◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 13章18-25節◇(5月31日)

「(神が)あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」…ヘブル13:21

さまざまなことを書き記してきたこの手紙の著者は、「私たちのために祈ってください」とへりくだり、「何事についても正しく行動したいと思っているから」と語り、その願いが神に聞かれるようにとりなして欲しいと、祈りを読者に要請しています(18節)。そこで「正しく」と訳されている原語は、「立派に、称賛されるように」という意味を持つことばであり、道徳的な正しさというよりはむしろ、神の御前に正しく、みこころにかなうように行動する者とされたいと、著者は願っていたのです。20-21節は著者の祈りのことばです。そこにも、主のみこころがなされることを切望する思いが表れています。著者はまず、読者のことを思い、神に願い求めています。神が、ご自身のみこころをあなたがに行わせてくださいますように、そのために良いものをもって整えてくださいますように、ご自身の血による贖いを成し遂げ、永遠の契約をもたらされた御子を死からよみがえらせた神が、そのことをなしてくださいますように…と。さらに著者は、「私たちのうちに」と、すべての聖徒たちを代表するようにして同じように祈っています。神が御前でみこころにかなうことを、私たちのうちに行ってくださいますように、弱い羊である私たちにとっての偉大な牧者であるイエス・キリストを通して、そのことをなしてくださいますように。ただ神のみこころがなされ、キリストの御名があがめられ、すべての栄光と誉れが世々限りなくキリストにありますように…と。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタ6:10)。みこころを私のうちに、すべての人のうちに、この地の上になしてください…と、日々主に祈り求める者でありたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 13章1-17節◇(5月30日)

「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」…ヘブル13:13

ヘブル書の最後の章になりました。「さらにすぐれた」ものを追い求めるようにと読者に訴えてきた著者は、ここでも別な側面から、異なることばを用いて、そのことをあらためて強調しています。特に11-13節にある「宿営の外」、「門の外」ということばに心が留まります。その「宿営」とは、荒野を旅したイスラエルの民が、幕屋を中心としてその四方に設営した移動式の住居です。11節にあるとおり、動物のいけにえの血は祭壇に注がれ、脂肪は祭壇の上で焼かれましたが、その肉と皮と汚物は幕屋の中に持ち込まずに、宿営から離れた外の場所で焼くよう、神によって定められていたのです(出29:14)。しかし、人類の罪を取り除くためのいけにえとなられたイエス・キリストの血は、神殿の中ではなく「門の外」、エルサレム郊外のゴルゴタの丘に立てられた十字架の上で流されました。その十字架がまさに「祭壇」となったのです。そして、ヘブル書の著者は、私たちも「宿営の外に出て」主のみもとに行くよう促しているのです。ではそれは、何を意味するのでしょうか…。この手紙はユダヤ人キリスト者に宛てられていましたが、彼らが、食物の規定などの律法によらず、ただキリストへの信仰によって生きるということです。また、すべての聖徒たちが、宿営の中、すなわちこの地上に安住して世的な生き方に染まってしまうことなく、迫害を恐れずにキリストに従い、試みや苦しみの先にある、来たるべき新しい都、天の御国を目指して歩むということなのです。その旅路は、決して孤独な行程ではありません。主は、「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを捨てない」(5節)と言われたのです。主が同伴者、ガイドとなって、その荒野の旅を最終目的地まで導いてくださるのです。地上のものに希望を置かず、宿営の外に出て、変わることのない主(8節)に信頼して歩み続けたいと思います。

絶えず主に感謝と賛美をささげることができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 12章1-13節◇(5月28日)

「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」…ヘブル12:11

「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない…」。5-6節のことばは箴言3章11-12節からの引用です。その箴言では「主の懲らしめを拒むな」と訳されており、新改訳第3版ではヘブル書のほうも、「主の懲らしめ」と訳されています。その「訓練」と訳されている原語は「教育」や「しつけ」等の意味を持つことばで、7節で「訓練」と訳されていることばと同じものです。ですから「懲らしめ」とも訳されてはいますが、それは「懲罰」ではありません。神は、ご自身の御旨に従い切れない聖徒たちを憤り、「制裁」を加えているわけではないのです。スポーツにしても技能にしても、上達するための練習や訓練は楽ではありません。「喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われる」とあるとおりです。しかしそれは、私たちが目指すゴールに到達するために必要なもの、そこに至る過程であって、その訓練は不可欠なのです。私たちが訓練を受ける理由、それは、神が私たちをご自身の聖さにあずからせるためです(10節)。訓練が私たちには喜ばしく思えなくても、それは私たちにとって善いものなのです。それによって私たちは、主の御旨にかなう者へと造り変えられ、主の働きに間に合う者として整えられるのです。そしてそのように鍛錬された人々は、義という平安の実を結ぶことができるのです。すなわち、神に用いられる者とされていることへの感謝と喜びが内に湧き上がり、心に平安がもたらされるのです。「訓練として耐え忍びなさい」(7節)。2節のみことば、「信仰の創始者であり完成者であるイエス…」がしばしば引用されますが、主は、ご自身の信仰を易々と完成されたわけではなく、苦難のしもべとして父なる神からの訓練を耐え忍ばれたのです(3節)。そのイエスから決して目を離すことなく、主に倣い、自分の十字架を負ってその足跡に従う者でありたいと思います。

忍耐をもって進み続けることができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 11章32-40節◇(5月27日)

「神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」…ヘブル11:40

ヘブル書の特徴の一つは、「もっと(より)すぐれた」という表現が多く出てくるということです。8章6節には、「しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです」とあり、また11章16節には、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていた」(新改訳第3版)と書かれています。今日の箇所の35節にも「もっとすぐれたよみがえりを得るために」とありますが、それは、旧約時代にエリヤやエリシャが生き返らせた者たち、そして主イエスが生き返らせたラザロを念頭に置いてのことばです。彼らは確かに生き返りましたが、それはあくまでこの地上でのいのちのことであって、それらの者たちもやがては死を迎えたのです。そして「もっとすぐれたよみがえり」、すなわちメシアがもたらされる救いにあずかり、死んでもよみがえらされ、永遠のいのちにあずかるという希望を抱いていた者たちは、さまざまな厳しい迫害を受ける中にあっても、信仰を守り通したのです。「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした」(39節)。それは、約束された永遠のいのちを、「この地上では」得なかったということであり、同時に、「そのときにはまだ」得なかったという意味でもあります。神の救いは、旧約の聖徒たちだけでなく、ユダヤ民族だけでなく、すべての時代のすべての国民が受け取るべきものであり、だからこそ、御国の福音は地の果てにまで宣べ伝えられなければならないのです(マタ24:14)。イスラエルから異邦人…古い契約から新しい契約…約束からその成就…と、神の救いは今も拡大、前進しているのです。私たちもまた、救いの完成の途上にあることを覚え、信仰をもってその完成を待ち望みたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 11章17-31節◇(5月26日)

「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」…ヘブル11:19

アブラハムは主の命令に従い、ひとり息子の息子イサクをモリヤの山の上で全焼のいけにえとしてほふり、主にささげようとしました。彼は、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」という主の約束が、それにより反故にされるとは考えませんでした。どのようにしてかはわからなくても、その神のことばは必ず実現すると、彼は信じて疑わなかったのです(創22章)。ヘブル書の著者は、アブラハムは「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と考えた、と言っています。著者はさらに、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、…と、「信仰によって」ということばを繰り返し用いてその歩みについて述べ、彼らの持っていた信仰に言及しています。それは、彼らが私たちとは違う存在だったというのではありません。彼らも私たちと同じように、恐れや疑いを抱いたのです。しかし彼らは、目の前の現実に心奪われることなく、その先にあるものを見て、そこから目を離さず、神に信頼してそこを目指して進んだのです。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と、11章の最初に信仰の定義、あるいは信仰がもたらす祝福が語られています。望み得ないと思われるときになお望み、目に見えないものを見えるもののように見て歩む…それが信仰であって、それは、幼子が、「おいで」という親の招きに応答し、一心不乱にそのふところに飛び込んで行く、そのような、私たちを愛しておられる神に対する、全き信頼なのです。信仰は、私たちが歯を食いしばって苦難に耐え、がんばって「獲得する」ものではありません。むしろ、私たちが自分の信仰のなさを素直に認める中で、恵みとあわれみに満ちた神が、賜物として私たちに与えてくださるものなのです(1コリ12:9,エペ2:8)。そして主イエスは、私たちのために今も天でとりなしておられるのです(ルカ22:32)。真実な神に信頼して歩み続けたいと思います。

主の支えと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 10章32-39節◇(5月24日)

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」…ヘブル10:36

「苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい」と、著者は命じています(32節)。「嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされた…」(33節)、「牢につながれている人々と苦しみをともにし…」(34節)とあるように、その戦いは、真理の光、いのちの光に照らされ、キリストを信じるようになったその信仰を奪おうとする迫害者、またその背後にいる悪魔との戦いです。初めはその戦いに耐えていても、それが長引くと、もう限界だ…と、信仰から離れる者たちが当時いたのです。一方、「いつまでも残る財産」、すなわち永遠のいのちが自分たちに与えられていると確信し、苦難の中にあっても、喜びと希望をもって耐え忍んだ者がいました(34節)。彼らは、この地上の財産、また肉体のいのちは永遠に続かないことを知っており、天にあるいつまでも続くものを追い求めたのです。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(2コリ4:18)とパウロが言う信仰を、持ち続けていたのです。さらに著者は、報いをもたらすその確信を投げ捨ててはならないと言って、読者を励まします(35節)。そして、約束のものを得るためには忍耐が必要だと訴えるのです。信仰者にとっての忍耐とは、単にじっとがまんすることではありません。神の約束を思い起こし認識し直すこと、神のみこころを行なうべくみことばに聞き従うこと、そして何よりも、神を待ち望んで祈り求めること、そのような積極的なあり方が、聖徒たちに求められるのです。37-38節はハバクク書2章3-4節の引用です。「来たるべき方」とは神が約束されたメシアであり、その方は、2千年前に来られ、終わりの日に再び来られます。しかし、そのキリストがもたらされた神の国は、すでに私たちのただ中にあり(ルカ17:21)、私たちはその豊かな祝福を、今受け取ることができるのです。確信と忍耐と感謝のうちに、約束のもの、永遠に続くものを追い求めたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 10章19-31節◇(5月23日)

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」…ヘブル10:25

「こういうわけで」と、それまで述べてきた、大祭司キリストご自身の血による、ただ一度の、完全で、永遠に有効な贖いを根拠として、私たちは大胆に聖所に入ることができる、と著者は告げています(19節)。その聖所とは、幕屋や神殿で言えば、隔ての幕の奥にある至聖所のことであり、旧約の時代には安易に近づくことができなかった、神のみもと、すなわち主の御顔を拝することができるところです。十字架でキリストの肉体が裂かれることにより贖いが成し遂げられ、人と神との隔てが取り除かれ、、その象徴として至聖所の前の幕も裂けましたが、私たちはいつでもキリストを通して大胆に「聖所」に入り、主と親密な交わりを持つことができるのです。そのようにして主は、贖われた聖徒たちのために、新しい生ける道を開いてくださいました(20節)。それは、古い契約に生きる民のように、動物のいけにえによる日ごとの祭司のとりなしを必要とし、罪と律法に縛られて自由と平安がない生き方ではなく、救われた感謝と喜びに満ちあふれ、平安と希望をもって歩む生き方なのです。さらに著者は、そのようにキリストによる新しい契約に生きる者たちに、「…ではありませんか」と繰り返し、聖徒にふさわしく歩むよう強く促しています(22-25節)。「全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」(22節)、「動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」(23節)、「愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか」(24節)、「集まりをやめたりせず…ますます励もうではありませんか」(25節)。終わりの日が近いからこそ、神のことばに従って愛と善行に生きるよう、神の家族が励まし合うことが大切なのです。主はご自身のみからだである教会を通してみわざをなされるからです。そのことを覚えたいと思います。

主との親しい交わりを持つことができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 10章1-18節◇(5月22日)

「そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」…ヘブル10:7

「律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません…」と著者は言っています。そして、人々は礼拝するたびに自らの罪を意識させられたのだ…と(1-3節)。律法に従って献げられる動物のいけにえによる、旧約時代の礼拝においては、そのようなことが確かに起こったのです。自らの罪を覚えるという意味では、旧約時代もキリスト来臨後の新約の時代も同じです。ただし、旧約の礼拝では、その罪の赦しと救いが、動物の血を必要とする大祭司のとりなしによってもたらされたのに対し、新約の礼拝においては、大祭司キリストご自身の血に基づく贖いによってもたらされるのであって、聖徒たちは、そのことを覚え、感謝と喜びに満ちてキリストをあがめるのです。それが、私たちがささげる礼拝の意義なのです。5-9節では詩篇40篇6-8節が引用されていますが、著者はそれをキリストのことばとして提示しています。神はいけにえやささげ物を喜ばれない…私は神のみこころを行なうためにこの地上に来たのだ…と。みこころを行うことにより神は喜ばれるのであり、主イエスはご自身を傷のないいけにえとして献げられ、そのみこころを成し遂げられたのです。そのただ一度だけの贖いによって、民の罪と不法が赦されることとなったのです(17-18節)。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである」(ホセ6:6)。主が喜ばれるのは、形式的な礼拝、ささげ物ではなく、神を知ること、求めること、主を愛してそのみこころを行うことなのです。そしてそのみこころは律法、つまりみことばによって示され、新約の時代においては御霊が聖徒たちの心に書き記しておられるのです(16節)。ますますその主のみこころを行う者、キリストの教えに聞き従う者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 9章15-28節◇(5月21日)

「それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。」…ヘブル9:25

今日の箇所において著者は、祭司がささげるいけにえの血について語っています。と同時に、すでに語られて来たことですが、アロン系の大祭司が毎年欠かさず贖罪日に至聖所に入り、全イスラエルの罪のための贖いを必要としたのに対し、大祭司キリストの贖いは、ただ一度だけの、永遠に有効な、全人類の罪のための贖いであるということが強調されています(15,25,26節)。その贖いのために流される血として、アロン系の大祭司は、子牛と雄やぎの血を、至聖所に置かれている契約の箱の「贖いのふた」に注ぎかけましたが(レビ16章)、それに対して大祭司キリストは、神の被造物である動物の血ではなく、傷のない、すなわち罪も汚れもない、ご自身の血をたずさえて、十字架の死と復活を通して天にあるまことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げてくださったのです(11-12節)。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(22節)。レビ記17章11節には「実に、肉のいのちは血の中にある。…いのちとして宥めを行うのは血である」とあります。そのように「血を流す」、すなわち、犠牲のいのちが献げられることなしには、罪深い民に対する神の怒りが収まることはなかったのです。しかし、動物の血による贖いは不完全であり限定的であり、そのことがなされる聖所は、「天にあるものの写し」(23節)、「本物の模型にすぎない、人の手で造られた」(24節)ものでした。その贖いを完全なもの、永遠に続くものとするために、キリストはご自身の尊い血を流されたのです。そしてその血は、私たちの良心をきよめ、神のみこころではないものから離れさせ、生ける神に仕える者とするのです(14節)。それは私たちの救いの完成の日まで(28節)、御霊によりなされる主のみわざなのです。キリストの血による贖いの恵みを覚えたいと思います。

主のみこころに従うことができますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 9章1-14節◇(5月20日)

「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。」…ヘブル9:14

大祭司としてのキリストがアロンの家系の大祭司よりもすぐれていることを提示してきた著者は、9章の前半で、大祭司が幕屋において実際に行う務めについて言及しています。1節の「礼拝の規定」とは、罪を持った人間がどのようにして聖なる神を礼拝し、何をすれば神に受け入れられて罪が赦されるのかについて、神ご自身が定められ、モーセを通して民に示された決まりのことです。また「地上の聖所」とは、エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野において神を礼拝する場所としていた幕屋のことです。それもまた神ご自身が設計され、その建築の材料や手順を事細かに指示され、民のカナン定住後には、基本的に同じ構造を持つ神殿となったのです。幕屋は聖所と呼ばれる第一の幕屋と、至聖所と呼ばれる第二の幕屋とに分かれており、聖所の奥の「第二の垂れ幕」のさらに後ろに、至聖所が位置していました。祭司たちは日常的に聖所に入って礼拝を行いましたが、至聖所には祭司でも入ることができず、年に一度の「贖罪の日」に、大祭司だけがそこに入ることができたのです。そしてその垂れ幕は、人が神の前に自由に近づくことができず、「隔てられていた」ことを意味しているのです。しかし、真の大祭司なるキリストが、いけにえの動物の血によってではなく、ご自身のきよい血潮によって聖所に入り、神への全きささげ物としてご自分のいのちを差し出されたゆえに、全人類の罪の贖いが成し遂げられ、神と人とを隔てていた神殿の幕は、主イエスが十字架上で息を引き取られた瞬間に、上から下まで真っ二つに裂けたのです(マタ27:51)。「隔ての幕」は取り去られ、罪ある私たちは、キリストを通して、神に大胆に近づくことが可能となったのです。そのように、主イエスの血によって贖われたことを覚え、ますます感謝と喜びをもって、生ける神に日々仕える者でありたいと思います。

主の御名があがめられますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 8章◇(5月19日)

「しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。」…ヘブル8:6

キリストが大祭司であられ、アロンの家系から出る祭司よりもすぐれているということを、著者は7章までで提示してきましたが、さらに8章以降において、キリストによってもたらされた新しい契約と、モーセの時代の古い契約とを比較しています。6節では「よりすぐれた」ということばが繰り返されていますが、その新しい契約が優位であることを、読者に対して強調しているのです。初めの契約、古い契約とは、「エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ」とあるように(9節)、神がモーセを通して民に与えられた律法に基づく契約であり、民がその律法を守り通せなかったという意味で、その契約には欠けがあると神は言われました(7節)。契約自体は全きものでしたが、民の側に欠けがあったのです(8節)。そもそも契約とは、本来は契約を取り交わす双方の当事者により成立させるべきものですが、それが公正かつ確実になされるよう、仲介者が立てられ、間に入ってとりもつことが求められます。さらに、当事者の一方に問題があり、その契約を有効に保ち続けられない場合には、仲介者はその問題の解決方法を模索するのです。そのように、仲介者なるキリストは、人間が罪のゆえに不完全であり、神との契約を保ち続けられなかったため、代理者となり、ご自身の血による新しい契約を成立させ、人間が再びその当事者となるようにしてくださったのです。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」(10節)。その新しい契約では、律法、すなわち主の教えが人々の心に刻まれるのです。そして、御霊がくださる知恵と啓示により、霊において主を知るようになるのです。そしてそれは、イスラエルのみならず、すべての国民に開かれている神の恵みなのです。私たちもまた、キリストがもたらされた新しい契約により、神の民とされたことを感謝したいと思います。

主の祝福がありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 6章13-20節◇(5月16日)

「そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。」…ヘブル6:17

「約束」、「誓い」ということばが繰り返されています。誓いとは、自分が言ったことばのとおりに必ず実行すると、人が権威ある者の前で約束することです。しかし、人の心は不変ではないため、その誓いが果たされることなく、ことばだけで終わってしまうことがあるのです。しかし、もちろん神はそうではありません。神の誓いとは、ご自身が約束されたことの保証となるものであって、神は、疑い深い人間が希望と忍耐をもって、ご自身の約束を待ち望み続けることができるようにするために、アブラハムに対して、「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と、ご自身にかけて誓ってくださったのです(14節、創22:17の引用)。誓いはすべての論争を終わらせる保証となる、と著者は言っています(16節)。神ご自身の約束であるにもかかわらず、不信仰な私たちは、本当にそうなるのか、それは信頼できるものなのか…と、互いの間で、また自分の中で、疑いの心をもって「論争」をしてしまいますが、神の誓いという確かな保証は、それをやめさせるのです。「それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません」(18節)。神は、人間とは異なり、ご自身を偽ることのできないお方であって、約束を反故にすることなどあり得ないのです。その神は、私たちを罪の奴隷から解放するために、救い主を与えると預言者を通して約束され、そのとおり、御子を惜しまずにささげてくださった真実なお方なのです。神のことばは、神が神であるゆえに偽りないものですが、神は、約束と誓いという不変の二つのものにより、それを確かなものとして保証してくださったのです。聖書に書かれているその神の約束、みことばに、ますます拠り頼む者、聞き従う者でありたいと思います。

主からの励ましがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 6章1-12節◇(5月15日)

「私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。」…ヘブル6:11-12

「ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか」とありますが(1節)、それは5章12節の「あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています」ということばを受けてのものです。ユダヤ人キリスト者の読者の中には、ユダヤ教の信仰に後戻りしてしまい、キリストの教えよりも、目に映るさまざまな儀式やそこで使われる器具に心が引かれてしまう、「幼子」たちがいたのです。そのような者たちのことを、著者は「堕落」ということばにより厳しく非難しています(6節)。キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちを神から受け、聖霊に満たされ、みことばに伴うしるし、神の国の祝福の前味をすでに味わっているにもかかわらず、来た道を後戻りしようとするなら、それは天から堕ちるようなことであり、そのような彼らは、キリストをもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちなのだと言い切っているのです。さらに著者は、神から与えられている希望をすべての聖徒たちが確信し、信仰と忍耐をもって約束のものを相続することを願い、そのように促しています。そこにはもちろん、信仰と忍耐が求められます。しかしながらその希望が、真実である神から与えられたものであるゆえに、怠惰になったり、失望したりせず、神に信頼を置いて、勤勉で忠実な者として、前進することができるのです。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」。パウロもこう言っています(2コリ4:18)。弱い私たちは、肉の目に映るものについとらわれてしまいますが、霊の目がさらに開かれて、見るべきものにしっかりと目を留めつつ、前に進み続ける者とされたいと思います。

主の確かな導きがありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 5章◇(5月14日)

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」…ヘブル5:8-10

「大祭司」についてはすでに2-4章において言及されていましたが、著者は5章でさらに、モーセの時代のアロン、アブラハムの時代のメルキゼデクについても触れつつ、イエスが偉大な大祭司であることを強調しています。大祭司の役割…それは、1節にあるとおり、神に従おうとしない民に対する神の怒りをなだめ、羊などのいけにえをささげて、その罪の赦しのためにとりなすことでした。そして、レビ族の中から立てられるその大祭司も罪を持つゆえに、まず自分の罪のためにささげ物を献げ、きよい者として神に受け入れられ、そのことを経てから、大祭司としての努めを果たす必要があったのです。また大祭司は、自ら志願したり、人から推薦されたりして立つのではなく、神から召しを受けて栄誉を与えられ、その尊い職に就き、神と人とに仕える者となるのです。ヘブル書の著者は、同様にキリストも大祭司として神から召命と栄誉を受け、様々な苦しみを受けても従順であり続けて全き者とされ、ご自身に従う人々にとっての永遠の救いの源となられたのだと記しています。その大祭司なるキリストは、罪のないお方であって、自らのために贖罪のいけにえをささげる必要はありませんでした。むしろキリストは、ご自身を完全ないけにえとして神にささげられ、そのいのちを代価として人類を罪の奴隷から贖い、救いをもたらされたのであって、イエス・キリストこそが、完全かつ永遠の大祭司なのです。そのキリストは、今も神の右の座に着き、私たち聖徒たちのためにとりなし続けておられます。私たちが悪しき者の誘惑から守られるよう、信仰を失わないよう、弱い私たちを支えてくださっているのです。そのことに感謝しつつ、私たちも神に従順であり続けたいと思います。

神と人とに忠実に仕える者とされますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 4章◇(5月13日)

「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」…ヘブル4:16

4章で鍵となっていることばは「安息」です。すでに3章の18-19節において、モーセに率いられてエジプトを脱出した後、荒野を40年間さまよったイスラエルの民のうち、不信仰でなかった者しかカナンの地に入れなかったそのことが、「安息に入れなかった」と表現されています。ここでの「安息」とはそのように、信仰をもって神が約束されている領域に進み、祝福を受け取ることなのです。詩篇95篇7-11節のみことばは、すでに3章7-11で引用されていますが、4章においても繰り返し語られており、著者は、心を頑なにして柔らかい心で神に従おうとしないなら、信仰に立って歩もうとしないなら、「安息に入れない」ことを強調しています(3,5,7節)。そして、荒野で不平を漏らしたその者たちを反面教師として、安息に入るよう努めようではないか…と読者に奨めているのです。そのようにして「努める」ことは大切です。しかしそれは、私たちが自らの力に頼って努力すること、「頑張る」ことではありません。著者は14節で、私たちのために偉大な大祭司としてとりなし続けておられるキリストに目を向けるよう促し、さらに15節では、そのキリストは私たちの弱さに同情できない方ではない、なぜなら、すべての点で、私たちと同じように試みにあわれたからだ、と語っているのです。私たちの弱さ…それは、試練、苦難の中に置かれると、神に信頼し、信仰に立って進み続けるのを、やめてしまおうとすることです。神に祈り求めず、人間的なものに頼ろうとしてしまうことです。しかし著者は、その弱さももちろんキリストは知っておられるのだから、その主の恵みとあわれみをいただいて、助けを受けるために、「大胆に」、なりふり構わずに、恵みの御座に飛び込んでいくようにして、主に近づこう、主を求めよう、ただ主に期待しよう…と、聖徒たちを励ましているのです。そのことを私たちもしっかりと受け止めたいと思います。

揺るがない信仰が与えられますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 3章◇(5月12日)

「しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」…ヘブル3:6

3章において鍵となっている一つのことばは「神の家」です。「モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に…」と(2節)、イスラエルの民をエジプトから約束の地へと導いた、偉大な指導者モーセについて、著者はまず言及しています。この場合の神の家とは、神の民、イスラエル民族であり、神は、モーセを通して、彼らを奴隷から解放し、エジプトを脱出させ、カナンの地を領土として彼らに与え、ご自身の祝福にあずからせたのです。続いて筆者は、それにまさる者としてイエス・キリストを指し示しています。モーセは、神の家の中の一人として、神の家が建て上げられるために忠実に仕えましたが、神の御子であるキリストは、油注がれた王として、イスラエルだけでなく全人類を神の家として建て上げ、神のみこころがなされるべく、忠実に治められるのです。「神の家」とは、神が所有者である家ということです。また神ご自身が建てられ、支えられるということです。そして神は、そこをご自身の住まいとされ、栄光と御力をそこに豊かに現わしてくださるのです。しかしもし私たちが、そこを「自分の家」にすべく、自らの力でそれを建てて守ろうとするならどうでしょう。その家はキリストという岩の上に建てられていないので、強風が吹き、洪水が押し寄せると、倒れてしまうのです(マタ7:27)。私たちは神の家とされました。しかしそれだからもう安心…というわけではないのです。「もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすえば、そうなのです」とあるとおりです。キリストは神の家を建て上げ忠実に治められますが、一方でサタンは、私たちからその確信と希望と誇りを奪おうとするのです。40年間荒野をさまよったイスラエルの民も、不信仰に陥り、約束の地に入ったのはわずかな信仰の勇者だけでした。そのことを覚え、忍耐と信頼をもってキリストに従い続けたいと思います。

恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: ヘブル人への手紙 1章◇(5月10日)

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」…ヘブル1:3

ヘブル人への「手紙」とありますが、最初に挨拶もなく、誰がどこに宛てて書いたものかも明らかではありません。手紙というよりむしろ説教のようだとも言われるこの書簡は、ヘレニズム(ギリシャの文化)に染まった社会に生きるキリスト者たち、特に、多数のユダヤ人信徒がいた教会に宛てたものだと考えられています。また、読者が旧約聖書の知識を持っていることを想定しており、多くの聖句を引用していることが一つの特徴となっています。当時、キリスト教もヘレニズムの影響を受けていましたが、神の被造物である御使いを神と同じ存在と誤解し、御使いを礼拝する者がいました。さらに彼らは、キリストを御使いと同列に扱っていたのです。ヘブル書の著者は、手紙の冒頭から多くの聖句を引用して、その考えがいかに間違ったものであるかを強調しています。冒頭からキリストがどのような方かが示されています(2-3節)。神の御子であるキリストは、世界の創造のみわざをなされ、神の本質の完全な現れとして、そのことばと行いにおいて神を啓示され、世の罪人をその尊い血潮により贖い、力あることばによって万物を統べ治め、いと高き所で神の右の座に着いてとりなしておられるのです。その油注がれた預言者、祭司、王であられるキリストが、神に仕える存在である天使と同じはずがないのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)。現代でも、キリストだけが救い主とするのは排他的だと非難し、寛大さと協調性を要求する声があります。しかしそれは人間から出た考えであって、その背後には、キリストを引きずり降ろそうとするサタンが働いているのです。キリストだけが「主」となっているかどうか、心の王座におられるか、日々、自分自身を吟味したいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 76篇◇(5月9日)

「神が さばきのために地のすべての貧しい者たちを救うために立ち上がられたそのときに。」…詩篇76:9

1-7節には、敵を打ち砕かれるヤコブの神の輝かしさや威厳、その御名の偉大さが示されています。敵の放つ火矢、彼らが持つ盾と剣、頼みとする戦車や馬…それらはみな、神が怒りをもって倒されるので、どんな勇士にも手の施しようがないのです。だれも神の御前に立てないのです。ではその敵とはだれなのでしょうか…。詩人は、イスラエルやユダにとって大きな脅威となった、アッシリアやバビロンのような国を想起していたのかもしれません。また、7節のことばからは、そのような歴史上の者たちだけでなく、終末において滅ぼされるべきサタンのことが、預言的な意図をもって語られている、とも考えられます。9節には「地のすべての貧しい者たちを救うために」とあります。ヤコブの神が、ご自身の民だけでなく、すべての国民を救ってくださる方であることが示されています。主イエスは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と言われましたが(マタ5:3)、「貧しい者」とは心の貧しい者、すなわち、自分の罪深さ、足りなさを認め、神のあわれみを求めて生きる、敬虔な人のことです。そしてそのような者は、終わりの日に神のさばきの座に立たされても、滅びに定められることはなく、救いにあずかることができるのです。天の御国において主とともに永遠に生きる者とされるのです。経済的な貧しさの中で神を非難する人がいます。逆に、富んでいても神を畏れる謙遜な人がいます。持てる富の多い少ないにかかわらず、自分がいかに貧しく、欠けだらけ、足りないだらけの者であるかを主の前に認めて、ひたすら神に拠り頼んで生きる者こそ、幸いなのです。「主は貧しい者を正義に歩ませ 貧しい者にご自身の道をお教えになります」(詩25:9)。悪と不正がはびこるこの世にあって、主の再臨、御国の完成を待ち望みつつ、公義を行なう者、主の道をまっすぐに歩む者でありたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: 詩篇 75篇◇(5月8日)

「まことに 神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる。」…詩篇75:7

神への感謝のことばで始まるこの詩篇の1節の最後には、「あなたの奇しいみわざが 語り告げられています」とありますが、続く2-5節では、神がなさるそのみわざが、主ご自身のことばとして語られています。神は、定めの時を決めてこの世を公正にさばかれるのであり、「地の柱を立てる」とはその別な表現です。地に悪と暴虐が満ち、正しい者の心が揺らいでしまうようになっても、神はそのようにしてご自身の義を打ち立てられ、主に信頼して従う者が倒れないようにしてくださるのです。また神は、「おまえたちの角を高く上げるな。横柄な態度で語るな」と、自らを誇る悪者どもに対して告げています。角は力や権威の象徴です。彼らは、神を畏れることなく、自分たちの力に拠り頼み、権威をまとい、傲り高ぶって横柄な態度を取り、また語る者たちなのです。しかし、そんな者たちがのさばるのを、神が放置されることはありません。7節にあるように、角を上げる者、すなわち、自らの力を誇って高ぶる者たちを神は低くされ、逆に、神の前にへりくだり、主に拠り頼む者たちを、神は高く上げられるのです。「杯」(8節)は神の怒りの象徴です。「混ぜ合わされた泡立つぶどう酒」とは、ぶどうだけで作られた純粋なものではなく、甘みを意図的に増したものであり、悪者どもはそれを喜んで飲み干しますが、悪酔いして気分が悪くなり、立てなくなるのです。「私は悪者どもの角を ことごとく切り捨てます。正しい者の角は 高く上げられます」(10節)。詩人はそのように言っていますが、もちろん、詩人自身が切り捨てるわけではなく、義なる神がそのようにしてくださると、信仰をもって告白しているのです。私たちもしばしば、自分の弱さを認め、主に拠り頼むことに抵抗を感じ、自分の力だけで事をなそうとしてしまいますが、神が高ぶる者を低くされ、へりくだる者を高く上げる方であることを、しっかりと心に留めて歩みたいと思います。

主にすべてを明け渡すことができますように。

◇聖書箇所: 詩篇 74篇◇(5月7日)

「神は 昔から私の王この地において 救いのみわざを行う方。あなたは 御力をもって海を打ち破りその水の上の 竜の頭を砕かれました。」…詩篇74:12-13

この詩篇が書かれた年代は不明ですが、「敵」が聖所を荒し、火で焼き払い、シオンの山が汚されているとあることから、バビロンによるエルサレム神殿の破壊のときなのかもしれません。詩人には、神がご自身の民に怒りを燃やし、敵の振る舞いを容認し、何もせずに放置しているように思えました。そして詩人は、そのことに怒りさえ覚え、なぜですか、いつまでですか、と繰り返して問いただし、神の対応を非難しているのです(1-11節)。しかし詩人は、そのように現状を目を向けることをしばしやめ、静まって、神がかつてなされたみわざを思い巡らしています(12-17節)。それは、神が初めに天と地を創造されたときにまで及ぶものであり、その黙想の中で詩人は、創造者であり全能者なる神の、力と義と真実をあらためて教えられたのです。またその神が、「私の王」であることを示され、個人的な関係を取り戻し、「あなた…あなた…」と、繰り返し親しく呼び掛けたのです。その静まりを経て詩人は、なぜ、いつまでと神に問い詰めることをやめました。そして、心に留めてください、忘れないでくださいと、神の好意とあわれみを求めてへりくだり、偉大な神は、虐げられている民に目を留め、敵の手から必ず救い出してくれるはずだと、神に全幅の信頼を寄せて祈り求める者となったのです(18-23節)。私たちも、現状を見て心奪われるなら、詩人と同じように、なぜ、いつまでと、神に不満をぶつけることに終始してしまいます。しかしそこから退き、静まり、主の偉大な創造と救いのみわざを覚えるなら、その神が私の神、私の王であることを認めるなら、私たちもまた、主をあなたと親しく呼び、力と義と真実に満ちたそのお方に、信頼をもって祈り求める者とされるのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩46:10、口語訳)。日々そのようにして歩みたいと思います。

確信と平安が与えられますように。

◇聖書箇所: 詩篇 73篇◇(5月6日)

「しかし 私にとって神のみそばにいることが 幸せです。私は 神である主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます。」…詩篇73:28

神を信じて誠実に歩んでいた詩人でしたが、つまずいて滑りかけるような不安定な歩みとなってしまいました。それは、3-12節に書かれているように、悪しき者たち、すなわち、神を信じない者たちが繁栄し、高慢になり、神を信じる者たちを嘲り、やりたい放題、言いたい放題であるのを見聞きし、そのことをねたみ、かつ、理不尽だと神を非難する思いが湧き上がっていたからです。しかし、あるとき、その状況は一変しました。それは、詩人が「神の聖所に入って彼らの最期を悟った」(17節)からです。聖所とは、文字どおりの神殿を指すのか、それとも、神の臨在の中に身を置いたということなのかは不明です。いずれにしても詩人は、そこでの神との深い交わりの中で教えられたのです。悪者の繁栄はあくまで一時的であって永遠ではないということ、彼らの最期は悲惨なものであるということ、神は真実なお方であり、正しい者が決して恥を見ることはないということを…。「私は愚かで考えもなく あなたの前で 獣のようでした」(22節)。詩人は、自分が獣のように、悪しき者たちがのさばっていることに対して本能的に反応し、感情のおもむくままに神を責めていたことに気づきました。そして、主の前に自らの不信仰を悔い改めたのです。と同時に、主がそんな自分の手をしっかりとつかんで、離れないようにしてくださったことを知ったのです(23節)。そのように、不条理と思えることの中で、神から離れそうになった詩人は、神のみそばにいることの幸いをあらためて覚えてこう告白しました。「見よ あなたから遠く離れている者は滅びます。…しかし 私にとって神のみそばにいることが 幸せです」と(27-28節)。私たちの幸いとは、何よりも神のみそばにいて、主の愛と恵みを受け、御手で守られ、支えられることなのです。私たちも詩人に倣い、そのように告白したいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 26章27-46節◇(5月3日)

「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるとき、わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしが彼らの神、主だからである。」…レビ26:44

26章27-28節には、イスラエルの民がなおも、主に聞き従おうとせず、逆らって歩むなら、主もまた激しい憤りをもって民に逆らい、その罪に対して7倍重く、つまりそれまでののろいよりもはるかにひどく彼らを懲らしめるとあります。「これにもかかわらず」という表現に、数々のわざわいにも懲りない民の罪深さが示唆されています。29節以降にはその具体的なのろいが描写されています。民は飢餓に苦しむあまり、自分の子の肉を食べるというおぞましい行動に走るのです。また、民が慕っていた偶像の高き所は打ち壊され、バラバラになった偶像の上に民の死体が積み上げられるようになるのです。さらに、民は追われて国々の間に散らされ、住んでいた町は廃墟となり、あまりの惨状に敵も?然としてしまうのです。そのような中、生き延びた者たちも、神が彼らを臆病にさせるので、何でもない物音を恐れて慌てて逃げ惑い、折り重なって倒れ、そこで朽ち果ててしまうのです。しかし主は、民を根絶やしにされるのではありません。41-42節には、民がへりくだり、自分たちの咎の償いをする、すなわち真の悔い改めに至るなら、主は、民の父祖であるアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされるとあります。そしてそれは、その契約を主が忘れていたというわけではなく、主が契約を確かにされる、それを破棄せずきちんと実行するという意味なのです。44節は驚くべき主の宣言です。「これにもかかわらず」逆らう民に対して、「それにもかかわらず」、主は彼らを退けず、絶ち滅ぼさず、彼らの父祖たちとの契約のゆえに祝福してくださるのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」(哀3:22-23a,3版)。私たちも、主の恵みとあわれみを受け、キリストの血による契約の中にあることを覚えて感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: レビ記 26章1-26節(5月2日)

「わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。」…レビ26:19

26章には、イスラエルの民に対する、神の祝福とのろいが書かれています。そしてそれは、民が神が定めた掟に従って歩むかどうかという、神が定めた基準によって、どちらがもたらされるかが決められたのです(3節)。4-13節は神の祝福です。地は産物を生じ、木々や穀物は実を結び、敵は倒れ、子孫が増し加えられるのです。それらは、神がアブラハムとの間に結ばれた、祝福の契約(創17:7)の成就にほかなりません。そして、その文脈の最後である13節には、「わたしはあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたを奴隷の身分から救い出すために、エジプトの地から導き出した…」と、25章38節で語られたことが繰り返されているのです。14節以降には、一転して、神が与えるのろいが書かれています。肺病や熱病に冒され、心も病み、野の獣が放たれて子や家畜が奪われ、疫病も起こり、敵の手に落ちて飢餓で苦しむようになるのです。その文脈中の19節には、「わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き」とあります。民が神の掟に聞き従わないのは、自分の力を頼みとし、神は不要だと高慢になっているからなのです。そしてそれは思い上がりであり、神はそのような心を持った者を、御前から退けられるのです。その神は、今も私たちに対して、わたしの教えに聞き従い、わたしの祝福を受ける者となるのか…。それとも自分の力を頼みとし、わたしののろいを受ける者となるのか…と、選択を迫っておられるのです。私たちはキリストにあって罪の奴隷から贖われた者です。束縛から解放され、くびきが砕かれ、自立して歩む者とされています(13節)。しかし、神の所有の民、主のしもべとして、みことばを通して示されている神の御旨に従って歩むこと、主の命令を守り行うことは、神の民にとって当然であり、そこに平安と喜び、祝福といのちがもたらされるのです。そのことをあらためて覚えたいと思います。

主の守りと導きがありますように。

◇聖書箇所: レビ記 25章29-55節◇(5月1日)

「わたしはあなたがたの神、主である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。」…レビ25:38

レビ記25章の後半には、住居の買い戻し、貧しい者への支援、奴隷などの身売りされた者の買い戻しについての規定が書かれています。38節のことばが、その貧しい者に対する教えの文脈の中にあり、「あなたがたの神となるために」と語られていることに心が留まります。主は、「あなたがたにカナンの地を与えるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した…」と言われたのではありません。主が民を奴隷から解放し、荒野の歩みを導いて約束の地に導き入れるのは、単にそこに安住させ、豊かな暮らしをさせるためではないのです。民が自由を享受して好きなように生きるためでもないのです。「あなたがたの神となるために」…。そう言われた主は、<わたしがあなたがたを守り、導き、すべての必要を満たすことを信じなさい…。わたしの主権を認め、わたしのことばに従順に聞き従いなさい…。そうすればわたしは、あなたがたの上にわたしの力と栄光を現わそう…>と、そのようなメッセージを民に伝えられたのです。私たちもかつては罪の奴隷であり、自由を奪われていました。48節以降には、身を売った奴隷も自分で自分自身を買い戻すためができるとありますが、私たちを罪の奴隷から買い戻すことができるのは、十字架にかかり、ご自身のいのちを代価としてくださった、イエス・キリストただお一人なのです。そしてそのようにして贖われた私たちは、霊的なイスラエルの民とされ、神の国の祝福にあずかっているのです。しかし、だからと言って、与えられた自由をはき違えてはならないのです。祝福だけを追い求める者であってはならないのです。私たちは神のしもべ(55節)、キリストのしもべであって(1コリ4:1)、主に忠実に仕え、御旨を行うべく生かされているからです。キリストがわたしの主となっているか、主に聞き従う者となっているか…と、自己吟味したいと思います。

救われた喜びが絶えずありますように。