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◇聖書箇所: 民数記 15章22-41節◇(2月6日) 「祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。」…民数15:28 22-31節には、民が罪を犯したときの規定が書かれています。会衆全体が気づかずにあやまって罪に陥った場合には、全焼のささげ物、穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物が必要でした。また、個人が過失の罪を犯した場合には、罪のきよめのささげ物が必要とされました。一方、主の教えを知っていながら故意に罪を犯した場合には、その者は主を冒瀆したとして民の間から断ち切られ、その咎を負ったのです。主はあわれみ深い方であることを改めて教えられます。気づかずに陥った過失の罪であれば、規定のいけにえ、ささげ物を献げることにより、民のその罪は赦されたのです。しかもそれは、国に寄留している在留異国人に対してもまったく同様であったのです。そして、そのささげ物だけでなく、祭司の宥め(贖い:3版)が必要であったことにも心が留まります。そのとりなしがなされることによって、民の罪の赦しは全きものとなったのです。後に、イエス・キリストはご自身をいけにえとして献げ、罪のないきよい血を流され、十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言って神にとりなし(ルカ23:34)、人々の罪のための宥めをなされました。そしてその贖いによって、モーセの時代の規定は全うされ、更新され、異邦人を含むすべての民の罪の赦しをもたらすものとなったのです。その一度限りの完全なささげ物によって、罪を犯した者たちは、動物のささげ物を携えて、神の前に差し出す必要はなくなったのです。イスラエルの民は、衣服の裾の四隅の房につける青いひもを見て、主のすべての命令を思い起こしました(38-40節)。御霊も私たちに主の教えを思い起こさせてくださいます。そしてその御霊に逆らう冒瀆は赦されないのです(マタ12:31)。主のとりなしと贖いを感謝し、絶えず主に立ち返り、主のみこころのうちを歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 15章1-21節◇(2月5日) 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」…民数15:2 主がモーセに告げられた、ささげ物の規定が書かれています。そこでは、献げられる牛や羊に添えるべき、油を混ぜた小麦粉やぶどう酒についても詳細な指示がなされていますが、それらのものは、イスラエルの子らのうち、19歳以下の次世代の者たちが、40年後にようやく約束の地に入り、そこで定住するようになってから得られる地の産物、収穫です。その教えが語られたとき、彼らはまだ荒野にいて、それらを手にしてはいなかったのです。主は、「あなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り」と言われましたが、それは、その世代の者たちが、主が約束された地に必ず入ることができるということを覚え、その確信をしっかりと持つためでした。主は、荒野にいた彼らに対し、あえてそのように告げて、約束の地において必要となるささげ物の規定を前もって示されたのです。確かにそうなるという幻を見せられたのです。私たちの信仰生活においても、荒野のような試練の中を通らされると、主への信仰がぐらつくことがあります。しかし、主は真実なお方であって、主が私たちに約束されていること、すなわち聖書の一つ一つのみことばは、必ずその通りになるのです。黙示録にはキリストが打ち建てられる新天新地が描かれていますが、荒野にいる私たちがそれを幻として受け取るとき、希望を新たにされ、私たちを導かれる、信仰の創始者、完成者であるキリストに目を留めつつ、歩み続けることができるのです。「一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである」(15節)。主はそのようにも言われました。ここに、キリストの贖いによって異邦人にも開かれる救い、二つのものが一つとされるということを、預言的に見ることができます。主の約束は確かであり、それをしっかり握って歩むなら、私たちはそのみことばによって強められ、支えられるのです。そのことを覚えたいと思います。 霊の目がますます開かれますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 14章26-45節◇(2月4日) 「そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」…民数14:43 わたしを侮った者たちは約束の地に入れないことを民に告げよ、と主はモーセに命じられました。29~35節にその具体的な内容が記されています。①20歳以上の登録された者たちはヨシュアとカレブ以外、約束の地に入れずに荒野で死に絶える。②20歳未満の者たちは約束の地に入ることが許される。ただし40年の間荒野に留まり、親世代の者たちの背信の罪の責めを負う。③偵察隊のうちヨシュアとカレブ以外の10人も、地を悪く言いふらして民を落胆させたゆえに死ぬ…。そして主は、その3番目のことを速やかに実行され、彼らは疫病で死んだのです。すると、その主のことばを聞いた民は嘆き悲しみました。それは自分たちの主に対する態度を後悔する悲しみではなく、約束の地に入れない無念さゆえの悲しみでした。そして「とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう」と、カナンの地に近づけば何とかなるというおろかな考えで、山地の峰のほうに上っていこうとしたのです。主は「葦の海の道を通って荒野へ行け」と民に命じ、先住民との戦いを回避させようとしていましたが、彼らはまたも主にそむき、自分たちの判断を押し通したのです。モーセの警告も無視してそのように行動した民は、結局アマレク人とカナン人に討たれました。そのとき、主の契約の箱は宿営に留まっていましたが、それはまさに、「主がともにおられない」ことの象徴でした。私たちもしばしば、自分の判断で短絡的に行動してしまいます。向きを変えて回り道をすること、時間を多く掛けることを良しとせず、さまざまな面からの検討や、人々への配慮を煩わしく感じ、「とにかくやってみよう…」と、拙速に事を運ぼうとしてしまいます。しかし、私たちは常に、主のみこころは何か、主はどう導かれようとしているのかを尋ね求め、主の御声をしっかりと聴き、それに従うべきなのです。不信仰で不従順であった民を反面教師とし、ますます従順に主に従い続けたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 14章1-25節◇(2月3日) 「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」…民数14:19 偵察隊の報告を聞いて落胆した民は皆、嘆いて叫び、一晩中泣き明かしました。そして、モーセとアロンに不平を言い、なぜ主は我々を敵の剣に倒れるようにされるのかと言って主ご自身をも非難し、モーセとは別の指導者を勝手に立て、エジプトに帰ろうとさえしたのです(4節)。すると、偵察に行ったヨシュアとカレブは、その地は乳と蜜の流れるすばらしく良い地であり、主が我々をその地に導き入れ、それを下さるのだ、と強調しました。さらに、主が自分たちとともにおられるのだから、その地の者たちを恐れてはならない、と民を励ましました。ところが会衆は、2人を石で打ち殺そうと言い出したのです。そこで主はモーセに、「わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剥奪する…」と、さばきを告げられました。それを聞いたモーセは、主に対して必死にとりなしました。「あなたは言われました。『主は怒るのにおそく、恵み豊かであり、咎と背きを赦す…』」(18節)。「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」と。するとそれに対して主は、「あなたのことばどおりに、わたしは赦す」と言われたのです。出エジプトの際、自分は口べただ、民は自分の言うことを聞こうとしない、と主に訴えたモーセは、そのとき、民を説得しようとせず、何よりも神と民との間に立ち、仲介者として主にとりなしたのです。主イエスもまた、口を開かない羊となって屠り場に連れて行かれ、そこで、父よ、彼らをお赦しください…と、十字架の上でとりなされました。宣教のわざが前進するために何よりも大切なのは、魅力的なプログラムによる礼拝や、雄弁な説教者ではありません。人を赦し、救ってくださる主への、熱いとりなしの祈りなのです。私たちその祈りは、確かに主に覚えられているのです。そのことを覚え、祈りをもって主にとりなし続けていきたいと思います。 破れ口に立つ者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 13章25-33節◇(2月2日) 「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」」…民数13:30 カナンの地を偵察して帰ってきた12人の族長たちは、その結果を、モーセとアロン、全会衆に対して、持ち帰ったその地の果物を見せながら報告しました。その地が乳と蜜が流れている肥沃な土地であることは、12人全員が認める一致した結論でしたが、そこに上っていくべきかどうかについては、カレブとヨシュアの2人とそれ以外の者たちで分かれました。上って行ってそこを占領しよう、とカレブたちが主張したのに対し、攻め上れない、先住民たちは自分たちより強い、と言って反対したのです。同じものを見ていたのに、なぜ180度違う主張となったのか…。それは、偵察時に見た先住民たちの背が高かったため、カレブとヨシュア以外の族長たちは、彼らと戦っても勝てるわけがないと勝手に思い込んで、恐れ、意気消沈してしまっていたからです。それに対してカレブとヨシュアの二人は、主がモーセに、「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ」(1節)と言われたことを心に留め、自分の目に映ることがどのようなものであっても、その主のことばを根拠として判断すべきだと考えたからです。「ぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と、カレブは、報告を聞いて動揺する民の前で言いましたが、彼は、自分たちの力によって先住民に打ち勝てるとは思っていませんでした。彼は、エジプトから自分たちを脱出させ、その後も、荒野においてさまざまなみわざを現して来られた主を見上げ、主のことばに信頼し、主ご自身が必ずその地を占領させてくださる、という信仰に立って、「そこを占領しましょう。(「主にあって」)必ず打ち勝つことができます」と信仰告白し、勝利宣言をしたのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリ4:13)。私たちも、見えるものに心奪われず、自らの力に頼らず、全能なる主に拠り頼む者、主の約束のみことばを握って前進する者でありたいと思います。 主が勝利を与えてくださいますように。 |