていることに心が留まります(7,19節)。「元に戻し」と訳されている部分は、第3訳では「もとに返し」、新共同訳では「連れ帰り」となっています。また、1節には「イスラエルの牧者よ」との呼び掛けがあることから、詩人は、牧者である主がご自身の羊を連れ戻すこと、すなわちアッシリアやバビロンに捕らえ移された民を、元の地に戻してほしいと訴えているように思えます。詩人はまた、イスラエルの民と主の関係を、ぶどうの木と農夫にたとえています(8-16節)。神はそのぶどうの木をエジプトから引き抜いて携え出し、カナンの地の住民を押し出してそこに植えられたのです。主がそのようにして地を整えられたので、ぶどうの木は地に深く根を張り、枝を広げ、実を豊かに結ぶようになったのです。しかし、その実は摘み取られ、食い荒らされるようになってしまった…と、詩人はそのことを嘆き、あなたが植えられたぶどうの木を顧みてほしい、と訴えているのです。「神よ 私たちを元に戻し…」。どこに戻してほしいと詩人は願っているのか…。詩人が3回、その祈りを繰り返す中で、その思いは変化しているように思えます。詩人は初め、敵の手からの解放、繁栄の回復を願っていました。しかし、主の前に祈りのことばを重ねる中で、もっと根源的な、本来あるべき状態への回復を願い求めるべきだ、との思いに至ったのです。すなわち、どのような状況にあっても、変わることのない神の愛とあわれみを覚えて生きるというあり方です。主権者であるお方にすべてを委ねて歩むという人生です。だからこそ詩人は、最後には「主よ」と呼び掛けつつ、「御顔を照り輝かせてください」、すなわち、主の御顔を仰ぎ見る者へと戻してほしい、親密な関係へと回復させてほしい、と主に願い求めたのです。そしてそれこそが「救い」の本質なのです。キリストに贖われた私たちも、絶えず初めの愛に立ち返り、主との関係を確かにしたいと思います。 「元に戻して…」という祈りが答えられますように。 |
◇聖書箇所: 詩篇79篇◇(9月5日) 「私たちの救いの神よ私たちを助けてください。御名の栄光のために。私たちを救い出し私たちの罪をお赦しください。御名のゆえに。」…詩篇79:9 本詩篇は、エルサレムの聖なる宮が汚され、町が瓦礫の山となったときのものであり、バビロンによる攻撃のことを指しているとされています。多くの神の民が殺され、残った者たちも周辺諸国の者たちに嘲られ、笑いぐさとなっていると言って、詩人は嘆いているのです(1-4節)。「どうかあなたの激しい憤りを注いでください。あなたを知らない国々に。御名を呼び求めない王国の上に」(6節)。そのように詩人は、敵への復讐を主に求めていますが、彼は、今の苦難は、自分たちの父祖たちが偶像を拝んだ罪に対して、主が怒り、ねたみを燃やされたからだということを知っていたのです。そして、前の世代の者たちのその咎を思い出さないでほしい、いったいいつまで怒り続けるつもりのかと、神をなじるような思いになっていたのです(5,8節)。しかし詩人は、そのように主に不満をぶつける中で気づかされたのです。自分たちのうちにも罪があることを。神の主権を認めようとせず、自分たちのあり方を正当化し、砕かれた、悔いた心を持たずに歩んでいることを…。そして、目に見える敵の手から救われる以前に、自分たちのその罪がもたらす滅びから、まず救い出される必要があるということ、目に見えない悪魔との戦いに勝利すべきだということを。9節の詩人のことばは、まさにそこから生まれ出たものなのです。「捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの大いなる力のゆえに死に定められた人々を生きながらえさせてください」(11節)。詩人のそのことばは、単に捕囚の解放を願う祈りではなく、罪のゆえに死に定められたすべての捕われ人をあわれみ、救い出してください、永遠に生きる者とさせてください…という、魂の救いを求める叫びなのです。私たちもまた、自分自身のため、人々のため、何よりも御名の栄光のために、そのように主に祈り求める者でありたいと思います。 主の恵みとあわれみがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記第二 25章22-30節◇(9月4日) 「バビロンの王エビル・メロダクは、王となったその年のうちにユダの王エホヤキンを牢獄から呼び戻し、優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。」…2列王25:27-28 バビロンの王ネブカドネツァルは、ユダの地に残っているユダヤの貧しい民の上に、アヒカムの子ゲダルヤを総督として任命し、統治させました。ちなみに彼の祖父は、主の宮の修復工事中に見つかった律法の書をヨシヤ王の前で読み上げた書記シャファンです。そのゲダルヤは、軍の高官たちとその部下たちに対し、この地に留まってバビロンの王に仕えよ、と命じましたが、それに反発したネタンヤの子イシュマエルによって打ち殺され、民は軍の高官たちとともにエジプトへと逃げていったのです。そのようにしてついに南ユダ王国も完全に滅びた…。そう書かれて列王記が終わるかと思いきや、記者はなぜか、バビロンに捕らえ移されていたユダの王エホヤキンが、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から釈放され、さまざまな面で特別な待遇を受けたことを記して(27-30節)この書を終えています。では、国の滅亡のことに続くその記事には、どのような意義があるのでしょうか…。「バビロン捕囚の後、エコンヤがシェアルティエルを生み、シェアルティエルがゼルバベルを生み、」(マタ1:12)。エコンヤとはエホヤキンのことです(24:6脚注参照)。神は、ダビデの家系が絶えることなく、やがてメシアがそこから生まれるようにと、バビロンの王を用いてそのようにされたのです。そのことから、人の思いをはるかに越えた、神の壮大な救済計画を知ることができます。そしてそれは、人類に対する、神の大きな愛と深いあわれみに基づくことであったのです。その神は、今なお罪の中にある人々を愛し、あわれみ、救いをもたらそうと切に願っておられます。闇の中からご自身の光の中へと招いておられるのです。そして、その神の愛と救いを証しし、キリストの福音を伝えるのは、すでに救われている私たちの役目なのです。感謝と喜びをもって、その働きを忠実に担っていきたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記第二 25章1-21節◇(9月3日) 「カルデア人は、主の宮の青銅の柱と、車輪付きの台と、主の宮にある青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運んだ。」…2列王25:13 いよいよこの書の最後の章となりました。南ユダ王国の滅亡、エルサレムの町の破壊が描かれています。すでにユダはバビロンの属国となっており、バビロンによる傀儡の王としてゼデキヤが立てられていましたが、彼がバビロンの王に反逆したため、バビロンの全軍勢はエルサレムを攻め、陣を敷き、塁を築きました。その2年後には食料も尽き、都は破られ、ゼデキヤと戦士たちは町から逃げ出し、王の軍隊は王を見捨てて散ってしまいました。その後ゼデキヤは、カルデヤの軍勢に捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のところに連れて行かれたのです。ゼデキヤは目の前で息子たちが虐殺される様子を見させられました。さらに、自らの目をつぶされ、青銅の足かせをはめられ、バビロンへと連行されるという悲惨な目に遭ったのです。また、バビロンの親衛隊長ネブザルアダンが率いる軍勢によって、エルサレムの主の宮と王宮とすべての家は焼き払われ、城壁も打ち壊されたのです。一方、主の宮にあった青銅の柱、車輪付きの台、青銅の「海」は砕かれ、そのほかの青銅の器具、火皿、鉢などの金銀による器具も奪われ、バビロンへと運ばれていきました。ソロモンが主のために建てた神殿で使われていたそれらの器は、もはやその役目を果たすことがなくなり、単なる材料となってしまったのです。しかし、言うまでもなく、それは本来のあるべき姿ではないのです。「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです」(2テモ2:21)。キリストに贖われた私たちは、主の尊い働きに用いられる器とされています。自分自身をきよめるとは、主のみことばに聞き従い、みこころにかなう者となることにほかなりません。御霊の助けによって、ますますそのような者とされたいと思います。 陶器師の御手の中で日々造り変えられますように。 |
◇聖書箇所: 列王記第二 24章◇(9月2日) 「実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、主の怒りによることであったのである。」…2列王24:20a エホヤキムがユダの王であったとき、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上り、エホヤキムは3年間彼に従いました。しかしその後再び彼に反逆すると、バビロンに加え、アラム、モアブからも略奪隊が攻め上ってきました。2節には、彼らは主が遣わされた者たちであり、預言者たちが告げたことばのとおりであったと記されています。ではなぜ、主はご自身の民をそのように滅ぼそうとされたのか…。記者はその理由を、マナセが犯したすべての罪のゆえ、彼が流した咎のない者の血のためであり、主はその罪を赦されなかったのだと説明しています(3-4節)。その後、エホヤキムの子エホヤキンが王になると、またもやバビロンはエルサレムに攻め上り、ついに、高官、有力者、職人たちを捕囚とし、バビロンの地へと捕らえ移し、主の宮と王宮の財宝も奪い去りました。13-16節に「ことごとく…すべて…みな」と繰り返されていることからわかるように、それは、ご自身が忌み嫌うことを行い続けたユダに対して、主が、容赦なく、徹底的になされた、怒りによるさばきでした。そしてそれは、マナセだけでなく、偶像礼拝などの罪を犯し続け、悔い改めようとしなかった、歴代の王とユダの民のゆえなのです。それゆえ、わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れ動く。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に。」(イザ13:13)。怒りの日、審判の日は必ずやって来ます。それは、預言のことばとして私たちに与えられており、必ず成就するのです。しかし、キリストに贖われた聖徒たちは、バビロンのような知らない国ではなく、主がおられる天の御国に移されるのです。そしてそれは、嘆きと悲しみではなく、感謝と喜びのときであって、私たちはそのときを心待ちにしつつ、その終わりの日が来ることを人々に告げ知らせる者とされているのです。神のいつくしみと厳しさを覚え(ロマ11:22)、主から委ねられたその働きを忠実になす者でありたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
◇聖書箇所: 列王記第二 23章25-37節◇(9月1日) 「ヨシヤのようにモーセのすべての律法にしたがって、心のすべて、たましいのすべて、力のすべてをもって主に立ち返った王は、彼より前にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、一人も起こらなかった。」…2列王23:25 29節にヨシヤ王の最期が書かれています。アッシリアの王のもとに行くためにユダの領土を通過しようとした、エジプトの王ファラオ・ネコを迎え撃った彼は、メギドであっけなく戦死してしまいました。その後、ヨシヤの家来たちによって彼の子エホアハズが王とされましたが、ファラオに捕らえられてわずか3ヶ月の王位となり、代わりに傀儡の王とされたヨシヤの子エホヤキム(エルヤキムから改名)もまた、ファラオに銀と金を送るために国に税を課し、ユダの国は大国エジプトに支配されつつあったのです。そしてそのような中、エホアハズもエホヤキムも、主の目に悪であることを行い続けていたのです。25節ではヨシヤ王が最大級に称賛されていますが、3版ではそこを、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に従って、主に立ち返った」と訳しており、その表現は申命記6章5節のことば、「あなたは心を尽くし、いのち(「精神」:3版)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と同じなのです。ヨシヤ王の時代、律法の書が修復工事中の主の宮で見つかって読み上げられましたが、そこにはその申命記のことばも、もちろん書かれていました。読み上げられた後、自分の衣を引き裂き、「宗教改革」を断行したヨシヤは、そのことばのとおりに主を愛する者となったのです。国中にあった偶像をことごとく取り除き、キデロンの谷で焼き、主に立ち返るべく一つ一つを実行したのです。残念ながら、彼のその精神、姿勢は、息子たちには受け継がれませんでした。しかしヨシヤは、神のことばを聞いたとき、それを自分に語られたものと受けとめ、主を愛し、主に聞き従う者となることを、神との一対一の関係の中で決断したのです。そしてそれは私たちにも求められているのです。周りがどうであっても、難しい時代であっても、ヨシヤに倣う者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |