◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第二 3章◇(1月31日)

「そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。」…2テサ3:12-13
6-15節においてパウロは、テサロニケ教会の中に「怠惰な歩み」をしている者たちがいることを問題視しています。そして、その者たちがパウロが伝えた教えに従おうとせず、怠惰なままでいるなら、彼らを避けるようにと命じています。彼らは、働かずに他人のおせっかいばかり焼いているような者たちでした。怠惰とは一般的に怠けて楽をしようとすることですが、それ以上に、彼らは自らを主に献げて従う霊的な態度を示さず、自分たちの考えでやりたいように自己本位に歩んでいるのであって、そのようなあり方をパウロは批判しているのです。パウロたちがテサロニケにいたときは、誰にも負担をかけないよう、苦労しながら働き、得た収入で生活していました。それは、人々に模範を示し、また、聖徒たちが主の働きに注力できるようにするためだったのです。ではなぜ、聖徒たちの中に怠惰な者が生じてしまっていたのでしょうか…。それはその者が、自分が救われていることで満足してしまっていたからです。また、主が再び来られるということを、どうせまだ先の話しだ…と、切迫感をもって受けとめていなかったからです。花婿を出迎えるのにともしびの油を用意しておかなかった、愚かな娘たちのたとえが思い起こされます(マタ25:1-13)。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(ロマ12:11)。「機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい」(コロ4:5)。パウロは別の手紙でそのようにも言っています。キリストに贖われ、主のしもべとされている私たちは、怠惰であってはならないのです。自分が救われたことで満足すべきではないのです。自己本位ではなく、常にキリスト本位に歩むべきなのです。終わりの日が近いことを覚え、主が求めておられる良い働きを、たゆまず、ますます励んで行うべきなのです。そのようにして、主に喜ばれる者、用いられる者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第二 2章(1月30日)

「しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。」…2テサ2:13

「あなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません」…。パウロは1章3節と同じ表現を用いて、テサロニケの聖徒たちに語っています。それは彼らが迫害や苦難に耐え、偽預言者たちの教えに惑わされずに信仰を堅く保っており、何よりも神が恵みのうちに彼らを保っておられるのだと、パウロが認めていたからです。「神が…あなたがたを初穂として救いに選ばれた…」。「神は…あなたがたを召し…キリストの栄光にあずからせてくださいました」(14節)。そのように、神はテサロニケの聖徒たちを顧みてくださっていると告げた上で、さらにパウロは、それで満足することなく、選ばれたことと召されたことを確かなものとして、学んだ教えをしっかりと守り通すようにと励ましているのです(15節)。初穂…それは最初の実であり、それに続いて多くの収穫がもたらされることを示す「しるし」です。ある人は、家庭や職場の中の「初穂」のキリスト者を通して福音に触れ、救いへと導かれたことでしょう。またある人は、自分が今まさに初穂として、遣わされた所で孤軍奮闘する思いで、同僚や友人や家族が救われるようにと、主に祈り願いつつ歩んでいることでしょう。神は確かに、そのようにして、すでに救われた私たち一人ひとりを用いて、さらに多くの実を結ばせてくださるのです。それは神ご自身のみわざであって、御霊が私たちを通して、人々のうちに働きかけてくださるのです。そして主はそのために、私たちの心を日々強め、あらゆる良いわざとことばとに進ませてくださるのです(17節)。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハ12:24)。私たちもキリストに倣い、ますます自らを主に明け渡し、献げ、主の働きをなす者でありたいと思います。

主の支えと励ましがありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙第二 1章(1月29日)

「それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」…2テサ1:5

イエス・キリストが宣べ伝えた神の国の福音、それは、主イエスを救い主として信じる者が自らの罪を赦され、神に義と認められ、神の子どもとされるという約束です。そして、神の国、すなわち主権者なる主のご支配の中を、さまざまな困難のただ中にあって、主から与えられる平安と希望をもって歩むことができるという約束なのです。その神の国は、キリストによってこの地上にすでにもたらされ、私たちは、その神の国の民とされました。私たちはそこで日々、主によって守られ、養われているのです。しかし、その神の国はいまだ完成していません。それが完成するのは、主が再びやって来られるときです。そのとき、苦難にあえぐ私たちに全き安息が与えられ、私たちを苦しめるサタンは完全に敗北するのです。すでに到来した神の国は、まだ完成に至っていない…。それゆえ、私たちにはさまざまな葛藤が起こり、涙が流され、信仰が揺さぶられます。しかし、たとえそのようなところを通らされても、私たち御国の民には、キリストにある完全な勝利と安息が約束されており、その先に確かに備えられているのです。そのことを覚え、主を見上げ、主に拠り頼む私たちを、主は、日々慰め、励まし、支えてくださいます。それは、御国の民である私たちに与えられている特権であり、受け継ぐべき祝福なのです。「あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています」(4節b)。テサロニケの聖徒たちは、そのようにして歩んでいました。それは彼らが、パウロを通して語られていたとおり、自分たちがたしかに神の国に入れられていること、再臨の主が完全な勝利と安息にあずからせてくださるという約束を、堅く握っていたからです。日々、主との親密な交わりを持つ中で、御霊によってその奥義を啓示され、その確信が与えられていたからです。私たちもそうありたいと思います。

主からの恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙 5章12-28節◇(1月28日)

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」…1テサ5:14

「主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人たち」(12節)とは、教会の中で、みことばに基づいて人々を教え、戒め、導いている群れの監督者のことであり、パウロは、その者たちの尊い働きのゆえに、尊敬を払うようにと命じています。しかし、そのような他者に対する働きは、それらの者たちに任せるものではなく、パウロは、すべての聖徒がなすべきこととしてとらえているのです。「怠惰な者」(3版:気ままな者)とは、聖徒たちの中で、救いを受けたときの感謝と喜びが薄れ、主にある労苦を避けたがるような者であり、「小心な者」とは、恐れと不安にとらわれ、信仰をもって進むことを躊躇している者であり、「弱い者」とは、身体的、精神的に独り立ちして歩めず、誰かの助けを必要とする者のことです。そのような者たちを愛し、積極的に関わり、諭し、励まし、助けるようにしなさいと、パウロは命じているのです。さらに、それらの教えに続き、「すべての人に対して寛容でありなさい」とあります。それは聖徒たちだけに対してのことではありません。「寛容」という日本語の一般的な意味は、心を寛く(広く)して他人を厳しくとがめないということですが、その原語の意味は「猶予する、忍耐する」ということです。パウロは、歩みが主のみこころから外れていると思える人々をも単に受容せよ、と言っているのではなく、あくまでも、みことばが指し示す主の道に歩む者と変えられるように、何よりもその人が救われるように、主イエスのしもべとして、愛と祈りと忍耐をもって関わり続けよ、と促しているのです。続く節でも、悪に対して悪を返さないように、すべての人に対して善を行うよう努めよ、と命じられています。そして14-15節のそのような教えは、主イエスのあり方に倣うことにほかならない、ということに気付かされます。それらを律法的にとらえて人間的に努力するのではなく、御霊の助けと導きによって行う者でありたいと思います。

ますます熱心に主と人々に仕える者とされますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙 5章1-11節◇(1月27日)

「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」…1テサ5:5-6

4章の後半では、主イエスの再臨について語られていましたが、今日の箇所でも、その再臨にどう備えるべきかが書かれています。パウロはまず、聖徒たちは光の子ども、昼の子どもであり、夜の者、闇の者ではないことを強調しています。そして、光の子どもとは、まことの光なるキリストによって贖われた者であり、キリストの御霊が内に住んでくださっており、キリストの真理のことばによって照らされ歩んでいる者たちのことであって、この暗闇の世界の支配者である悪魔の元にはいないのです。そのことを明らかにしたパウロは、「ですから」と続け、目を覚まし、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みのかぶとをかぶって身を慎むようにと促しています(6,8節)。そして「その身を慎む」という部分の直訳は、脚注にあるとおり、「酔わないでいる」ということであって、単に「軽はずみに行動しない」ということではないのです。7節には「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです」とありますが、光の子ども、昼の子どもである聖徒たちは、その立場にふさわしく、常に身を謹むべきなのです。私たちは酔うと自己抑制が効かなくなります。今が良ければいいという刹那的な思いになり、冷静に物事を判断することができなくなり、やがて眠ってしまうのです。ですからパウロが言う「身を慎む」「酔わないでいる」とは、飲酒しないということではなく、どんなときでもしっかりと目を覚ましていよ、周りに何が起こっているのか状況を把握せよ、その中で、光の子ども、昼の子どもとしてどうすべきなのかを主から教えられよ、世の光として闇を主の光で照らせ、ということなのです。また、悪しき者の誘惑にやられないように、胸当て、かぶとといった神の武具をしっかりと身につけ(エペ6:14-17)、霊的な戦いに主にあって勝利する者となれ、ということなのです。キリストに贖われた自分の立場をわきまえて、それにふさわしく、また積極的に歩みたいと思います。

主の油注ぎがありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙 4章◇(1月26日)

「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。」…1テサ4:1

「最後に…」と言ってパウロは、神に喜ばれるために、主のみこころに従ってどう歩むべきなのかを、4章以降でテサロニケの聖徒たちに告げています。それはひとことで言えば「聖なる者となること」(3節)であり、その具体的なことは、それ以降にあるとおり、淫らな行いを避けこと(3節)、自分のからだを聖なる尊いものとして保つこと(4節)、情欲におぼれないこと(5節)、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないこと(6節)です。もしそうしないなら、聖霊を与えられる神を拒むことになり、聖霊がその人から離れてしまうことが暗示されているのです(8節)。聖書には、「…してはならない」、「…を避けなさい」と、私たちに命じる多くのみことばが書かれています。しかしそれを、神から罰せられないようにするためと、消極的な意味だけでとらえるべきではありません。主のみこころ、私たちが目指すべきゴールは、パウロが言うように、積極的に「神を喜ばせる」ことなのです。私たちが、自分の言動、存在を人に喜んでもらえたとき、自分自身も喜びを感じるのと同じように、神に喜んでいただくことが私たちの生きがいとなるのです。そのように主は、私たちが主に喜ばれることは何かと常に考え、それを基準に行動する者となるよう願っておられるのです。とは言え、救いの完成への途上にある私たちは、今なお弱さを持ち、しばしば神を失望させたり、悲しませたりしてしまいます。しかし主は、そんな私たちのことをよくご存じであって、いつでも私たちが自分の罪を素直に認め、それを言い表すなら、真実な主はその罪を赦し、私たちを悪からきよめてくださるのです(1ヨハ1:9)。そして、主の御霊の働きによって、私たちは愛とあわれみのうちに取り扱われ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくのです(2コリ3:18)。そのことを覚えつつ、主に喜ばれる歩みをますます重ねていく者でありたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙 2章1-12節◇(1月23日)

「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」…1テサ2:4

パウロはピリピで牢に入れられるという苦難に会いましたが、テサロニケにおいても「激しい苦闘」のうちに置かれました。そんな中にあっても彼は、主によって勇気づけられ、ひるむことなく福音を語りました。それはパウロに、自分は使徒だという強い自覚と、福音宣教を神から託されたという揺るがない確信があったからです。そのパウロと同じく、キリストの弟子とされたすべての聖徒たちには、福音を人々に宣べ伝え、教会を建て上げ、神の国を拡大するためのさまざまな実際的な働きが、神から委ねられています。そして、その働きにたずさわる者は、パウロが言うように、人を喜ばせようとしてではなく、神に喜ばれるように、神のために奉仕するのです。ある教会のことです。日曜日の朝、礼拝が始まる時間になっても、会堂には会衆が集まっていませんでした。そこにいたのはその教会の牧師と、オルガンの奏楽をする奥さんだけだったのです。しかしその牧師は、讃美歌の番号を告げて礼拝を始め、会堂の隅々まで響き渡る大声で賛美し、あたかも会衆を見つめるようにして説教しました。たとえ会衆席に座っている者が一人もいなくても、神から託されている尊い働きは忠実になされたのです。主はすべてをご存知であり、そのことを喜ばれたのです。私たちがなすさまざまな奉仕は、もちろん、人から認められるためのものではありません。それにより人から喜ばれることもありますが、それは第1の目的ではないのです。それらは神からゆだねられ、神に喜んでいただくべく、神のためになされるものであって、神へのささげ物なのです。そして主はそのような者たちを見ておられ、その労苦を知っておられ、喜んでくださるのです。もし人の目を気にしたり、形式的にそれをこなすなら、それは主イエスに非難されたパリサイ人たちと同じなのです。ますますへりくだって、忠実に主に仕えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: テサロニケ人への手紙 1章◇(1月22日)

「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。…あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」…1テサ1:5-6

「恵みと平安があなたがたにありますように」との、パウロ、シルワノ、テモテからの挨拶のことばに続き、1章では、福音がどのようにして人々に届いていき、教会がどのように神と人々に仕えているかが記されています。「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです」。神の福音、救いを知らせる喜ばしい知らせは、単に、人々の理性に訴える知恵のことばとして伝えられたのではありません。そこには、主ご自身の力強い介入と、啓示の御霊によるみことばの解き明かしと、それを語る側と聞く側のどちらにも主がもたらされる強い確信があって、それらが、福音の伝達を確かなもの、実りあるものとし、多くの救われる人々を起こしていったのです。「そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(1コリ2:4)。パウロはコリント書の中でも、そう語っています。福音宣教の前進にとって何よりも重要なことは、いかに雄弁に語って人々を説得させられるかではなく、どれだけ御霊の働きが顕著に現されるかであって、そのために私たちは、ひたすら主を求め、祈り、主のみわざを待ち望む者となるべきなのです。「神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません」(8節)。テサロニケ教会の人々は、さまざまな試練、困難の中にあっても、主に対する信頼、信仰をしっかりと持ち続けていました。そして、絶えずみことばに従順に従って歩んでいる彼らの生きざま、存在自体が、人々に対する良き証しとなり、目に見える「福音」、救いの良き知らせとして尊く用いられたのです。私たちもまた、そのような者とされたいと願います。

主からの恵みと平安がありますように。

◇聖書箇所: 民数記12章◇(1月21日)

「彼はわたしの全家を通じて忠実な者。彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は主の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」…民数12:7-8

イスラエルの民が荒野を進み、ハツェロテにとどまったとき、モーセの姉ミリアムと兄アロンは、モーセの妻がクシュ人であることをなぜかそのとき取り上げて、彼を非難しました。その女性がツィポラ(出2:21)のことであるのかは不明です。いずれにしても二人はそのとき、異邦人との結婚を問題視していたかのように思えます。しかし2節には、彼らが「主はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか」と言ったとあります。ミリアムは女預言者、アロンは大祭司の立場でしたが、モーセが主から、夢や幻の中でではなく直接語られるという、「特別扱い」をされていることに対して、二人は嫉妬していたのです。そのように、二人の非難の真の理由は、モーセの妻のことではなかったのです。主はもちろんそのことをご存知でした。主は二人を呼び出し、「なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか」と逆に二人を非難して怒りを燃やさました。そしてミリアムはツァラアトに冒されてしまいましたが、モーセが主にとりなし、主から命じられたとおりに彼女を7日間宿営の外に締め出すと、ミリアムは癒やされ、宿営に戻ることができたのです。「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった」(3節)。3版では「…非常に謙遜であった」と訳しています。実際、モーセは、ミリアムとアロンから非難されても、そのことで二人と言い争うことはしませんでした。それは、モーセが常に主との親密な関係の中にあり、また、肉が食べたいと言ってモーセを非難した民に主の怒りが燃え上がり、彼らが激しい疫病で打たれたことを前の宿営地で経験していた彼は、すべてを主権者なる主に委ねていたからです。そのようなモーセに主イエスの姿を重ねて見ることができます(1ペテ2:23)。私たちもキリストのしもべとして、そうありたいと思います。

主の守りと支えがありますように。

◇聖書箇所: 民数記11章16-35節◇(1月20日)

「主はモーセに答えられた。『この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。』」…民数11:23

「…主が肉を下さる。あなたがたは肉を食べられるのだ」(18節)。モーセが民に告げたその主のことばの通り、主がご自分のもとから風を吹かせ、海から運んだ大量のうずらを宿営の周りに落とされたので、民はそれを捕まえ、その肉を食べることができるようになりました。主はモーセに「あなたがたが泣いて…ああ、肉が食べたい…と言ったからだ」と言われましたが(18節)、うずらが与えられたのは、主が民の願いを聞き入れられたからではなく、それは皮肉を込めた表面上のことばであって、主の真意は次のように20節に書かれているのです。「それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、その御前で泣き、『いったい、なぜ、われわれはエジプトから出て来たのか』と言ったからだ」。「ないがしろにする」とは、軽んじ、侮ることです。主の主権を認めないことです。民はマナにちっとも感謝せず、エジプトに残っていたかった…余計なことをしてくれた…と主を非難しましたが、そんな彼らに対して主は怒られ、欲望にとらわれたわがままな民を打たれたのです(33節)。また、肉が食べられるようになる、と主から告げられたモーセ自身も、その主の真意を理解していませんでした。全員が食べる分、それも1ヶ月にもわたる期間の肉をどうやって確保するのかと、そのような人間的な思いになり、本当にできるのかと主のことばを疑ってしまったのです。主はそんなモーセにこう言われました。「この主の手が短いというのか…」。モーセには、うずらの大群が飛んでくることは想像だにできなかったでしょう。「手が短い」とは力不足ということです。しかし、天地万物を創造された主にとって、そのようなことはあり得ません。そしてその主は、私たちの日々の歩みにも力強く介入してくださるお方なのです。「主の御手は決して短くない」ということを、日々体験する者とされたいと願います。

主の御力とみわざが現されますように。

◇聖書箇所: 民数記11章1-15節◇(1月19日)

「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」…民数11:14-15

民は主に対して繰り返し激しく不平を言いました。その原因は不明ですが、4節以降に書かれているように、荒野での不自由な生活についてのことであったと思われます。主がその不平を聞いて怒りを燃やし、火を燃え上がらせ、宿営の端をなめ尽くすと、民は今度はモーセに対してわめき叫び、彼のとりなしによってその火は消えました。しかし彼らの不満は収まらず、肉が食べたい…エジプトではただで魚を食べていた…喉もからからだ…全く何もなくこのマナを見るだけだ…と言って嘆き、大声で泣き叫んだのです。するとまたもや主の怒りが激しく燃え上がり、モーセはいたたまれなくなりました(10節)。11-15節には主に対するモーセの訴えが書かれていますが、そこにあふれているのは、彼の被害者意識と自己憐憫の思いです。「なぜ…なぜ…なぜ…」(11節)、「私…私…私…」。そしてモーセは、主に対して、「どうか私を殺してください」とまで言って、板挟みのようになって苦しんでいる状況からの解放を求めました。そのことばはイスラエルの民を導く指導者としてのものではなく、迷惑を被っているという否定的な思いにとらわれた、一人の弱い人間としてのものであったのです。そのような弱さは、私たちのうちにもあります。しかしみことばは、「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」と命じています(ピリ2:14)。民とモーセは主に不平を言うのではなく、マナが与えられていることを感謝しつつ、「主よ、助けてください」、「水も、願わくば肉も、どうか与えてください…」と、主権者なる主に向かって率直に祈り求めるべきであったのです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタ7:7)。私たちの願いを受けとめてくださる主に、幼子のようになって、祈り求めたいと思います。

主が必要を満たしてくださいますように。

◇聖書箇所: 民数記10章1-10節◇(1月17日)

「また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。」…民数10:9

主はモーセに銀のラッパを2本作るよう命じられました。聖書には角笛についても記されていますが、そのラッパは銀を材料とする打ち物作りのものです。昨日見たように、雲が上ったのを見て民は宿営を出発しましたが、彼らはそのラッパの音を合図として立ち上がり、進んで行ったのです。イスラエルの民がいつ進み、いつとどまるかを定められるのかは彼らの神である主ですが、雲という目に見えるものと、ラッパの音という耳で聞えるもの、その両方により、主の意思が会衆に伝えられたのです。またそのラッパは、敵との戦いに出るときにも用いられました。その際にはラッパが短く大きく吹き鳴らされましたが、それは、「主の前に覚えられ、敵から救われるため」でした。さらにそのラッパは礼拝においても用いられ、献げられたささげ物、いけにえの上にその音は鳴り響きましたが、それもまた「神の前に覚えられる」ためだとあります(10節)。そのように、銀のラッパは、主から民への意思伝達のために用いられ、また「民の声、民の叫び」として、神に向かって発せられたのです。そしてそのラッパが吹き鳴らされるとき、神は確かにそれを聞かれ、民の存在と状況を覚えてくださったのです。しかしそれは、ラッパが吹き鳴らされなければ、神は民の存在を覚えてくれない、という意味ではありません。敵との戦いのときにラッパを吹き鳴らすのは、万軍の主にただ拠り頼んでいるということの宣言、信仰の告白であり、弱い私たちをあわれみ、助けてくださいという祈りであり、さらに礼拝においてささげ物の上にその音を鳴り響かせるのは、自分たちの身代わりとなって献げられたいけにえを覚え、感謝と喜びをもって主をほめたたえる、賛美の響きなのです。そのようにして民は、自分たちが神に覚えられ、守り導かれていることを確信し、主の前に奮い立ったことでしょう。私たちもまたそのように、賛美と祈りの叫びを上げていきたいと思います。

主の守りと助けがありますように。

◇聖書箇所: 民数記9章◇(1月16日)

「主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営した。」…民数9:18

15節以降に、イスラエルの民の荒野の旅を導いた「雲」のことが書かれています。その雲が天幕を離れて上ると、民はそれを合図として旅立ち、雲が幕屋の上にとどまっている間は、民は宿営を続けたのです。その雲が幕屋の上にとどまる期間は毎回異なっており、数日のときもあれば1年におよぶこともありました。また、その雲が上るタイミングは朝とは限らず、昼でも真夜中でも雲が上れば、民はただちに旅立ったのです。なぜなら、その雲は主の臨在の現れであり、民はその雲の動きを「主の命令」として受け取っていたからです。後に荒野において不平不満を漏らすようになる彼らですが、このときのイスラエルの民は、いつ旅立ち、どこへ向かい、どれだけの間宿営するのか、いっさいのことを決められる主の主権を認め、従順に従う者たちでした。数日とどまっただけで雲が上っても「もう?」と言ったり、1年間とどまったままであっても「まだ?」と主の導きを疑ったりすることはなかったのです。そして、いざ出発するとなれば、幕屋を運べる状態にするために、レビ人たちが一致して、速やかに作業を終わらせたのです。今を生きる私たちが、幕屋や雲を見ることはありません。しかし、私たちを神殿として宿ってくださる主は、御霊によって、私たちの歩みを確かに導いてくださるのです。また、みことばは私たちの足のともしび、私たちの道の光であって(詩119:105)、進路を指し示し、道に迷わないように真理の光で照らしてくれるのです。いつ、どこへ、どうやって…。私たちが自分の考えや、この世のものに導かれて歩んで行こうとするなら、私たちの心には、不安と、疑いと、失望の雲が湧き起こります。しかし、主の主権を認め、主に拠り頼み、自らの思いを明け渡して御霊とみことばの導きに従って歩むなら、私たちの歩みは、主にあって確かなものとされるのです。どんなときにもそのような者でありたいと思います。

主のみこころを知ることができますように。

◇聖書箇所: 民数記8章◇(1月15日)

「イスラエルの子らのうちでは、人でも家畜でも、すべての長子はわたしのものだからである。エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした。」…民数8:17

8章の5節以下には、レビ人をその任務につけるために必要な「きよめ」について書かれています。彼らは、罪のきよめの水をかけられ、さらに、全身にかみそりを当てて毛をそり落とし、衣服を洗うという行為によって、主の前に身をきよくすることが求められたのです(7節)。そのようにしてレビ人は、天幕の奉仕にあたる者として「聖別」されなければなりませんでした。「聖別」とは、「きよいものとして特別に取り分ける」ということです。主は「エジプトの地で、わたしがすべての長子を打った日に、わたしは彼らを聖別してわたしのものとした」と言われましたが、それは、民の出エジプトの際の、過越の出来事を指しています。主はイスラエルの民を脱出させるため、エジプトへのわざわいとして、すべての家の長子を打ってそのいのちを取られましたが、羊の血がかもいと2本の門柱に塗られたイスラエルの家の長子は、そのわざわいが過ぎ越したためいのちが守られました。そして、そのようにしてわざわいをまぬがれて救われた長子は聖別され、きよいものとして特別に取り分けられ、「わたし」、すなわち主の所有のものとされたのです。私たちは、世の罪を取り除く神の小羊、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦されました。また、キリストの死からの復活によって、永遠のいのちが与えられました。罪と死から救い出されたのです。そしてそれは同時に、私たちが特別な「聖なる国民」として取り分けられ、神の所有のものとされ(1ペテ2:9a)、私たちが霊的な意味での「レビ人」として、さまざまな主の働き、奉仕に尊く用いられるということ、さらに、日々「きよめられる」必要があることをも意味しているのです。しかし私たちは、全身にかみそりを当てたり、衣服を洗ったりすることなく、日々、主と親しく交わりを保つ中で、聖霊によって造り変えられ、きよめられていくのです。そのことを覚えたいと思います。

主のものとされている感謝と喜びがありますように。

◇聖書箇所: 民数記7章66-89節◇(1月14日)

「モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。」…民数7:89

7章の最後の部分には、イスラエルの12部族の族長が一日ごとに交代して、祭壇奉献のためのささげ物を献げたことのまとめとして、そのささげ物の合計が記されています。それは各族長が献げたものを12倍した量、数であり、共同体の全ささげ物としてそこに示されているのです。前にも述べたように、12部族すべてについて同じ記述を繰り返すのは、読む者にとっては冗長に思えます。しかし主は、あえてそのように筆者に記させることによって、人数もまちまちである各部族が、幕屋とそこで主に仕える祭司たちのために、等しく働きを担っているということを強調するために、そうされたに違いないのです。そのことを思う時、同じく信仰共同体である教会の礼拝もまた、決して一部の人々の奉仕によって成り立っているわけではなく、そこに招かれている一人ひとりが、主への愛と祈りと献身の思いを献げるそのことを、主が何よりも喜んでくださっているのだ、と教えられるのです。その一方で、89節にあるとおり、主がご自身のみ思い、イスラエルの民への戒めをモーセに語られ、それを彼が民やアロンに取り次いで告げた、ということもまた心に留まります。それはもちろん、モーセが特別待遇されたわけではなく、主が彼にその役割を担わせるべく召しを与え、民もまたそのことを信仰をもって受けとめ、モーセが語ることを主からのものとして受け取ったのです。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」(エペ4:16)。「それぞれの部分がその分に応じて働く」…それは旧約の時代から変わらない主のみこころです。それぞれの働きを尊重し合い、感謝し合う群れでありたいと思います。

主に仕える喜びが増し加えられますように。

◇聖書箇所: 民数記7章42-65節◇(1月13日)

「全焼のささげ物として若い雄牛一頭、雄羊一匹、一歳の雄の子羊一匹。罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹。交わりのいけにえとして雄牛二頭、雄羊五匹、雄やぎ五匹、一歳の雄の子羊五匹。これがデウエルの子エルヤサフのささげ物であった。」…民数7:45-47

今日の箇所にも、ガド族、エフライム族、マナセ族、ベニヤミン族の各族長が1日毎にリレー式で主に献げた、ささげ物について書かれています。昨日も見たように、そのささげ物の内容はまったく同じであり、主によって定められた物が、毎日、担当である部族の族長によって、忠実に献げられました。「2日間分をまとめて2部族合同で…」などということはなかったのです。日々、主の前に時間を献げ、祈りを献げ、献身の思いを新たにするということの大切さを、あらためて教えられます。その主へのささげ物ですが、牛、羊、やぎのささげ物は、全焼のささげ物、罪のきよめのささげ物、交わりのいけにえとしてのささげ物であり、それらは、民の「贖い」のためのいけにえでした。すなわち、民の罪が赦されるために、神との和解がなされるために、本来、民が神の前にささげ物、いけにえとされるべきであるのに、その「身代わりとして」それらの動物が献げられたのです。イスラエルの民は、目の前で動物がほふられ、血が流され、いのちが取られるたびに、そのことを覚え、神への感謝の思いを新たにしたに違いありません。その主は、アブラハムに、ひとり息子のイサクをモリヤの山の上で、全焼のささげ物としてわたしに献げよ、と命じられ、彼はその命令に従順に従い、祭壇を築き、刀を取ってほふろうとしました。しかしそのとき、御使いによってそれは止められ、アブラハムは、角をやぶに引っ掛けている一匹の雄羊を取り、イサクの「代わりに」、それを全焼のささげ物として主に献げたのです。そしてそのイサクは、罪深い私たちの身代わりとして十字架にかかられたキリストの型、アブラハムはひとり子を遣わされた父なる神の型なのです。私たちが、動物のいけにえを日々たずさえることなく、キリストにあって大胆に主の前に出られる恵みを覚え、感謝したいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。

◇聖書箇所: 民数記7章24-41節◇(1月12日)

「そのささげ物は、聖所のシェケルで重さ百三十シェケルの銀の皿一枚、七十シェケルの銀の鉢一つ。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱいに入れてあった。」…民数7:25

7章には、イスラエルの族長たちが行った祭壇奉献のためのささげ物が、具体的に示されています。12節から83節まで、12部族のかしらたちが一日に一人ずつ、宿営の場所として主が定められた順序に従って、それらを献げたことが記されているのです。12日にわたるその期間のうち、24節から41節には、3日目から5日目まで、ゼブルン族、ルベン族、シメオン族の長たちがその任務を担ったことが記録されています。その3つの部族によるささげ物はみな同じでしたが、12-23節、また24以降を読むとわかるように、12部族すべて、それはまったく同じでした。しかしながら、「ユダ部族と同じものをささげた」と略記されることなく、12部族すべてについて同じささげ物が繰り返し書かれているのです。そして主は、言うまでもなく、その一つ一つのささげ物に目を留められ、それぞれのささげ物を「異なるものとして」喜んで受け入れられたのです。主にとって、各部族は異なった存在であって、それらを「十把ひとからげ」にまとめて取り扱うことなどあり得ないのです。銀の皿の重さは130シェケル、約1.5キロもある立派なものでした。それと合わせて銀の鉢、金のひしゃくは熟練した職人たちが準備し、また雄牛や雄羊などの動物も、多くの中から傷のないものを選び、当日まで病気やけがから守られるようにしたことでしょう。それらの事前の努力があるからこそ、主が求められるささげ物を、落ち度なく献げることができたのです。そのようにして各部族は、責任をもってその務めを果たし、12日間のその期間、途絶えさせることなくリレーのように繋いだのです。そのように、用意周到に、また忠実に、主から求められているあり方をもって献げ、仕える…。その姿勢は私たちにも求められています。ルーティン的な奉仕であっても気を抜かず、それにあたる者でありたいと思います。

感謝と喜びをもって主に仕える者とされますように。

◇聖書箇所: 民数記6章◇(1月10日)

「彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。」…民数6:5

6章にはナジル人の聖別の誓願に関する教えが書かれています。ナジル人とは、「分離する、聖別する」という意味の「ナーザル」ということばを由来とする、特別な目的のために神への聖別の誓願を立てる者を指しますが、その中には、サムソンのように生涯ナジル人として生きる者と、一定期間だけそうする者とがいたようです。3節以降にはそのナジル人が守るべき事柄が事細かに記されています。ぶどうの木から生じるものを食べないこと、頭の髪の毛を切らないことなど、その理由を理解するのが困難なものもあります。しかし、いずれにしても、ナジル人たちは、祭司のような特別な任務に就くことなく、聖別された者としての強い自覚を持ちつつふつうに生活し、主が命じられた規定に従って、さまざまないけにえを主の前に忠実にささげていたのです。汚れたものから自らを分離する、聖別する…。ナジル人に求められるそのあり方は、一定の誓願の期間が終われば無視して良いというわけではありません。また彼らのそのあり方は、霊的な意味において、すべての聖徒たちが主から求められていることなのです。パウロが、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」と命じているとおりなのです(ロマ12:1)。私たちは、キリストに贖われて罪を赦された者であり、この世の汚れから分離され、主に生涯をささげた者です。律法を成就されたキリストの新しい契約の下にある私たちに、旧約の規定がそのまま要求されることはありません。しかしながら、主の霊と力に満たされた「ナジル人」として、私たちもまた、この世の汚れ、主の忌み嫌われるものから離れ、主のみこころを行い、「地の塩」としての影響を周りに及ぼすことが求められているのです。そのような働きをなす者でありたいと願います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記5章◇(1月9日)

「その水を飲ませたとき、もし、その女が夫の信頼を裏切って身を汚していれば、のろいをもたらす水はその女の中に入って苦くなり、その腹はふくれて、そのももは痩せ衰える。その女はその民の間で、のろいの的となる。」…民数5:27

姦淫の罪の疑いがある女性への対応が書かれています。その行為が目撃されておらず、罪が確定できない場合、「のろいをもたらす苦い水」を「検査」のために飲まされることとなり、もしその女性が罪を犯しているなら、腹がふくれ、またももが痩せ衰えることになるために、目に見えるその結果によって、罪を犯したと判定され、民の間で、神にのろわれた者として扱われるのです。夫のもとにありながら、道ならぬことを行なって身を汚し、姦淫の罪を犯す…。とんでもないことだと、眉をひそめるような思いでここを読む者がいるかもしれません。しかし、神のもとにありながら、神のことばに聞き従わず、神よりもこの世のものに心奪われ、自分の力に頼って歩んでいるのであれば、それは、神の目には「偶像礼拝」であり、「姦淫」の行為であるのです(エゼ20:30等参照)。かつてはそのようであった私たちもまた、「のろいをもたらす苦い水」を飲むべき者であったのです。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタ26:39)。そう祈られたキリストは、その苦い水を私たちの代わりに飲んでくださいました。すべての人の身代わりとして十字架にかかり、「姦淫の罪」に対する神のさばきを受けてくださったのです。ヨハネの福音書4章に登場するサマリアの女性は、夫を次々と変える、ふしだらで罪深い生活をしていました。彼女もまた「のろいをもたらす苦い水」を飲むべき者であったのです。しかし、主イエスは彼女をさばかず、「永遠のいのちへの水」の存在、すなわち、ご自身を信じる者に与えられる救いと、聖霊による喜びについて告げ知らせられました。キリストこそ、のろいを祝福に変え、いのちの水をもたらすお方なのです。私たちがその水を飲む者とされていることを感謝したいと思います。

救いの喜びが絶えず心にありますように。

◇聖書箇所: 民数記4章21-49節◇(1月8日)

「ゲルション族のすべての奉仕、すなわち、彼らが運ぶすべての物と彼らのすべての仕事は、アロンとその子らの命令によらなければならない。あなたがたは彼らに、任務として、彼らが運ぶ物をすべて割り当てなければならない。」…民数4:27

4章の後半には、レビ諸氏族の集団である、ゲルション族とメラリ族の任務が明らかにされています。前半に書かれているケハテ族の場合と同様に、その奉仕にあたるのは30歳以上50歳までの者たちであり、登録されたその人数はゲルション族が2,630人、メラリ族が3,200人で、レビ族全体ではケハテ族と合わせて8,580人でした。3つの諸氏族たちは、幕屋に使われる聖なるものや器具を分担して運搬し、ケハテ族はあかしの箱や祭壇などを、ゲルションは幕と付属のものを、メラリ族は板と付属のものを、それぞれアロンとその子らの指示に従って行動しました。49節には「彼らは主の命により、モーセを通して任じられ、それぞれその奉仕とその運ぶ物を受け持った」と書かれています。その割り当てについて指示を出して実行させたのはモーセ、アロン、その子らですが、レビ人たちはそれを「主の命」として受け取り、自分たちに与えられたそれぞれの任務を忠実に遂行したのです。アロンの子のうち、エルアザルはケハテ族を監督する責任を持ち、イタマルはゲルション族とメラリ族を受け持って指揮しました(16,28,33節)。たった2人で8,500人あまりのレビ人たちをです。そしてさらに、イスラエルの民全体が、彼らとともに荒野を移動して行ったのです。それは主ご自身が定められたことであって、民は各々が担っている役割を理解し、尊重し、秩序をもって、その共同体としての歩みを進めていったのです。その原則は新約時代の教会においても同じです。主は、一人ひとりにさまざまな賜物を与えられ、それぞれが役割を担い、奉仕にたずさわり、実際的な働きをなし、キリストのからだを建て上げるようにしておられるのです。神の民の共同体として、互いに尊重し合い、一致と秩序をもって、主の導きに従う群れでありたいと思います。

主の働きを忠実になす者とされますように。

◇聖書箇所: 民数記4章1-20節◇(1月7日)

「あなたがたは彼らに次のようにして、彼らが最も聖なるものに近づくときに、死なずに生きているようにせよ。アロンとその子らが入って行き、彼らにそれぞれの奉仕と、運ぶ物を指定しなければならない。」…民数4:19

4章には、レビ諸氏族の3つの集団、すなわち、ケハテ族、ゲルション族、メラリ族が担うべき会見の天幕の奉仕内容が、すでに述べられている3章のおおまかなものから、さらに詳細にわたって示されています。今日の箇所の1-20節は、そのうち、アムラム族、イツハル族、ヘブロン族、ウジエル族からなるケハテ族の奉仕の内容です。主はまず、それらの氏族における30歳以上50歳までの者の人数を一族ごとに調べて数えるよう、モーセとアロンに命じられました。その対象年齢の者が「仕事をすることのできる」者だと主は告げられましたが、それはゲルション族、メラリ族においても同じでした。会見の天幕での奉仕が、聖なる主に仕える尊いものであり、決して安易な姿勢で関わってはならない重要な任務であるということを、そこから改めて教えられます。19節には「彼らが…死なずに生きているようにせよ」、20節にも「彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである」とあります。彼らは、命じられた奉仕を行うにあたって、その正しい方法、手順に従わなければ、いのちを取られることさえあったのです。そして、そうならないために、アロンとその子らが、奉仕内容を彼らにあらためて指示し、間違えないように徹底するということが求められたのです。そのように、レビ人たちにとって、主に仕えるということは文字通り命がけでした。一方、今の新約の時代、キリストに贖われた聖徒たちも同じように主のために奉仕しますが、その中でいのちを取られてしまうということはありません。しかしながら、聖なる主の前に仕えることの尊さ、重要さはまったく同じであって、私たちもまた、そのような心と思いをもって、主のしもべとして、たとえ小さなことであっても、祈りつつ忠実に取り組むべきなのです。そのことを覚えたいと思います。

喜んで仕える霊に支えられますように。

◇聖書箇所: 民数記3章40-51節◇(1月6日)

「モーセは、レビ人によって贖われた者より多い分の者たちから、贖いの代金を取った。」…民数3:49

主はモーセに対し、イスラエルの子らのうち、生後1ヶ月以上の男子の長子をすべて登録し、その人数を数えよと言われました。さらに、そのすべての長子の代わりにレビ人を、また民が所有する家畜の初子の代わりにレビ人の家畜を取り、それらをわたしのものとせよ、と命じられました。そしてそれは、主が、イスラエルの民を「出エジプト」させるべく、エジプト人の長子を打ち、一方、羊の血がかもいと2本の門柱に塗られたイスラエルの民の家を「過ぎ越し」て、長子のいのちを救ったことに基づき、そのすべての長子はわたしが聖別したものであって、その長子を取る代わりに、レビ人たちをわたしのものとすると、主が宣言されたからなのです(3:12-13節)。モーセがそのようにすると、その長子の数は22,273人で、レビ人全体の数である22,000人(39節)よりも273人多い人数でした。すると主は、その多い分の者たちについては、代わりとするレビ人がいないため、代金、つまりお金で支払い、それを「贖いの代金」として、一人当たり5シェケルを取り、合計1,365シェケルをアロンとその子らに渡すようにと命じられ、モーセはそのことばに従いました。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました」(1テモ2:6a)。キリストは、罪のないご自身の血を流し、その尊いいのちを贖いの代価として支払い、私たちを罪の奴隷から買い戻して、その束縛から解放してくださいました。そしてそれは、もたらされたその自由を私たちが謳歌して、自分の好きなことをして楽しむためではもちろんないのです。主の所有の民として、聖別されたレビ人、祭司として、主の臨在の中に進み行き、主を礼拝し、神の栄誉を周りに告げ知らせ、人々のためにとりなし祈る者となるためなのです。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」(1ペテ2:9a)。「レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である」(45節b)。キリストに贖われ、神のものとされたことを感謝しつつ、求められている務めを全うしたいと思います。

主の助けと導きがありますように。

◇聖書箇所: 民数記3章14-39節◇(1月5日)

「レビ人の長の長は祭司アロンの子エルアザルで、聖所の任務に当たる者たちの監督であった。」…民数3:32

今日の箇所を読んであらためて気づかされること、その第一は、レビの氏族であるゲルション、ケハテ、メラリは、それぞれが幕屋の奉仕のどの部分を担うのか、分担して担う務めが主によって定められ、明確に指示されているということです。25-26,31,36-37節には、各氏族におけるその具体的な内容が記されています。気づかされることの第二、それは、それぞれの氏族の長として、「〇〇の子」が立てられ、用いられたということです。その長たちの年齢は不明ですが、比較的若い時から、そのような重要な立場にあったと考えられます。なぜなら、レビ人の長の長、すなわち、幕屋の奉仕に関する全体の監督もまた、アロンの子であるエルアザルが務めており、生後一ヶ月以上の男子を登録せよと命じられた主は、それらの若い世代の者たちが長として立つことをみこころとしていたと思われるのです。神はそのようにして、聖所の任務をそれぞれの氏族に分担させ、多くの奉仕者によってその務めを果たさせました。そしてその原則は、今の新約の時代においても同じなのです。教会はキリストのからだであり、そこに属する各器官が、それぞれ果たすべき働きを全うすることによって、からだ全体が建て上げられ、健全に機能するのです。一部の人だけに奉仕の負担がかかるようなあり方は、主のみこころではないのです。また神は、積極的に次世代の者をリーダーと用いられるお方であって、年長者たちは、自分の立場に留まり続けることなく、次世代の者たちの成長と祝福のためにとりなし、一緒に奉仕しながら教え、スムーズにバトンタッチすることが求められているのです。また、若い者たちも、年長者たちに頼るのではなく、自立し、全体を支える役割を担うことを喜びとすべきなのです。主は、神の民の共同体である教会が、そのようであるようにと願っておられます。そのことを全世代の者が覚え、一つとなって推し進める、そのような群れでありたいと思います。

神と人とに仕える喜びに満たされますように。

◇聖書箇所: 民数記2章◇(1月3日)

「イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。」…民数2:34

民数記2章には、イスラエルの各部族に対して定められた、幕屋の周りの宿営の位置と荒野を進んでいく順番が記されています。それらを整理すると下記のようになります。

[宿営位置] [行進の順番] [部族名] [兵士登録数]
1 東側  第1グループ  ユダ  74,600人
2 〃   〃     イッサカル  54,400人
3 〃   〃             ゼブルン  57,400人
4 南側  第2グループ  ルベン  46,500人
5 〃   〃             シメオン  59,300人
6 〃   〃             ガド  45,650人
7 中央    中央          レビ
8 西側  第3グループ エフライム  40,500人
9 〃   〃            マナセ  32,200人
10 〃   〃            ベニヤミン  35,400人
11 北側  第4グループ ダン  62,700人
12 〃   〃            アシェル  41,500人
13 〃   〃            ナフタリ  53,400人

宿営の位置と行進の順番のどちらにおいても、レビ族が中央であることがわかります。レビ以外の12部族が幕屋の周りに3部族ずつ4グループを形成し、東西南北に宿営したのに対し、レビ族は中央にある会見の天幕のすぐそばに宿営しました。また荒野を進むときにも、幕屋の器具を運搬する役割を担う彼らは、前後を6部族に挟まれ、行進の中央の位置を保っていました。しかし、幕屋の中の至聖所に置かれる契約の箱は、行進のときには行進の先頭を進んでいったのです(民10:33)。それらの位置と順番は、主ご自身が命じられたものでした。神の民にとって、幕屋、すなわち神への礼拝を常に中心に置き、十戒が書かれた板が納められた契約の箱、すなわち神のことばに導かれて歩むということが、神から求められるあり方だったのです。霊的な神の民である私たちも、ますますそのようにして歩みたいと思います。

主の守りと導きの中を歩む者とされますように。

◇聖書箇所: 民数記1章30-54節◇(1月2日)

「レビ部族だけは、ほかのイスラエルの子らとともに登録してはならない。また、その頭数を調べてはならない。」…民数1:49

民数記の1章5節から15節に記されている、イスラエル12部族の長たちのリストの中に、レビ族の名前はありません。なぜなら、レビは確かにヤコブの子、レアとの間に生まれた3男ですが、その子孫であるレビ部族については、他の部族と同じように人口調査や兵士登録をしてはならないと、主が明確にモーセに命じられたからです。またレビ人たちは、他の部族とは異なり、宿営の場所をあかしの幕屋の周りとすることが求められました(50,53節)。それは彼らが、幕屋に関わるさまざまな奉仕に従事し、さらに祭司として礼拝を導き、動物のいけにえをささげ、民の罪のとりなしをするという、特別な役割を担う存在として、神が立てられていたからです。さらに、イスラエルの民が約束の地カナンに入ったとき、12部族はそれぞれの割り当て地が与えられましたが、レビ人たちには土地の割り当てはありませんでした。彼らは各部族の中に居住区を与えられてそこに住み、奉仕の報酬である奉納物の十分の一によって養われたからです。主ご自身が彼らの「ゆずり」であったのです(申10:9)。キリストに贖われた私たちもまた、祭司とされています(1ペテ2:9)。私たちは霊的な意味でのレビ人であって、主ご自身が私たちが身を置くべき存在となり、また主が、私たちに豊かな相続、ゆずりを与えてくださるのです。私たちは、天の住まいでの永遠の歩みを待ち望みつつ、日々の荒野での天幕生活を続けています。しかし、決して乏しくなることはありません。主がすべての必要を満たし、養っていてくださるからです。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます」(詩23:1-3)。主に必要を満たされ、養われ、導かれる者であることを覚えたいと思います。

主の祝福が豊かにありますように。