◇聖書箇所: 詩篇 85篇◇(10月18日)

「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします。 まことは地から生え出で 義は天から見下ろします。」…詩篇85:10-11
「主よ あなたはご自分の地に恵みを施し ヤコブを元どおりにされます」と、詩人は告白しています(1節)。ヤコブとはイスラエルであり、「元どおりにされる」ということは、バビロン捕囚からの帰還と捉えることができ、同時に、終末におけるイスラエルの民の救いであると、預言的に解釈することができます。そしてそれは、主の恵みによることであり、主ご自身が御民の咎を担ってくださるのです。ここにメシアの存在が暗示されています。3-5節では神の怒りが繰り返し語られています。その怒りが民の不従順と偶像礼拝の罪に対するものであることを、詩人は理解していました。その上で詩人は主に対し、その御怒りを鎮めてほしい、私たちを生かしてほしい、恵みを示して救いを与えてほしいと、懇願しているのです。8-13節では、恵み、まこと、義、平和が、擬人法によって表現されています。「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします」(10節)。そこでは、恵み、義は神を示し、平和とまことは主の民を表していると解釈できます。主は、「神の仰せを聞きたい」と願う聖徒たちに平和を告げられ(8節)、真実に歩むことを願う者たちを顧みてくださるのです。親密な関係を結ばれるのです。「まことは地から生え出で 義は天から見下ろします」(11節)。歴代誌第二16章9節にも、「主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです」とあります(2歴16:9)。詩人は、怒りを鎮めるよう主に願う中で、何よりも自分たちが神の教えに聞き従い、主のみこころにかなう者となることの大切さをあらためて悟ったのです。そのように主を畏れる者に、主は救いを与えてくださいます(9節)。その歩みを良いもので満たしてくださるのです(12節)。聖徒とされた私たちも、ますます主を慕い求め、主に聞き従って歩み続けたいと思います。

主の恵みと好意が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: 詩篇 84篇◇(10月17日)

「私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も 生ける神に喜びの歌を歌います。」…詩篇84:2

神に向かっての詩人の賛美と祈りと告白が書かれています。そしてその中で「なんと幸いなことでしょう」ということばが3度繰り返されています。「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつも あなたをほめたたえています」(4節)。「あなたの家に住む」…それは必ずしも、主の宮に身を置くという、目に見える行動を指すわけではありません。それは、静まって主を慕い求め、主との親密な交わりのときを持ち、主のみこころを尋ね求める…そのような、絶えず主のみそばにいるあり方を意味しているのです。「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり 心の中に シオンへの大路のある人は」(5節)。「シオンへの大路のある」…その前に「その力があなたにあり」とありますが、それは、自らの力や知恵を頼みとすることなく、全能者なる主に拠り頼み、主に身を避け、弱さのうちに完全に働く主の御力を待ち望む…そのような、砕かれ、へりくだったあり方を意味しているのです。「万軍の主よ なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は」(12節)。詩人はそう結んでいます。ともすれば私たちは、ばたばたと忙しく日々を過ごすうちに、身も心も主から離れていってしまいます。しかし、静まって主を慕い求め、主と親しく交わるなら、主は心に安らぎを、たましいに喜びをもたらしてくださるのです。また、主を隠れ場として身を避けるならば、たとえ試練や苦難の中に置かれても、私たちは、倒れてしまうことなく、そのただ中で希望が与えられるのです。主からの慰めと励ましを受けて、前に向かって歩み続けることができるのです。「主は恵みと栄光を与え 誠実に歩む者に良いものを拒まれません」(11節)。主に信頼する者こそ、誠実に歩む者です。どんなときにも主に信頼を置く者でありたいと思います。

主との交わりがますます豊かにされますように。

◇聖書箇所: 詩篇 83篇◇(10月16日)

「こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが全地の上におられるいと高き方であることを。」…詩篇83:18

詩人は神に訴えています。沈黙していないでください、黙り続けないでくださいと(1節)。それは、神を憎む者どもが、神の民に対して悪を企んでいるからです。彼らは、神の民が住む国を消し去り、イスラエルの名が思い出されないようにするという悪意を持っていたのです(4節)。5-12節では詩人は、その敵が具体的にどのような者たちであるのか、その名を挙げて明らかにしています。そしてそれらの敵が持っていた共通の目的とは、「神の牧場を奪って」自分たちのものとするということであって、国を消し去るという意味は、そこに住むイスラエルの名で呼ばれる民を絶ち滅ぼすということなのです。そこに、今も続く反ユダヤ主義の動き、そしてその背後に、神に敵対する勢力、サタンの働きがあることを覚えます。13節以降は、その敵どもをさばいてほしいという、神に対する詩人の嘆願です。彼らを、風に吹き飛ばされる藁のようにし、嵐で恐れおののかせ、辱めを受けて滅びるようにしてくださいと、神の介入を求めているのです。しかし、詩人の真の願いは、単に敵が打ち負かされ、神の民が守られることではありません。18節にあるとおり、万物を創造され、すべてのものの主であるイスラエルの神だけが、いと高き方、大能の力ですべてを統べ治められるお方であると、敵が思い知るようになることであり、地に住むすべての国民が、その主を畏れ、御名をあがめ、主の教えに聞き従う者となることなのです。「見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない」(詩121:4)。たとえ沈黙し続けているように見えても、主は、確かにその力強い御腕を伸ばし、私たちを守り支えておられるのです。民を見捨てることなく、悪に対して必ずさばきをなされるのです。その主を信仰と忍耐をもって待ち望み続けるとともに、全地の王であり、すべての国民の救い主であるイエス・キリストの存在を、人々に告げ知らせていきたいと思います。

霊の目がますます開かれますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 20章◇(10月15日)

「なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」…エレミヤ20:18

エレミヤは、パシュフルという祭司によって捕らえられ、足かせにつながれましたが、翌日に解かれたとき、エレミヤは彼に、あなたとあなたの家族も含め、ユダの民はみなバビロンの王の手に渡され、バビロンへ引いて行かれ、剣で打ち殺されるという、主のことばを告げました。7-18節はエレミヤのことばです。私はあなたに惑わされた(7節)、私は人々から嘲られ、笑いぐさとなる(8節)…と言って主を非難する一方、主が私とともにあるので、私を迫害する者たちは勝てずに恥をかく(11節)、主が貧しい者のいのちを悪者から救い出された(13節)…と言い、主をあがめています。そして14節以降ではまた、私の生まれた日はのろわれよ(14節)、私の一生は恥のうちに終わるのか(18節)…と、彼は、さらに激しいことばをもって、生を受けた自らの存在さえも否定しているのです。では、なぜそのように、エレミヤのことばに嘆きと賛美が同居しているのでしょうか…。それは彼が、主のことばを民に取り継ぐ預言者であると同時に、祭司であることを忘れず、ユダの民と同じところに立ち、恐れと痛みと悲しみを共に負い、民の声を代弁して思いを主にぶつけつつ、とりなし続けていたからに違いないのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)。キリストの十字架上でのその叫びは、私たちの心の叫びです。そのようにキリストは、預言者として神の使信を人々に告げ知らせ、同時に、祭司として私たちの痛みと苦しみを実際にその身に負われ、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と神にとりなして、贖いを成し遂げてくださったお方なのです。油注がれたキリストは、王として、預言者として、祭司として、今も生きていて、私たちとともにおられます。そして、私たちの痛みと苦しみを負い、とりなし続けておられるのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげつつ、従い続けていく者でありたいと思います。

主に目を向けることができますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 19章◇(10月14日)

「彼らに言え。『万軍の主はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。』」…エレミヤ19:11

「行って、土の焼き物の瓶を買い、…陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ」と、主はエレミヤに告げられました(1-2節)。前の18章では、陶器師である主が、粘土で製作する器を、自身の気に入るまで何度も造り変えるとありましたが、エレミヤが買うように命じられたのは、土の焼き物の瓶であり、それは、もはや粘土のように形を変えることのできない、形が定まったものでした。さらに主は、その焼き物の瓶を人々の前で砕くように命じられ、「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはができない」と言われました。それは、陶器師自身の手による器の損壊、すなわち、民に対する主のさばきがなされる前に、悔い改めなさい、立ち返りなさい、その機会を逃したらもうあとはありませんという、民に対しての警告を与えるという意図があったのです。陶器師である主が、ご自身の気に入るように造り変え続けておられる器…。それはイスラエルの民であり、信仰によってアブラハムの子孫とされたすべての聖徒たちであり、本来、良いものとして創造された、この被造物世界全体と捉えることができますが、最終的な審判、再創造がなされるための終末の日が来る前に、主に立ち返る者が一人でも多く起こされることを、主は願っておられるのです。そしてそのために人々に福音を述べ伝えるよう、主は聖徒たちに求めておられるのです。また、初代教会において、罪のうちにとどまり続けるような信徒たちがいましたが、そのような者は「さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません」とヘブル書の作者は言っています(ヘブ10:27)。人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのときに、終わりの日は突如としてやって来ます(1テサ5:3)。その日が来る前に、救いにあずかる人々がさらに起こされるよう、福音を伝え、とりなし続けていきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 18章◇(10月13日)

「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか-主のことば-。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」…エレミヤ18:6

エレミヤが主から指示を受け、陶器師の家に下って行ったとき、そこで彼が見たのは、ろくろで仕事をしている陶器師が、粘土で制作中の器を自ら壊し、より気に入ったものに造り替えている場面でした。すると主はエレミヤに、あなたが見ているのと同じように、、イスラエルの家もわたしの手の中にあり、彼らをわたしの意のままに取り扱うことができるのだ、と言われたのです。なぜならそのとき、主の御手によって造られた作品であるイスラエルの家は、主の教えに聞き従わず、偶像を拝んでおり、主にとって気に入らないものだったからです。しかし、主はなお、民がご自身に立ち返ることを期待し、もし彼らがそうするなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す、そうせずに悪であることを行うなら、幸せを与えることはない、と告げたのです(7-10節)。「私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です」(イザ64:8)。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(エペ2:10)。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています」(2コリ4:7)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちも、陶器師である主の御手の中で形造られた土の器です。そして主は、ご自身の気に入ったものとするために、何度でもその作品を壊して造り変えるのです。その土の器は、神によって息を吹き込まれ、いのちあるものであるゆえに、そのように主の御手によって取り扱われ、形を変えられるときに痛みが生じます。しかしそれは、主の御目にかなう作品とされるため、主に喜ばれ、主に用いられる器とされる過程に伴う痛みなのです。そしてその痛みが痛みのままで終わることはないのです。私たちが陶器師である主の御手の中にあることを覚え、すべてを主に明け渡したいと思います。

ただ主のみこころがなりますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 15章◇(10月10日)

「私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。」…エレミヤ15:16

主はエレミヤに、わたしの心はこの民に向かわない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよと告げ(1節)、さらに、エルサレムよ、おまえはわたしから退いて行った、わたしはおまえを滅ぼす、と告げられました(6節)。それは、民が主のことばに聞き従わず、主が忌み嫌われるような生き方から立ち返らなかったからです(7節)。一方、エレミヤは、神と民との板挟みになって苦しんでいました。彼が預言者として神のさばきを語り、主に立ち返るよう人々に促したのに対し、彼らは、余計なお世話だとエレミヤを疎んじ、排除しようとして罵り、その存在を呪う態度を示すようになっていたからです(10節)。そのような試練の中、エレミヤにとっての心の支えは、主はすべてを知っておられるという確信でした(15節)。そして彼は、その主のみことばを受け取って食べ、咀嚼して深く味わうとき、みことばは自分にとって楽しみとなり、心の喜びとなったと告白しました(16節)。エレミヤが、神は自分をどう見ておられ、どのように歩むよう求めておられるのか、それらの神のみ思いを、みことばを通して自分のものとして受けとめたとき、それは戦いの中にあった彼に慰めと励ましを与え、希望をもって生きる力、霊的ないのちをもたらす糧となったのです。「あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、私があなたに命じるすべてのことを語れ。」(1:17)。「わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す」(15:21)。エレミヤは、自分に語られる主のみことばを受け取り続けました。主のみ思い、主のみこころを知り、それに聞き従って歩み続けました。彼のような者こそ、どんな状況でも揺るがされることなく、心には平安と喜びと希望が満ちるのです。私たちもまた、みことばを日々食し、それを自分のものとして受けとめ、主に強められ、励まされて歩み続けたいと思います。

主からの平安と喜びがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 14章◇(10月9日)

「御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」…エレミヤ14:21

主はエレミヤに、ユダに起ころうとしている日照りについて語られました。それは、水汲みの者が水溜めに水を見つけることができず、雌鹿も若草がないために産んだ子を捨てるような、深刻なものであったのです(3-6節)。主はまた、民のために幸いを祈るな、彼らが断食してもわたしは叫びを聞かない、ささげ物も受け入れない、剣と飢饉と疫病で彼らを断ち滅ぼす、と言われ、そのようなことは起こらないと言っている偽りの預言者たちと、そのことばを鵜呑みにしている民の上に、それらのわざわいを下すと、エレミヤに告げられました(11-16節)。しかし、エレミヤは引き下がりませんでした。なお食い下がるようにして、単に民の幸福を求めるのではなく、民が真に罪を悔い改めるように、神の御名と栄光が辱められることなく、神が民と結ばれた契約が履行されるようにと願い求め、乾ききった地に大雨を降らせることができるのはあなただけです、あなたがそれをなさるのですと、主権者なる神をほめたたえたのです(19-22節)。そのようにエレミヤは、真の預言者として神のことばを民に取り次ぎ、同時に、神と民の間に立つ祭司として、民に代わって罪を告白して神にとりなしています。そしてそれは、同じように、預言者としてまた祭司として歩まれた、イエス・キリストの予表となっているのです。現代にも偽りの「預言者」は存在し、この世界のさまざまな問題は人間の英知と努力によって解決できる…と、明るい将来を語っています。そのような中、私たちもまた、主に立てられた預言者また祭司として、やがて終わりの日が来ること、そしてキリストにある救いが備えられていることを人々に告げ知らせ、干からびたこの地に恵みの雨を注いでください、救いをもたらしてください…と、主の前にとりなす者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 13章◇(10月8日)

「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた-主のことば-。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」…エレミヤ13:11

主はエレミヤに対し、亜麻布の帯についていくつかの命令を与えられました。それは、その帯を買い、腰に締め、ユーフラテス川の岩の割れ目に隠し、また行ってそれを取り出せという奇妙なものでした。ユダの地からユーフラテス川までは長い道のりですが、エレミヤは言われたとおりに2往復しました。そして彼が隠した帯を取り出してみると、すでにそれは腐っていたのです(7節)。すると主はエレミヤに、わたしはそのように、わたしの民の大きな誇りをぼろぼろにする、彼らを帯として自分に結びつけたが、わたしのことばに聞き従わず、偽りの神々に仕える者となったので、彼らをその帯のように、何の役にも立たなくする、と言われたのです(9-11節)。そのとき主は、帯を自分に結びつけたのは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった…と言われましたが、それは驚くべきことばです。なぜなら、栄誉とは本来神が受けるべきものであって、民が栄誉とされるということは、民が主にとっての大きな誇り、喜びとなるということを意味するからです。しかし民は結局、その主の心を悟ることなく、身勝手に歩み続け、主の憤りを引き起こしてしまったのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ3:23-24,3版)。私たちもまた、神からの栄誉を受けることなどできない罪人でしたが、キリストに贖われ、義と認められ、神の大きな好意にあずかる者とされました。それは、腐って滅びるしかなかった帯が、主によって見出され、主の腰に結びつけられ、役に立つものとされたということです。そのような神の一方的な愛とあわれみ、恵みによる救いを感謝したいと思います。

ますます主に用いられる者とされますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 12章◇(10月7日)

「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」…エレミヤ12:16

「私たちこそ神に選ばれた特別な民だ」と、ユダヤ人たちはそのような選民意識を持ち続けてきました。もしそれが、彼らの心に高慢を生み出し、異邦人への軽蔑につながるなら、それは主の前に正しいことではありません。確かに主は、イスラエルの民を長子とし、ご自身の祝福を受け継ぐ者として選ばれました。しかしそれは、イスラエルだけが祝福されるという意味ではないのです。16節のみことばから教えられること、それはイスラエルの神、主が異邦人をも愛しておられるということです。忌み嫌うべき偶像礼拝をもちこんだ民でさえ、「もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる」と、主は言われたのです。パウロは、ローマ人への手紙の中で、イスラエルの民は栽培されたオリーブの木であり、異邦人キリスト者は、そこに接ぎ木された野生のオリーブの枝であって、その木の根から豊かな養分、すなわち神の祝福を受けているのだ、と語っています(ロマ12:17-24)。主は確かに、「彼ら(異邦人)はわたしの民(イスラエルの民)のうちに建てられる」とエレミヤを通して告げられました。そしてそれは、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創12:3)という、主がアブラハムに与えられた約束(契約)のとおりなのです。キリストは、アブラハムの血筋ではない異邦人が、そのように主の祝福にあずかり、罪からの救いを受けられるようにすべく、この地に来られ、ご自身の十字架と復活による贖いを成し遂げてくださいました。そして私たちは、信仰によるアブラハムの子孫、神の民とされているのです。接ぎ木された枝として、感謝をもって、イスラエルの救いと祝福のためにとりなし続けたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 11章◇(10月6日)

「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」…エレミヤ11:8

主は、「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ」とエレミヤに命じられましたが(2節)、その契約とは、モーセの時代に、主がご自身の民をエジプトの地から連れ出されたときに結ばれたものです。それは、4-5節にあるとおり、主の声に聞き従い、命じられたことをことごとく行うならば、人々は神の民とされて、主の豊かな祝福にあずかるという約束でした。そして同時に、その契約には、人々が主に聞き従わず、命令をすべて行わないならば、神からのろいを受け、さまざまなわざわいが下されるという警告も含まれており、そこには、主が忌み嫌われる偶像礼拝の禁止規定ももちろんありました(レビ26章)。つまり、主が民と結ばれたその契約は、単なる祝福の約束ではなく、神のさばきという負の面を伴った、表裏一体のものであったのです。主は、その契約に基づくさまざまな掟と定めについて、「今日まで『わたしの声を聞け』と言って、しばしば戒めてきた」と言われましたが(7節)、民は、モーセの時代からエレミヤの時代まで、実に700年近くにわたって繰り返し警告を受け続けていたのです。しかし頑なな心を持ち、どうせ本当にそうはならない…とたかをくくっていた民は、契約違反の行為を行い続け、神を悲しませ続け、ついに神を怒らせて、さばきを受けることとなるのです。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない」(12節)。民が慕い、いけにえをささげ、拠り頼んでいた偽りの神々は、そのように、肝心な時に何もしてくれないのです。キリストの血による新しい契約によって神の民とされた私たちも、この世のもの、人間的なものを頼みとせず、ますます主の御声に聞き従って歩みたいと思います。

畏れをもって主に従う者とされますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 8章◇(10月3日)

「わたしは彼らを刈り入れたい。-主のことば-しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。」…エレミヤ8:13

4-9節は、背信を続け、悪い行いを一向に悔い改めない民に対し、あきれ、嘆く、主のことばです。しかし、その中にも、「彼らは…帰って来ることを拒む」(5節)、「山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない」(7節)と、民が悔い改め、ご自身のもとに立ち返ることを、主が依然として切望し、その帰りを忍耐深く待っていることが示唆されているのです。また、13節には、「わたしは彼らを刈り入れたい」とあります。主は、ご自身が植えたぶどうの木である民が豊かに実を結ぶこと、そして、自らの手でその実を刈り入れることを待ち望んでおられたのです。しかし、その期待は裏切られ、ぶどうの実は結ばれず、いちじくの実もならず、葉もしおれているという状態であったのです。主は、それを放置して枯れるようにすると言われました。その主の思いを知ったエレミヤの心は、押し潰されそうになりました。「私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている」(18節)、「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる」(21節)。エレミヤにとって、主の悲しみは自らの悲しみ、主の喜びもまた自らの喜びであったのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハ15:5)。主は、私たちに対しても、豊かに実を結ぶことを願っておられます。そしてそのためには、ぶどうの枝である私たちは、ぶどうの木なる主イエスに、しっかりとどまらなければならないのです。また、時に、主がなさる刈り込み、すなわち不要なものを取り除くための訓練、取り扱いを受ける必要があるのです(ヨハ15:1-5)。主の期待に応えて豊かに実を結ぶ者でありたいと思います。

主の喜びが自らの喜びとなりますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 7章16-34節◇(10月2日)

「ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』」…エレミヤ7:23

主はエレミヤに、民のために祈るな、とりなすな、わたしはあなたの願いを聞かない、と言われました(16節)。預言者であり祭司である彼にとって、そのことばはとても辛くて苦しいものだったに違いありません。なぜならそれは、自分の存在意義がなくなり、そして、ユダへのさばきが決定的となったことを意味していたからです。さらに主は、あなたは見ていないのかと言って、ユダが行っているさまざまな忌み嫌うべきことをエレミヤに指摘し、わたしはユダの町々とエルサレムの通りから、人々のいっさいの声を絶やす、それはその地が廃墟となるからだと、恐るべきことばを告げられたのです(34節)。その主は、民をエジプトから連れ出されたとき、わたしの声に聞き従え…わたしが命じるすべての道に歩め…それは、あなたがたは幸せになるためだ…と言われました(23節)。しかし民は、主のことばに耳を傾けず、頑なな心で主の前に悪事を重ね、民が悔い改めて立ち返るのを、エレミヤの時代までずっと待ち続けておられた主の思いを、民は踏みにじることとなったのです。「これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令、すなわち掟と定めである…イスラエルよ、聞いて守り行いなさい…あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:1-5抜粋)。主の御声に聞き従い、主が命じるすべての道に歩むことは、主を愛することであり、主はそうする者たちを喜ばれ、その歩みの上に、ご自身の御力と栄光を現してくださるのです。キリストにあって神の民とされた私たちも、罪の中から連れ出してくださった主に感謝し、主を愛し、主のみ教えを守り行う者、主が備えてくださっている道をまっすぐに歩む者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: エレミヤ書 7章1-15節◇(10月1日)

「そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。」…エレミヤ7:10

エレミヤは主から、主の宮の門に立って、礼拝するために門に入っていく民に対し、「あなたがたの生き方と行いを改めよ」と伝えるよう命じられました。なぜなら、彼らの信仰は迷信的、形式的なものであって、自分たちには立派な神殿がある…と、その存在自体を誇り、だから自分たちは敵の手から守られる、と勝手に信じていたからです。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という彼らのことばが、そのような高慢な心を表しています。そのように民は、目に見える神殿に心を寄せていました。しかし、そこに臨在される目に見えない神には、心を向けていなかったのです。彼らは、やもめのような弱者を虐げ(6節)、さまざまな悪事を働き、偶像を慕い、偽りの神々に従っていたのです(9節)。それなのに、「礼拝」という形だけの儀式で満足するために神殿に集い、「私たちは救われている」と言っている民に対して主は、わたしの名がつけられているこの家は「強盗の巣」と見える、と告げられたのです(11節)。主イエスもまた、神殿の中で商売をしていた者たちを追い出し、あなたがたは主の家を強盗の巣にしている、と非難されました(マタ21:13)。本来、主の宮、神殿とは、主の臨在が満ち、神への真実な礼拝がささげられ、民の罪の赦しのためのいけにえがささげられ、とりなしの祈りがなされるべきところです。しかし、エレミヤが神のことばを告げた人々のあり方は、そのような主のみこころからかけ離れた、罪深いものであったのです。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(1コリ3:16)。キリストに贖われた私たちは、絶えず神への真実な礼拝をささげる者、神の臨在と栄光が現される者、祈りの香が立ち上る家となっているだろうかと、自分自身のあり方を吟味したいと思います。

ますます主を慕い求める者とされますように。