◇聖書箇所: レビ記 16章◇(2月28日)

「アロンは生きている雄やぎの頭に両手を置き、それの上で、イスラエルの子らのすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を告白する。これらをその雄やぎの頭の上に載せ、係りの者の手でこれを荒野に追いやる。」…レビ16:21

レビ記16章は「宥めの日」についての教えです。新改訳第3版ではその「宥め」を「贖い」と訳しています。年に一度、ユダヤ暦で第7の月の10日に大祭司が会見の天幕に入り、垂れ幕の向こう側の「至聖所」に進み行き、自分自身と家族のため、イスラエルの民の罪のため、定められた手順に従って宥め(贖い)を行い、神からの赦しときよめを受けなければなりませんでした。そしてそれは、神と民との間をとりなすことを意味していたのです。その宥めの日の規定が示されたのは、アロンのふたりの息子ナダブとアビフが、主が命じていなかった異なった火をささげたために、主の前から出た火によって焼き尽くされてしまった(10:1-2)後のことでした(1節)。「時をわきまえず入ることがないように…死ぬことのないようにするため…」(2節)とあるとおり、主は、悲劇が繰り返されないように、モーセを通してアロンに告げたのです。大祭司アロンは、罪のきよめのささげ物として雄牛を、全焼のいけにえとして雄羊を携え、会衆のためには雄やぎ2頭、雄羊1頭を取りました(3,5節)。そしてその罪のきよめのささげ物の血は、契約の箱の「宥めの蓋」の東側(上)と前に振りまかれ(14-15節)、祭壇の四隅の角に塗られました(18節)。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」とあるとおりです(ヘブ9:22)。さらに彼は「アザゼルのやぎ」の頭に両手を置き、民の罪をすべて告白してそれを負わせ、荒野に追いやったのです。ささげ物の血、アザゼルのやぎ…。それらが指し示すのはイエス・キリストです。主は大祭司としてただ一度ご自分の血によって至聖所に入られ、全人類のための贖いを成し遂げられたのです(ヘブ9:12)。やぎが追いやられたことは、罪を思い返さないことを表しているのです。その主の恵みとあわれみをいつも覚えたいと思います。

賛美と栄光と誉れがただ主にありますように。

◇聖書箇所: レビ記 15章16-33節◇(2月27日)

「あなたがたは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい。彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。」…レビ15:31

レビ記にはさまざまな規定が事細かに書かれていますが、同じような内容が繰り返されている箇所に来ると、そこを読み飛ばしたくなる思いにしばしば駆られます。しかし、その手順や動作などの表面的なことだけに目を向けたり、それをユダヤ人だけのものとしてとらえようとしたりするのではなく、なぜそれが求められるのか、規定の根底にあるその本質をきちんと理解し、そこから、普遍的な神のみこころを知ることが大切なのです。15章の後半には、男性の射精や女性の生理など、性的な「漏出」からのきよめについての規定が書かれています。その場合も、15節までの前半にあったそれ以外の漏出と同様に、その日中汚れること、衣服を洗って水を浴びる必要があること、またその人が座った物に触れ、その人と接触した者もまた汚れること、さらに山鳩か家鳩のひな二羽を罪のきよめと全焼のささげ物として持って行き、祭司がそれによって宥めをすることが語られています。31節には「イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい」とあります。それは主が、荒野を旅する民のただ中にあったご自身の幕屋、すなわち主の住まいが彼らによって汚され、主が彼らのいのちを取るようなことにならないようにするためであったのです。そのように、自分たちのいのちに直結することとして、教えを聞かされていたイスラエルの民は、主を畏れ、それを遵守しました。そしてその教えは、キリストにある神の民であり、御霊のみ住まいとされた私たちも、その神のみこころを知り、汚れから離れ、自らをきよく保つべきなのです。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ロマ12:1)。そのように、主の幕屋を汚すことがないようにし、神に喜ばれる聖なるささげ物として自らを主に献げたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 15章1-15節◇(2月26日)

「漏出を病む者が座った物の上に座った者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。」…レビ15:6

漏出を病む者の「汚れ」について書かれています。「隠しどころ」とありますが、その直訳は脚注にあるとおり、「肉」であり、人の目に触れないよう、服や下着により覆い隠されている部分のことです。またそこからの漏出Fwd: 今日の聖書日課 250226物とは、体内に留まっていたものが外に漏れ出たものであり、「病む」とあることから、からだの器官の機能低下などによっても起こることだと考えられます。いずれにしても、そのように漏出を病む者は汚れているとされ、その人が座った物の上に座ったり、その人自身に触れた者も汚れることとなりますが、その場合は、汚れに触れた者が自分の衣服を洗い、水を浴び、夕方以降になれば、つまり、ユダヤ人にとっての一日が終わって翌日になれば、その影響はなくなるとされたのです。そのように、イスラエルの民の社会生活において、漏出を病む者が出ることは避けられないことですが、人々は、神が定めた規定によって適切に対応したのです。しかし漏出を病む人の中には、周りから迷惑がられたり、そのことで後ろめたさを感じることもあったことでしょう。その汚れは目に見えるもの、外面的な「汚れ」であり、人は、そのことに対して敏感であるのです。しかし、内面的な汚れ、すなわちすべての人のうちにある罪に対しては、必ずしもそうではないということを思わされます。そしてそれは、神のみこころにかなわない、人を傷つけるとげのあることばや態度として、しばしば外に「漏出」することとなるのです。けれども感謝なことに、私たちのその罪の汚れは、イエス・キリストが流された血潮によって洗いきよめられています。その贖いを信じるならば、ただちに癒やされ、罪赦され、永遠のいのちにあずかる者とされるのです。そのことを覚えて主に感謝を献げたいと思います。

主の守りと祝福がありますように。

◇聖書箇所: レビ記 14章33-57節◇(2月25日)

「しかし、もしも、祭司が入って行くことがあり、調べて、家が塗り直された後にその冒された箇所が家に広がっていないなら、祭司はその家はきよいと宣言する。冒された箇所が治ったからである。」…レビ14:48

33節以降には、ツァラアトに冒された家についてのおしえが記されています。この場合のツァラアトとは、人の場合の皮膚病とは異なり、おそらくカビのようなものであり、それが発生している箇所の範囲がどんどんと拡がっていくようであれば、祭司は、神によって定められたことを行うようにと、その家の主に命じたのです。それは具体的には、冒された箇所を含んでいる石を家から取り出し、町の外に捨て、代わりに別な石を入れ替えてそこに設置しするということです。また、家の内側の面、すなわち、壁や床や天井などの表面を削り落とし、それも町の外に捨て、新しい漆喰によってそれらの部分を塗り直す、ということも命じられました。そしてその拡がりが収まれば、その家はきよいと宣言されたのです。「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか」(2コリ7:1)。罪に汚れた私たちは、キリストの十字架と復活を信じる信仰によって神から義と認められ、罪赦され、救いにあずかっています。しかしそれで満足せずに、この世に生きる聖徒として、いっさいの汚れから自分をきよめ、聖さを全うすべきなのだ、とパウロは言っているのです。キリストによるきよめ…それは、私たちのうちにある汚れた部分が取り除かれ、キリストという尊い礎石によって置き換えられるということです。心の王座を占めるのが自分ではなく、キリストに代わるということなのです。そして、なおも罪の性質を持った私たちのうちに働き、神の聖さにあずかる者となるよう助けてくださるのは、私たちのうちに住んでおられる主の御霊、聖霊なのです。自らの中にある汚れたものが日々削り落とされ、思いとことばと行いにおいてますますきよめがなされることを祈り願いつつ、主にあって歩んでいきたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 14章1-32節◇(2月24日)

「以上が、ツァラアトに冒された患部がある者で、きよめに必要なものを手に入れることのできない者のためのおしえである。」…レビ14:32

ツァラアトに冒された者がきよめられるためのおしえが書かれています。二羽の小鳥のうち一羽が殺され、その血がきよめられる者にかけられ、生きている小鳥が野に放されました。また、傷のない雄の子羊2匹のうち1匹が代償のささげ物としてほふられ、その血が、きよめられる者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗られ、さらに残りの1頭は、穀物のささげものととともに全焼のささげ物として献げられ、それらをすべて終えたとき、祭司はその者がきよくなったと認定したのです(20節)。21-32節は、貧しくてその雄の子羊を1頭しか手に入れることができない人に対する、ツァラアトのきよめの規定です。その場合には、もう1頭の雄の子羊の代わりに、安い山鳩か家鳩のひな2羽を取り、1羽を罪のきよめのささげ物、もう1羽を全焼のささげ物とすることができ、穀物のささげ物に用いる小麦粉の量も3分の1で済みました。神はそのように、貧しい者への愛の配慮をされたのです。詩篇の作者もこう言っています。「貧しい者は決して忘れられることがなく 苦しむ者の望みは 永遠に失せることがない」(詩9:18)。「主はご自分の民を愛し 貧しい者たちを救いをもって装われる」(詩149:4)。「貧しい者」とは、経済的な意味だけではありません。「心の貧しい者」、すなわち自分のうちにある罪深さ、いたらなさを神の前に素直に認める者をも意味します。主イエスは「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」と言われました(ルカ6:20)。私たちもまた、汚れた者、貧しい者、きよめられるべき者なのです。そして、主に献げられるものは何もなかったのです。しかし、キリストが、私たちのために愛とあわれみをもって、ご自身をいけにえとしてささげてくださったゆえに、わたしたちはそのキリストにあって、きよい者、富む者とされたのです。そのことを覚え、主に感謝したいと思います。

神の国の豊かさにあずかることができますように。

◇聖書箇所: レビ記 13章1-28節◇(2月22日)

「祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。」…レビ13:3

13-14章には、「ツァラアト」に関する規定が書かれています。ツァラアトは新改訳2版では「らい病」(現在のハンセン病)と訳されていますが、「らい」が差別と偏見を受けてきた歴史があることや、聖書では人の皮膚だででなく、家の壁や衣服にも現れるものとされており、元のヘブル語「ツァラアト」が特定の病名に結びつけられないことから、3版からそのように変更されました。人や衣服がツァラアトに冒されているかどうかの判断はもっぱら祭司が行いましたが、その基準が祭司によってまちまちにならぬよう、患部における細い黄色の毛や白く光る斑点の有無など、神ご自身によって、事細かに決められていました。そして、祭司がその人の症状を調べ、ツァラアトと判断したら、汚れていると宣言したのです。そのようにツァラアトに冒された人は、「汚れている、汚れている」と叫んで人々に注意を喚起し、さらに、民の宿営の外に独りで住まなければなりませんでした(46節)。当時はツァラアトの感染力が強いとされており、感染の拡大を防ぐためにそのように求められたのです。「汚れている、汚れている…」。その叫びは、罪に汚れたすべての者もまた、嘆き悲しみ、心の底から発すべきものであることを思わされます。しかし、キリストが十字架にかかって血を流し、人々の罪をきよめてくださったゆえに、そのキリストの贖いを信じる私たちは、「あなたはきよい」、「あなたの罪は赦された」という宣告を、大祭司であるキリストから受け取ることができるのです。「それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」(ヘブ13:12)。「汚れている」と叫ばなければならなかった私たちのために、そのように苦しみを受けられたキリストを覚え、感謝と賛美を献げたいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: レビ記 12章◇(2月21日)

「祭司はこれを主の前に献げ、彼女のために宥めを行い、彼女はその出血の汚れからきよくなる。これが、男の子であれ女の子であれ、子を産む女についてのおしえである。」…レビ12:7

12章には、子を産んだ女性の汚れときよめに関する教えが書かれています。男の子を産んだ場合には7日間汚れ、その後も33日間、血のきよめのためにこもるよう求められました。また、女の子の場合は男の子の場合の倍の期間となり、2週間汚れ、66日間のきよめが必要でした。そのように、イスラエルにおいては、子を産んだ女性たちは、あなたは汚れている、こもりなさい、きよめられなさいと、神から命じられて従ったのです。では、その期間中、彼女たちの思いはどうであったのでしょうか…。また、きよめの期間の後、さらに全焼のささげ物と罪のきよめのささげ物を献げることが求められましたが、感謝と献身を表す全焼のいけにえはともかく、なぜ罪のためのいけにえが求められたのでしょうか…。神から禁じられていた善悪の知識の木の実を食べたエバに対して、神は「あなたは苦しんで子を産む」と言われました(創3:16)。汚れた者とされ、きよめの期間をこもって過ごす産後の女性たちは、そのとき、出産の痛みと苦しみと、その神のことばを思い出していたのではないでしょうか…。そして、出産と汚れからのきよめの期間を経て、その苦しみからの解放、きよめを受けた者として、神から与えられた新しいいのちを胸に抱いて喜び、主に感謝と賛美を献げたに違いないのです。苦しみからの解放、汚れのきよめ、神の前に献げられるささげ物による贖い、新しく与えられるいのち…。そこにもキリストによる救いが暗示されています。「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)。すべての人は神の前に汚れた存在であり、きよめられなければならないのです。そしてそのために、キリストがご自身を神に献げ、贖いを成し遂げてくださったのです。いのちを得た者として、喜びをもって、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: レビ記 11章24-47節◇(2月20日)

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」…レビ11:45

11章には、昨日見たように、イスラエルの民にとっての食物の規定と、今日の箇所にあるとおり、死骸に触れることによる汚れについての教えが詳細に記されています。そして、章の最後の部分にある44,45節において、それらを定められた神の意図が示されています。それは、神が聖なる方であられるので、神の民も同じく、聖なる者とならなければならない、ということなのです。聖なる者となるということは、消極的な意味では、神にとって忌むべきもの、汚れているものから離れる、その影響を受けないようにする、ということです。さらに、積極的な意味では、神の民が、アブラハムとの契約により約束された主の祝福を、他国の民にも押し流し、分かち合うために、汚れから分離され、取り分けられ、きよめの働きをする存在とされる、ということなのです。そのように、聖なる者となれ、という神の教えを、単に汚れから離れて、自らをきよく保てという命令と理解するのなら、極端な考え方をすれば、人里離れたところに住み、他の人々との接触を避けなければならなくなります。しかし、神のみこころは決してそうではありません。イスラエルの民は、異国の民に囲まれたカナンの地に導かれ、そこで、神への礼拝と生活のあらゆる場面において、神の聖さと偉大さ、民の上にもたらされる救いと祝福を、周囲に対して示したのです。証ししたのです。そのことは、霊的なイスラエルの民である私たちに対しても求められています。主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか…」と(マタ5:13)。この世にあって、汚れたものから分離しているか、悪い影響を受けていないか、逆に、周りに対して塩としての役割を果たす者となっているか、自らの歩みを振り返り、主のみこころを行っていきたいと思います。

神の民としての自覚をもって歩めますように。

◇聖書箇所: レビ記 11章1-23節◇(2月19日)

「あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。」…レビ11:8

11章には、イスラエルの民の「食物規定」が記されています。ユダヤ教では今もこの教えを忠実に守り、コーシェルと呼ばれる、食物規定を満たすものしか食べません。神ご自身によって定められた、食べてよいものといけないもの、汚れたもの・忌むべきものとそうでないものとを明確に区別することが、モーセのときから現代まで、ずっと守られ続けているということは驚きです。では、それが定められた根拠は何なのでしょうか…。動物の場合、ひづめが分かれていて、かつ反芻するものは食べてよいとされ、らくだ、野うさぎ、豚などはその対象外でした。また水の中にいる生き物の場合は、ひれや鱗があるものは食べてよく、そうでない貝類や、かに、いかなどは食べることが禁じられたのです。寄生虫による病気を避けるための衛生上の理由、異教の礼拝で使われていたものを排除するための宗教上の理由があったのではないかとも言われていますが、定かではありません。いずれにしても、イスラエルの民は、神が定められたその教えに忠実に従ったのです。その食物規定の根拠を尋ね、その答えを受け取り、納得した上で受け入れたわけではないのです。また、汚れたもの、忌むべきものが、「あなたがたには」ということばで示されていますが、それらはあくまでイスラエルの民にとってであり、神にとってはすべてがきよいもの、良いものなのです。なぜなら、それらもまた、神による被造物であるからです。その食物規定が、イエス・キリストによる贖いを信じて救われ、生かされている私たちに適用されることはありません(ロマ14:20)。与えられているすべての食べ物を、主に感謝しつつ食すことができるのです。しかし、霊的な意味においては、聖徒である私たちにとっても、汚れたこと、忌むべきことが、この世にはあるのです。そのことを覚え、それらを避け、主のみこころ、主に喜ばれることをますます追い求める者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 10章◇(2月18日)

「こうしてあなたがたは、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを分け、また、主がモーセを通してイスラエルの子らに告げたすべての掟を、彼らに教えるのである。」…レビ10:10-11

アロンとその子らは、主がモーセを通して命じられたとおりにささげ物を主に献げ、その結果、主の栄光が民全体に現れ、民は偉大な神の前に喜び叫び、ひれ伏して主を礼拝していました。ところが、アロンの子であるナダブとアビフは、勝手なことをしたために主に打たれ、主の前から出た火によって焼き尽くされてしまいました。そしてそれは、「主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた」(1節)ことが原因であったのです。その「異なる火」がどのようなものであったのか、その詳細は不明ですが、「それぞれ自分の火皿を取り」とあるので、自分の考えで、自分のものとした火皿に、自分の好みの香を盛って献げたのかもしれません。またそこに、異教的な要素が含まれていたとも考えられます。いずれにしてもそのような行為、しかも聖なる祭司であるアロンの子らがしたそのことは、神にとって決して見過ごすことができない、重大な過ちであったのです。だからこそ主は、彼らのいのちを取られ、聖であるご自分に対して、民が畏れをもって従うよう求められたのです。そのことを、主はモーセを通し、父親であるアロンに語られましたが(3節)、黙っていたアロンに対して直接告げられました(8-10節)。そしてそれは、「聖なるものと俗なるもの、汚れたものときよいもの」を明確に区別すべきことを命じるものであり、会見の天幕に入るときに強い酒を飲むことも禁止されていました。それが主が民全体に求めておられた、ご自身のみこころであったのです。私たちもこの世にあってさまざまな影響を受けています。ともすれば無意識に、汚れたもの、俗なるものを取り入れてしまいます。しかし私たちは、その一つ一つが「主が命じたとおり」のものなのかを、みことばに照らしてしっかりと見極め、区別すべきなのです。御霊の知恵と導きをいただき、そのようにして歩みたいと思います。

主の前に自らを吟味する者とされますように。

◇聖書箇所: レビ記 9章◇(2月17日)

「こうして、アロンは民に向かって両手を上げ、彼らを祝福し、罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、交わりのいけにえを献げ終えて壇から降りて来た。」…レビ9:22

9章では、1章から述べられてきた動物のいけにえによる神へのささげ物を、アロンとその子らが規定どおりに、忠実にささげたことが記されており、22節はその要約となっています。そこには、罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、交わりのいけにえとありますが、それらを主の前に献げる順序にも意味があるのです。まず、罪のきよめのささげ物が求められます。その罪とはイスラエルの民の罪のことであり、それを献げる祭司自身も、自分のために、その罪のきよめのささげ物を献げる必要がありました(2,7-8節)。そのようにして、祭司と民の罪はきよめられ、神に受け入れられたのです。そのことが、何よりも優先されるべきであったのです。次が全焼のささげ物です。それは、焼き尽くされるべきささげ物であって、献げる者の全き献身と聖別、すなわち汚れたものからの分離を表しているのです。そして、最後にささげるのは交わりのいけにえです。それは神との親密な交わりの回復を表していました。そのように、定められた順序に従ってささげ物が献げられ、また、それらが献げられる際、ささげ物の血が祭壇に注がれることによって、民の上に、神の祝福がもたらされ、主の栄光と臨在が現わされたのです(23節)。「…キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました」(ヘブ9:26b)。「私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます」(ヘブ10:19b)。私たちの罪の赦しのために十字架にかかられたキリストこそ、神の前に献げられた完全なささげ物であり、その贖いによって私たちは、神と親しく交わり、神の豊かな祝福にあずかる者とされているのです。そのことを主の前に喜び、ひれ伏す思いで主をあがめたいと思います(24節)。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 8章1-13節◇(2月15日)

「次に、モーセはアロンの子らを連れて来て、彼らに長服を着せ、飾り帯を締め、ターバンを巻いた。主がモーセに命じられたとおりである。」…レビ8:13

7章までにおいては、主がモーセに対して、イスラエルの民に、またアロンとその子らに、このように告げよと、語るべきことばを示されたことが書かれています。一方、8章では、アロンとその子らの祭司の任職において、どのようにモーセ自身がそれを行うべきかが記されています。主はそのようにしてモーセを、神のことばを人々に取り継ぐ預言者として、また、主が取り分けたものに油を注ぐ祭司として、大切な役割を担わせ、用いられたのです。さまざまなことを主から命じられたモーセは、「命じられたとおりに」それらを行いました。彼は、主の具体的な指示をしっかりと聴き取り、その一つ一つのことを漏れなく、誤りなく、忠実に実行したのです。そしてそれは、主のみこころが民やアロンとその子らになされるために、自らを完全に主に明け渡し、主の口となり手足となって行動した、ということにほかならないのです。主イエスもまた、ゲツセマネにおいて父の御声を聴き、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタ26:39)と自らを明け渡し、すべての人を罪の中から救い出すために十字架へと進まれ、ご自身のいのちを献げてくださいました。そのイエス・キリストは、油注がれた預言者であり、祭司であり、王であり、モーセはそのキリストの型であるのです。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう…」(マタ25:21)。キリストに贖われた聖徒たちもまた、キリストに倣い、主のみこころがこの地になされるために、自らを主に明け渡し、神から命じられたさまざまなことを忠実に実行するよう求められています。そして私たちがなすべき「良い行い」は、主によって備えられているのです(エペ2:10)。置かれているところで、主から求められている働きを忠実に行なう、良きしもべでありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 7章22-38節◇(2月14日)

「それは、わたしが、奉献物の胸肉と奉納物のもも肉をイスラエルの子らから、その交わりのいけにえから取り、それらを祭司アロンとその子らに、イスラエルの子らから受け取るべき永遠の割り当てとして与えたからである。」…レビ7:34

23-27節では、イスラエルの民が動物の脂肪や血を食べることが、明確に禁じられています。そこには単に衛生上の観点からではなく、霊的な理由があるに違いありません。血はいのちの象徴であり、脂肪は力の源となるものですが、それらを食べて自分のものとするなら、本来、いのちや力が神から与えられるものであるにもかかわらず、人がそのことを忘れ、神に頼らずに自分が主体となって生きようとしてしまう…そのような罪深いあり方に陥らないようにと、主は意図されたのかもしれません。28-36節には、祭司であるアロンとその子らが受ける食物のことが書かれています。交わりのいけにえを主に献げる者は、動物の脂肪とともに胸肉やもも肉を持って行き、祭司はその脂肪を受け取って祭壇で焼いて煙にしますが、その肉は祭司のものとなる、と主は定められたのです。イスラエルの部族のうち、レビ族には他の部族のような割り当て地がありませんでした(申12:12)。幕屋での奉仕にたずさわる祭司はそのレビ人であり、彼らは自分たちの食べる物も、そのようにして与えられたのです。そしてそれは主が配慮をもって決められたことだったのです。主はご自身に身を献げて仕える者たちのために、必要なものをそのようにして備えてくださるお方なのです。それはもちろん、今も変わりません。主を愛し、主のみこころを求め、主に仕える聖徒たちのために、主はすべての必要を備え、与えてくださいます。「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです」。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタ6:31,33)。自分が神に愛され、生かされており、すべての必要が備えられていることを覚え、思い煩うことなく、主に従い続けたいと思います。

主の恵みと祝福が満ちあふれますように。

◇聖書箇所: レビ記 7章1-21節◇(2月13日)

「また人が、どんな物でも汚れたもの、すなわち人の汚れや汚れた動物、またあらゆる汚れた忌むべきものに触れていながら、主に献げられた交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は自分の民から断ち切られる。」…レビ7:21

今日の箇所には代償のささげ物(1-10節)と交わりのいけにえ(11-21節)についてのおしえが書かれています。ちなみに新改訳第3版では、前者は「罪過のためのいけにえ」、後者は「和解のいけにえ」と訳されています。人が罪のゆえに過ちを犯した場合、主に対して代償が求められ、それは、全焼のささげ物を主の前に献げ、そのささげ物の血を流し、その血を祭壇の側面に振りかけることによって主に受け入れられました。その代償のささげ物とは、すなわちその人の身代わりであり、新約の時代には、罪のないイエス・キリストがそのささげ物となってご自身をささげ、血を流してくださったのです。また、交わりのいけにえとは、神との和解を感謝するものであり、それを献げる際には、ドーナツ状の輪形のパンが一緒に献げられました。そしてそれは、種入りのものも認められたのです(13節)。パン種は腐敗をもたらすため、それを取り除くことがしばしば求められましたが、種入りのパンも献げられたということは、人のうちにもそのような不純なものが存在し、それでもなお、主が受け入れてくださることを示唆しているのかもしれません。21節では、汚れたものに触れた人が交わりのいけにえの肉を食べることが、禁じられています。そのことは、主イエスの弟子たちが手を洗わずにパンを食べるのを見て、パリサイ人たちが非難したことを思い出させます。しかし主は、「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」と言われたのです。パリサイ人たちは律法の精神を正しく理解せず、形式的にそれを守ることで自分たちが神によって義と認められると考えていました。しかしあくまでもそれは神が求められるささげ物によってなのです。そしてキリストはそのささげ物となられたのです。そのことを覚えたいと思います。

主への感謝と賛美が絶えずありますように。

◇聖書箇所: レビ記 5章◇(2月11日)

「祭司はもう一羽のほうも、定めに従って全焼のいけにえとする。こうして祭司はその人のために、その人のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。」…レビ5:10

今日の箇所では、「そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合」の扱いが記されています。その意味は、あることをなんとなく良くないと感じていながら、明確に罪とは認識せずについそれをしてしまい、罪の意識に苛まれるということです。そしてその場合、その者が陥った自らの罪を告白し、悔い改め、罪のきよめのささげ物としての動物を連れて来て、祭司がそれを主の前に献げることにより、宥めがなされ、罪は除かれ、その者は神から赦されるのです(6節)。「彼は赦される」という宣言のことばが何度も語られ、そのことが強調されています(10,13,16,18節)。また、経済的に貧しい人の場合には、羊ややぎではなく、山鳩や家鳩のひな二羽でも良いとされ、それさえも手に入れることができないなら、罪のきよめには血が流されることが求められるという原則がある中、小麦粉であっても認められた(11節)ということに心が留まります。そしてそれは、律法を形式的に守ることによって、人の罪が機械的に赦されるのではないということを、また、心に痛みを伴う真実な悔い改めとささげ物こそが神に受け入れられ、罪が赦されるのだということを意味しているのです。さらにそれは、富んでいる者も貧しい者も、どんな地位や立場にあっても、すべての人の罪がきよめられ、赦しを受けることを、神ご自身が願っておられるということなのです。そしてそのために神は、恵みとしての律法をご自身の民に与え、傷のない完全ないけにえとしてのキリストを、全人類のために与えてくださったのです。罪により心に責めを覚える私たちが主の前に悔い改め、十字架と復活による贖いを成し遂げられたキリストを信じるならば、その罪は確かに赦されるのです。動物のささげ物は不要なのです。日々、その救いの恵みを覚え、悔い改めて主に立ち返り、主に感謝と賛美を献げる者でありたいと思います。

罪の赦しの喜びがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 4章22-35節◇(2月10日)

「祭司は罪のきよめのささげ物の血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。その血はすべて祭壇の土台に流す。」…レビ4:34

4章には「罪のきよめのささげ物」の規定が書かれています。2-21節では、祭司自身が陥った罪や、イスラエルの全会衆の罪のきよめのため、また今日の箇所である22節以降では、族長や民衆の一人が罪に陥った場合のきよめのために、動物をどのようにささげ物とすべきかが、主ご自身によって明らかにされています。そして、それらを献げる際には共通な点があることがわかります。その第一、それは、傷のない動物の血が求められたということです。雄牛、雄やぎ、雌やぎ、雌の子羊…と、罪を犯した者の地位や貧富の差により、それらのささげ物を入手する困難さが配慮されているように思われます。いずれにしてもそのささげ物は主の前でほふられ、その血は幕屋の中に持ち込まれて香の祭壇の角に、あるいは幕屋の外にある全焼のささげ物の祭壇の角に塗られ、残りの血はすべて祭壇の土台に注がれたのです。その第二、それは、そのようにしてささげ物の血を祭壇の角に塗り、土台に注ぎかけるのは祭司の役目であったということです。それは、会見の天幕の中には民衆は入ることができず、祭司が神と人との間に立って、罪の赦し、神への宥めために奉仕する存在であったからです。その第三、それは、ささげ物となる動物の脂肪が焼かれて煙になり、それは主への芳ばしい香りとなって立ち上った、つまり、主がそれを喜ばれたということです。そして、それらの共通点が指し示すのは、全人類の罪がきよめられるために十字架にかかられたキリストです。キリストはまさに、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1:29)として、また大祭司としてまことの聖所に入り、罪(傷)のないご自身をささげ、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブ9:11-12)。このキリストにあって、私たちのすべての罪が赦されているのです。そのことを覚え、主に感謝と賛美をささげたいと思います。

キリストの御名があがめられますように。

◇聖書箇所: レビ記 3章◇(2月8日)

「祭司は祭壇の上で、それを食物として、芳ばしい香りのための食物のささげ物として焼いて煙にする。脂肪はすべて主のものである。」…レビ3:16

3章は交わりのいけにえ(和解のいけにえ:3版)についての規定です。アダムが神の命令に背いて罪を犯したことにより、神との親密な関係は断たれ、人は神の怒りとさばきを受けるべき者となりましたが、神とのその関係が修復され、和解がなされ、交わりが回復するためのささげ物が、主が民に求めているこの交わりのいけにえです。そのささげ物の規定を見ると、9-10節のように具体的かつ詳細な指示がされており、さらに、さまざまな部分の脂肪を焼いて煙にするよう命じられていることに心が留まります。ではなぜ主は、脂肪をささげるように求めておられるのでしょうか…。「脂肪」と訳されている原語には、「最も良い部分、選り抜きの部分、最上のもの、肥えたもの」という意味もあります。主は民に、ささげ物の中の最良、最高の部分をご自身にささげるよう命じておられるのです。また脂肪は、人や動物が活動するための重要なエネルギー源となるものであり、その意味で「力」の象徴であるとも言えます。その脂肪を主にささげるとき、人々は、神こそあがめられるべき至高の存在であり、最良のものをその神にささげるのがふさわしいことを覚え、また、生きるための力の源が自分たちのうちにはなく、力と助けはただ神から来るということを覚えたに違いありません。「主は私の力 私の盾。私の心は主に拠り頼み 私は助けられた」(詩28:7)。アダムの罪の本質とは、善悪の知識の木の実を食べて知恵を得、神の力と助けなしに生きようとすることでした。そしてその罪の性質を持ったすべての人のために、神は、最良、最愛のひとり子を献げてくださったのです。私たちはそのことを覚え、最上のものをもって主をあがめ、礼拝すべきなのです。そして、「脂肪はすべて主のものである」と言われる主の前にへりくだり、どんなときにもひたすら主に拠り頼むべきなのです。そのような者でありたいと思います。

主の助けと支えがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 2章◇(2月7日)

「あなたがたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しであっても、主への食物のささげ物として焼いて煙にしてはならない。」…レビ2:11

2章には「穀物のささげ物」についての規定が書かれています。「人が主に穀物のささげ物を献げるとき」と1節にありますが、全焼のささげ物の頭上に人が手を置き、自分の「代わり」だとしたように(1:4)、穀物のささげ物に対する神のさまざまな要求は、それをささげる者自身への要求をも意味していると考えることができます。その穀物のささげ物は、調理をしないもの(1-3節)と、小麦粉をかまどや鍋で焼いて作るもの(4-10)がありましたが、調理したものについては、祭壇に献げられる前に、粉々に砕かれる必要がありました(6節)。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心…」ということばが思い起こされます(詩51:17)。そのように神は、聖徒たちに対して、へりくだりと従順を、頑なではない、砕かれた霊と心を求めておられるのです。また、調理される穀物のささげ物には、パン種や蜜を入れてはなりませんでした。それらは腐敗をもたらすからです。そして、そのように不要なものを排除したささげ物には、さらに塩を加える必要があったのです(13節)。その塩には腐敗を防ぐ働きがあり、そこから「不変」や「永遠」という意味をも表します。「神の契約の塩を欠かしてはならない」とありますが、それは、「永遠に変わらない神の契約の民」であることを忘れるな、その神の前に真実であり続けよ、異邦人のように偶像に心を寄せて汚れないようにせよ、とのメッセージなのです。そして、調理しない穀物のささげ物には、油と乳香が必ず添えられました。詩篇141篇2節に「私の祈りが御前への香として…立ち上りますように」とあるように、乳香は祈りを表します。また油は聖別のために用いられ、聖霊を表します。聖徒たちは、世の汚れから離れ、御霊に満たされることが求められているのです。そのことを覚えつつ、自らを主に献げる者でありたいと思います。

感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。

◇聖書箇所: レビ記 1章◇(2月6日)

「…祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。」…レビ1:9

「レビ記」というこの書のタイトルの由来は、レビ人である祭司によってなされた礼拝の規定がそこに記されているということにあります。ヤコブの12人の息子の一人であるレビを祖とするレビ族は、主ご自身を相続地(ゆずり)とするよう定められ、礼拝をつかさどる祭司をはじめ、幕屋、後には神殿の奉仕者として任命されました。そのレビ記1章には、全焼のいけにえのささげ物の規定が書かれています。民は、牛、羊またはやぎの中から傷のない雄を選んで主の前に連れて行き、祭司であるアロンの子らがそれをほふり、各部に切り分け、内臓や足を水で洗い、それらをすべて祭壇の火の上で焼いて煙にしました。またその際、連れて来た人はその全焼のささげ物の頭の上に手を置くようにし、ほふられたささげ物の血は、祭壇の回り(側面)に注ぎかけられたのです。それらの行為は、民が罪あるゆえに死に値する者であり、牛や羊などの動物が民の身代りとなり、そのいのちが取られるということを表しています。また、血はいのちの象徴であり、それが祭壇に注がれることで、取られたいのちが主のものであることを示すのです。さらに、ささげ物のすべての部分を焼くことは、神への全き献身を意味し、傷のないささげ物は、それが最上のものであるということなのです。そしてそのささげ物は、全人類のために十字架にかかって血を流され、死なれたお方、罪のない完全なささげ物であるキリストの予型なのです。ささげ物が焼かれて煙りが立ち上るとき、それは主の前に「芳ばしい香り」(9,13,17)となりました。「芳ばしい」とは「喜ばしい」という意味でもあります。神がそれを喜ばれたのです。民は、単なる儀式ではなく、神との交わりの一部として、最上のささげ物を献げ、神を喜ばせたのです。私たちにとっても、そのあり方が、礼拝や奉仕だけでなく、すべての歩みにおいて求められているのです。そのことを覚えたいと思います。

主への感謝と賛美が絶えずありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 72篇◇(2月5日)

「王は 弱い者や貧しい者をあわれみ 貧しい者たちのいのちを救います。虐げと暴虐から 王は彼らのいのちを贖います。王の目には 彼らの血は尊いのです。」…詩篇72:13-14

最後の20節に「ダビデの祈りは終わった」とあります。本詩篇はダビデが、息子であり、自分の後継者としてイスラエルの王座についたソロモンのために、彼の治世が御旨にかない、祝福されるよう、主に願った祈りです。その中で繰り返され、読者の心に留まるのは、王が民の苦しむ者、貧しい者、虐げられている者たちをあわれみ、弁護し、救い出すように、彼らの敵を打ち砕くようにと願う、ダビデのことばです。そしてそれらは、預言として、来たるべきメシア、御国の王なるイエス・キリストを指し示している、と見ることができるのです。キリストは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と言われ(マタ5:3)、たましいに飢え乾きを覚えている人々に、神の国がもたらすいのちと祝福を伝えられました。そして神に敵対する者の虐げ、罪の束縛から、すべての民を贖い解放するために、王であるキリストは、ご自身のいのちを十字架の上でささげてくださったのです。「王の目には彼らの血は尊い」とありますが、彼らの血とはすなわち、一人ひとりのいのち、存在なのです。神の目に高価で尊い存在である私たちは、神の深い愛とあわれみによって、そのように、死からいのちへ、闇から光へと移され、永遠に神とともに生きる者とされているのです。「王の名がとこしえに続き その名が 日の照るかぎり増え広がりますように。人々が彼によって祝福され すべての国々が彼をほめたたえますように(17節)。ダビデのその願いは、神ご自身の、そして贖われた私たちの願いです。15節には、「王のためにいつも彼らが祈り 絶えず王をほめたたえますように」とありますが、私たちは、どんなときにも主をほめたたえ、神のみこころがなされるよう、絶えずとりなす者でありたいと思います。

すべての栄光が神にありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 71篇◇(2月4日)

「私の口は絶えず語り告げます。あなたの義と救いとを。そのすべてを私は知っておりませんが。」…詩篇71:15

「あなたの義によって私を救い 助け出してください」、「わが神よ 私を悪者の手から助け出してください…」。詩人はそのように、神に願い求めています(2,4節)。自らのいのちが敵に狙われ、不正を行なう者や残虐な者に捕らえられようとしている中にあって(4,10節)、詩人は、敵が言うように(11節)、神が遠く離れてしまったのでは…との思いに駆られることもありました(12節)。しかし、それを振り払うかのように、詩人は目を天に向け、「しかし私は 絶えずあなたを待ち望み いよいよ切に あなたを賛美します。」と告白しているのです(14節)。詩人のその口はまた、神の義と救いを人々に語り告げ、自分自身にも言い聞かせるものとなっていましたが、彼は「そのすべてを私は知っておりませんが」と言っています。神の義と救いがいかに大きく、自分はそのほんの一部しか知り得ていないということを覚え、主への感謝と畏れをもって、詩人はそのように告白しているのです。神の義と救い…それは、神が正しい方であり、主権をもってご自身のみこころにかなう者を悪しき者から守り、助け出し、そのことを通してご自身の栄光を現されるということです。詩人は、悪者の言動に心が揺り動かされつつも、その神の義が地の上に貫かれ、救いがなされ、正しい者たちが決して恥を見ることがないことを信じて、「ただあなたの義だけを心に留めて」(16節)と言って、主にある希望を抱き続けようとしているのです。「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」。パウロもそのように言っています(1コリ8:2)。偉大な神の義と救い…それは人間の考えをはるかに越えたものであって、私たちは、ただその神のみわざの現れを待ち望むべきなのです。人にとっては奇跡(7節)と思われる主のそのみわざは、神にとっては必然のこと、御旨にかなったことなのです。そのことを覚え、主を賛美したいと思います。

神の義と救いを証しする者とされますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 9章37-50節◇(2月3日)

「…あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」…ルカ9:48

弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がりました。誰がそれを言い出したのか、また、どのような基準によってそれを決めようとしていたのかは不明です。どれだけ多くの癒やしや悪霊追い出しのわざをなすことができたのか…(6,40節)、主が山に登ったときに連れていってもらったか…(28節)、主の質問に正しく答えることができたか…(20節)など、彼らはさまざまなことを挙げつつ、熱心に議論していたに違いありません。そのように弟子たちは、自分が認められたいという承認欲求、他者よりも抜きん出たいという競争心を持っていたのです。もうすぐ人々の手に渡されるようになる…と、主がご自身の苦難を予告されたにもかかわらず(44節)、弟子たちはそのような議論で白熱していたのです。主イエスはそんな彼らの心を見抜いておられました。しかし、彼らを非難したり叱責したりせず、一人の子どもの手を取って脇に立たせました。そして、このような子どもを受け入れる者、すなわちその小さく弱い存在を認め、また、子どものような純真な心を持つ者こそ、わたしを受け入れ、わたしを遣わされた父を受け入れる者だ…。そして、自分はこの子のように一番小さい者だとへりくだり、自分は人より偉いなどと主張しない者こそ一番偉いのだ…と、主は弟子たちに告げられたのです。私たちはしばしば、あの人のようにはできない…と落ち込んだり、あの人は何もやっていない…と他者をさばいたりしてしまいます。しかし、自分と他者を比較するそのあり方は、主に喜ばれるものではないのです。主は、「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのであり(23節)、その負うべき十字架、主に従う道は、それぞれに備えられているのです。「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねたペテロに対し、主は、「あなたに何の関わりがありますか、あなたは、わたしに従いなさい」と言われました(ヨハ21:22)。脇目もふらずに主にだけ目を留め、従って行きたいと思います。

絶えずへりくだって歩むことができますように。

◇聖書箇所: ルカの福音書 9章1-17節◇(2月1日)

「すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」」…ルカ9:13

主イエスは、弟子たちにご自身の権威と力を授けられ、神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために、彼らを人々のところに遣わされました。すると12人の弟子たちは、村々を巡り、その権威と力を用いて成果をあげました。彼らが帰って来てそのことを報告した後、主イエスは彼らを連れてベツサイダに退きましたが、追ってきた群衆のために、宣教と癒やしの働きを日が暮れるまで行い続けたのです。すると、見かねた弟子たちは、群衆を解散させ、めいめいが里に行って食べ物を確保するよう促すべきだと、主に進言しました。ところが主は彼らに対し、あなたがたが食べ物をあげなさい、と命じられたのです。弟子たちは当惑し、また反発しました。群衆の数は男性だけで約5千人もいるのに、手元にあるのはたった5つのパンと2匹の魚だけ…一体どうやって全員に食べ物をあげるのか…そのために自分たちが里まで行って、食べ物を大量に買って持って来なければならないのか…と。そんな彼らの思いを知っておられた主イエスは、そのわずかな手元の食べ物を取り、神に感謝と賛美をささげてそれを裂き、弟子たちに渡して人々に分配させました。すると全員が食べて満腹し、必要は満たされたのです。「小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり…」(ルカ16:10)。それは、小さなことを軽視するな…とという意味だけではありません。主イエスから権威と力を授けられた弟子たちは、村々を巡って成果をあげましたが、何千人もの人々の空腹を満たすという大きなチャレンジに対しては、その重圧に押しつぶされるかのように、自らの信仰を働かせることができませんでした。しかし主は、事の大小にかかわらず信仰をもってそれを行うこと、そしてご自身の命令に忠実に従うことを求めておられるのです。そのような者でありたいと思います。

どんなときにも主に信頼することができますように。