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◇聖書箇所: 民数記 31章42-54節◇(3月3日) 「それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」…民数31:50 ミディアン人との戦いにおいて軍団の指揮官となった、千人の長、百人の長たちはモーセのところに来て、戦いの後に人員点呼をしたところ、自軍の兵力は戦いによっても一人も失われなかったことを彼に報告しました。そして、戦利品として手に入れた腕輪などの金の飾り物を、主へのささげ物として差し出したのです。それは全部で16,750シェケル、なんと191kgもの大量の金でした。そのささげ物は、主が命じられたものではありませんでした。彼らはあくまで自発的にそれを献げたのです。そこには、敵との戦いにおいて、主の守りと導きにより、戦死者を一人も出さずに勝利できたことへの感謝とともに、主の御旨に反してミデヤン人の男子のみを討ち、残りの者たちを捕虜として家畜とともに持ち帰ったことについて、悔い改める思いがあったに違いありません。彼らの「私たち自身のための」(「私たち自身の贖い」:3版)ということばに、そのことが示唆されているのです。彼らのように主の御旨に従い切れない弱さは、私たちのうちにもあります。そしてキリストがそんな罪深い私たちのために、贖い、宥めとなってくださったので、そしてその贖いは、キリストを信じる者が一人として滅びることがないという完全なものであるので(ヨハ3:16)、私たちもまた、感謝と砕かれた心をもって、主の前にささげ物を献げるのです。献金、賛美、祈り、そして自分自身を主に献げる思いを、強いられてではなく、形式的にでもなく、自ら進んで、喜びをもって献げるのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」(詩51:17)。主の恵みとあわれみ、主の贖いのみわざを覚えて感謝を献げ、御旨から外れていたことを認めて主に立ち返り、主に従うことを告白して再献身する…。何よりもそのような砕かれた心を、いけにえとして主に献げたいと思います。 感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 31章25-41節◇(3月2日) 「その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。戦に出た戦士たちからは、人、牛、ろば、羊の中からそれぞれ五百のうち一を、主への貢ぎとして徴収せよ。」…民数31:27-28 ミディアン人との戦いで女性たちを生け捕りにして連れ帰った兵士たちにモーセを激怒しましたが(31:14-18)、一方で主は、彼らの働きを認め、その労苦に対して十分な報いを与えられました。分捕りものの半分が、従軍した者たちに分け与えられたのです。32節以降にその家畜や処女の者たちの数が書かれていますが、分捕りものの総数はきわめて多かったため、1万2千人の兵士たちが受け取ったその報いは、十分な量と内容であったのです。さらに主は、戦士たちに、その受け取った報いの中から、500分の1を主への奉納物とするように命じられました。また、分捕りものの半分が分け与えられた会衆に対しても、その50分の1をレビ人に与えるように命じられました。そこには、主がその戦いに勝利を与えられたことを覚えて主に栄光を帰し、戦いの背後でとりなした祭司たちなどのレビ人が報いを受けるという意味があったのです。なぜ500分の1、50分の1なのか、理由は書かれていませんが、おそらくそのように主から命じられなければ、モーセや民は分捕り物を数えることはせず、その正確な数はわからなかったでしょう。数えるという作業を通して、それは主の「恵み」として数値化され、それがいかに大きなものであるかということを、民はあらためて知ることとなったのです。それらの分捕り物は決して少なくありませんでした。モーセや民は、ミディアン人との戦いに主が勝利をもたらされ、分捕り物もすべて主から与えられたものだということを、総数を調べる中で覚え、主をほめたたえ、すべての栄光を主に帰したのです。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。主の恵みを「数える」こと、主に感謝と賛美をささげ、栄光を主に帰すこと…。それは私たちにも求められています。絶えずそのことを行動で現わす者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |