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◇聖書箇所: 民数記 30章◇(2月28日) 「もし夫がそれを聞いた日に彼女に反対すれば、夫は、彼女がかけている誓願や、物断ちをしようと軽率に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。」…民数30:8 30章3節以降には、女性の誓願と物断ちについての規定が書かれています。「誓願」とは、自分自身あるいは自分の持ち物を自ら進んで主に献げる決断をし、神に願い祈ることです。また「物断ち」とは、ある期間、何かをしない、あるいは何かを口にしないというような制限を自らに課し、神に願い求めることです。どちらも、自分のその誓いを果たすことが前提であり、それが果たせなければ、彼女は主によって罪に定められてしまうのです。30章では、女性が置かれている4つの状況に分けて、彼女の誓願と物断ちがどう扱われるかが記されています。すなわち、①まだ若くて父の家にいる場合(3-5節)、②誓願や物断ちをしていて嫁いだ場合(6-8節)、③やもめや離縁された者の場合(9節)、④夫の家において誓願や物断ちをする場合です。そのうち③以外は、その女性の父親あるいは夫が彼女の誓願や物断ちに反対するならば、それは無効とされ、彼女が罪に問われることはないのです。そのように、女性の誓願や物断ちは、父親や夫の意見によって有効にも無効にもなりましたが、それは決して、女性の人格が軽視され、権利が奪われてしまうということではありません。むしろそれは、主が、恵みとして、女性と家庭を守り、保護を与えるためであったと考えられるのです。なぜなら誓願のささげ物や物断ちによって、家族の生活が危機にさらされたり、本人の健康を害する恐れがあったりしたからです。そうならぬよう、主が配慮し、家庭を守られたのであり、「主は彼女を赦される」(5,8,12節)のことばは、そのことを示唆しているのです。私たちも、約束を果たすべく努力することは大切ですが、それが何かの事情でかなわなくても、すべてをご存知である主は弁護してくださいます。そのように主の恵みが常にあることを覚え、律法的になったり自分を責めたりせず、平安のうちに歩む者でありたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 29章20-40節◇(2月27日) 「七日目には、雄牛七頭、雄羊二匹、傷のない一歳の雄の子羊十四匹、および、それらの雄牛、雄羊、子羊のための、それぞれの数に応じて定められた穀物のささげ物と注ぎのささげ物。」…民数29:32-33 昨日に引き続き、仮庵の祭りにおけるささげ物の規定が書かれています。仮庵の祭りは7日間におよびますが、今日の箇所は、3日目から7日目のささげ物についてです。その内容は毎日ほぼ同じでしたが、雄牛の数だけが日ごとに異なっていました。雄牛は1日目には13頭がささげられ、2日目以降は日ごとにその数は1頭ずつ少なくなり、最終日の7日目には7頭となりました。そのように、献げるべき数と時が主によって定められていたのであって、それを民が勝手に変えるようなことはなかったのです。そのささげ物の規定は29章12-34節に記されていますが、「以下同様にして」、あるいは「毎日一頭ずつ減らして」と省略することなく、まったく同じ文言の文章が長々と繰り返されています。中には、それを冗長だと感じて、途中を読み飛ばす者もいたことでしょう。そのようにした理由は不明ですが、どの日のささげ物も等しく重要であることを示し、最終日の7日目に7頭の雄牛という、完全数である7を明示して(7日間の雄牛の数の合計は70頭)、そのことを読者に意識させようとしたのかもしれません。いずれにしても民や祭司たちは、それらの主の命令を忠実に、徹底的に守り行ったのであり、彼らの歩みはそのように、主のことばに全面的に従って、導かれるものであったのです。ひるがえって私たちの歩みはどうでしょうか…。みことばに聞き従うということにおいて、中途半端になってはいないか…と思わされます。主のことばとはすなわち、主の御思いの表われ、主のみこころにほかなりません。そしてそれを喜んで守り行う者は、主を愛する者であり、主もその者を喜ばれ、愛してくださるのです(ヨハ14:23)。キリストに贖われ、神の民とされた私たちもまた、みことばを通してますます主の御旨を熱心に尋ね求める者、それに忠実かつ全面的に従う者でありたいと願います。 主に従うことを選び取ることができますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 29章1-19節◇(2月26日) 「第七の月の十五日には、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。いかなる労働もしてはならない。あなたがたは七日間、主の祭りを祝え。」…民数29:12 第7の月の15日から7日間続く祭りとは、「仮庵の祭り」です。レビ記23章33-44節にその詳細が記されています。イスラエルの民はエジプトを脱出して荒野を旅しましたが、その間は仮庵、つまり天幕という仮設住宅に住みました。そのように、主が荒野でも仮庵を与えて、そこに住まわせてくださったことを覚え、民は、感謝と喜びをもって、その祭りを祝うのです。昨日の箇所に書かれていた「過越の祭り」もそうですが、イスラエルの祭りにはそれぞれ、起源、意義があります。そして民は、それらの祭りの中で主の恵みを覚え、もたらされた救いを覚え、主の約束のことばを覚えるのです。神の民である私たちにとっては、聖日礼拝が、そのような祭り、祝宴のときであるということを教えられます。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とありますが、「住まわれた」と訳されている原語は、「天幕生活をする」という意味のことばです。主イエスは仮庵としての肉体を取って人として歩まれ、そのからだを私たちの罪のためにささげ物として献げられ、死からよみがえられて、天に昇って行かれました。私たちの礼拝、祭りの中心は、何よりも、私たちの贖いを成し遂げてくださった、イエス・キリストなのです。私たちに与えられているこのからだもまた、限られた期間、荒野という地上に住むための「仮庵」であり、子羊の婚姻のときに、私たちはキリストの花嫁として迎えられて、心から楽しみ喜ぶ者とされるのです。そしてそのときまで待つことなく、今の「仮庵」の生活においても、キリストにあって神の民とされた私たちは、荒れ果てた荒野の状況に置かれているとしても、イスラエルの民と同じように、主を礼拝する中で主の恵みを覚え、もたらされた救いを覚え、約束のことばを覚えるのです。感謝と喜びに満たされるのです。聖日だけでなく平日の歩みにおいても、そのようにして主を礼拝したいと思います。 主の恵みを絶えず覚えることができますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 28章16-31節◇(2月25日) 「第一の月の十四日は、過越のいけにえを主に献げなければならない。この月の十五日は祭りである。七日間、種なしパンを食べなければならない。」…民数28:16-17 16節から24節には、第1の月の14日に行われる過越の祭り、そしてそれに続く、種なしパンの祭りでのささげ物が規定されています。また、その7日間の最初の日と最終日には「聖なる会合」を開くように命じられています。その日は、民はいかなる労働もせず、主に礼拝をささげ、主が自分たちの上になしてくださったみわざを思い巡らすべく、特別に取り分けて聖別するときであったのです。過越の祭り…それは、かつてイスラエルの民がエジプトで奴隷となっていたとき、傷のない羊の血がかもいと2本の門柱に塗られた家を主のわざわいが過ぎ越し、イスラエルの初子は打たれないということが起こりましたが、それにより、それまでかたくなであったエジプト王パロが、ついにイスラエルの民がエジプトから出て行くことを認めたという、自分たちの先祖に対して主がなしてくださったみわざを覚え、感謝するためのものでした。教会の礼拝においてもたれる聖餐式の直接の起源は、主が過越の祭りで弟子たちとともにした最後の食事にありますが、そもそも過越の祭りが、イスラエルの民の出エジプトを可能とさせた出来事であるということ覚えつつ、私たちは、傷のない小羊として血を流してくださった主イエスに感謝するのです。また、罪の中というエジプトから脱出し、約束の地である天の御国に導かれている神の民であることを覚えるのです。さらに、酵母(イースト菌)を使わない種なしパンとするのは、酵母の発酵を待つ間もなくイスラエルがエジプトを脱出したからですが、パン種という混じりけ、罪のない主イエスがいけにえとされたゆえに、私たちが贖われ、救われ、生かされているということを、私たちは覚えて感謝するのです。そのように、主イエスの血によって神のさばきが私たちを過ぎ越し、いのちのパンなる主イエスによって今日も生かされていることを覚え、旧約の民のように特別な日だけでなく、日々感謝し、祝う者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 28章1-15節◇(2月24日) 「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしのための食物、わたしへのささげ物を、わたしへの食物のささげ物、芳ばしい香りとして、定められた時に確実にわたしに献げなければならない。」…民数28:2 28-29章には、主へのささげ物の規定が書かれています。主は、新しい世代のイスラエルの民が約束の地に入った後に、神の民としてどのような信仰生活を送るべきか、特に大切な礼拝について、細かく指示しているのです。今日の箇所においては、毎日のささげ物(3-8節)、安息日のささげ物(9-10節)、月の最初の日のささげ物(11-15節)に分けてその規定が記されています。それらのささげ物は、食物のささげ物に注ぎのささげ物が添えられ、その食物のささげ物は、常供の全焼のささげ物と穀物のささげ物からなっていました。そして全焼のささげ物として、傷のない一歳の雄の子羊が朝と夕に1匹ずつ毎日ささげられ、安息日にはその2匹分が加えられ、また月の最初の日には、若い雄牛2頭、雄羊1匹、傷のない1歳の雄の子羊7匹がささげられたのです。そのように定められたささげ物について主は、「わたしのための食物」、「わたしへのささげ物」、「わたしに献げ…」と言われました。それらのささげ物は、主が求められ、主が喜んで受け取られるものであり、同時にそれらは、主が民に恵みとして与えているものであって、イスラエルの民は、それを献げるたびに、自分たちは主の所有の民であり、主が絶対的な主権を持っておられること、そして自分たちの罪の贖いがそれらのささげ物によってなされていることを覚え、感謝していたのです。「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです」(ヘブ10:14)。私たちは今、動物のささげ物を献げて主を礼拝することはありません。なぜなら、キリストが完全なささげ物としてご自身を献げ、私たちの贖いを成し遂げられたからです。そのことを覚え、主への感謝と喜びをもって、賛美のいけにえと献金を献げ、何よりも自らを献げる思いのうちに、主を礼拝する者でありたいと思います。 賛美と栄光と誉れがキリストにありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 27章◇(2月23日) 「彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」…民数27:17 「あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたのと同じように、自分の民に加えられる」と主から告げられたモーセは、自分がいなくなった後の民のことを思い、憂慮しました。それは、しっかりと民を統率し導く指導者がいなければ、会衆は、羊飼いのない羊の群れのようにおじ惑ってしまうことを、彼は知っていたからです。そこでモーセは、その自分の後継者を与えてくださるよう、主に祈り求めました。「主の会衆を」という彼のことばからは、エジプトから導いてきたのは自分だという自負や高慢は感じられません。むしろ「一人の人を会衆の上に定め」と願ったモーセは、主の主権を認め、主ご自身がその後継者を立てられると期待していたのです。すると主はモーセに答えて言われました。「あなたは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを連れて来て、あなたの手を彼の上に置け。…彼を任命せよ。あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエルの全会衆を彼に聞き従わせよ」と。主は、モーセの従者として仕えていたヨシュアを、モーセに代わる新しいリーダー、羊のような民を導く羊飼いとして立ててくださったのです。ヨシュアというヘブル語の名は、アラム語ではイェシュアになりますが、それは「神(ヤハウェ)は救い」という意味です。イスラエルの民を救うためにヨシュアを立てられた主は、やがてイスラエルのみならず、すべての民を愛し、あわれみ、羊飼いのない羊のように弱り果てている私たちを救うために、イエス(イェシュア)・キリストを遣わしてくださったのです。そのお方こそ、私たちを正しい道、約束の地である天の御国へと導いてくれる真のリーダーであり、さまざまな敵の手から守り、養ってくれる、まことの羊飼いなのです。私たちの前を進んでおられるその主イエスから離れることなく、その声を聴いて、しっかりとついていく者でありたいと思います。 信仰をもって主に従う者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 26章1-34節◇(2月21日) 「そのとき、地は口を開けて、コラとともに彼らを呑み込んだ。それは、その仲間たちが死んだときのこと、火が二百五十人の男を食い尽くしたときのことである。こうして彼らは警告のしるしとなった。」…民数26:10 主から命じられたミディアン人に対する襲撃(25:17)を実行する前に、イスラエルの民の2回めの人口調査が行われました。その目的はミディアン人との戦いに備えるためであり、さらに、目前に迫った約束の地カナンに入る際に起こる、先住民との戦いに備えるためでもありました。その約40年前にシナイで行われた1回目の人口調査で登録された者たちは、モーセ、そしてカナンの地の偵察報告において主への信仰をもって肯定的な意見を述べたカレブとヨシュア以外は、主が彼らに告げられたとおり、すべて荒野において死に絶えていました。2回目の調査によってその後の世代の者たちの数が明らかにされたのです。その調査結果は長子ルベンの氏族から始まって記されていますが、9-11節にはエリアブの子ダタンとアビラムの名が出てきます。二人はコラの仲間としてモーセとアロンに逆らい、主の怒りを引き起こし、コラとともに口を開けた地に呑み込まれてしまいました。そのことはすでに16章で述べられていましたが、ここでも再び記され、さらに新約の時代になってからもパウロによって、そのことが取り上げられているのです(1コリ10:10)。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(1コリ10:11)。彼らが主の怒りを買い、いのちを取られたのは、主の約束のことばを信じず、あなたはわれわれを荒野で死なせようとしている、われわれは行かない、と不満を言ってモーセに逆らったからです。そしてそのことを教訓とし、彼らを反面教師とすることが、私たちに求められているのです。彼らは近視眼的でした。荒野での困窮した生活しか見ておらず、約束の地における繁栄と祝福を、霊の目をもって見てはいなかったのです。そうならぬよう、常に霊の目を開かれ、主に信頼して歩む者とされたいと願います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 25章◇(2月20日) 「…彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。」…民数25:11 約束の地に近づき、エリコのヨルダン川対岸の町シティムにとどまっていたイスラエルの民は、あろうことか、現地のモアブの娘たちと淫らなことをし始めました。そればかりか、彼女たちが信じる偶像神、バアル・ペオルをともに拝むようにさえなったのです。すると、主の怒りが燃え上がり、イスラエルに神罰がもたらされたので、民の多くの者が死ぬこととなりました。主はモーセに対し、民のかしらたちを捕らえてさらし者にするよう命じ、またモーセはさばき人たちに、偶像を拝ん者たちを殺すよう命じました。そしてそのことで民が会見の天幕の入口で泣き悲しんでいるところに、シメオン人のジムリという者がミディアン人の女性を連れてテントの奥の部屋に入って行ったので、それを見た祭司ピネハスは憤って後を追い、二人を槍で刺し殺しました。するとずっと続いていた神罰がそのとき終わったのです。その後、主はモーセに、ピネハスがわたしのねたみを自分のねたみとしたので、それが民全体のための宥めとなり、わたしは彼らを絶ち滅ぼさなかったと告げられました。ピネハスは、神の思いを自分の思いとして、ねたみ、憤り、行動したのです。主イエスが、神殿で商売している者たちを見て憤り、台を倒し、彼らを神殿から追い出した出来事が思い起こされます(ヨハ2:14-16)。主のねたみを自分のねたみとする。主の憤りを自分の憤りとする。主の喜びを自分の喜びとする。そのように、主の心を自分の心とする者を、主は尊んでくださいます。聖徒とされた私たちも、主のみこころではないことを見聞きしたとき、他人事として無関心でいるべきではないのです。そのことに対して悲しみ、憤り、そのことが取り除かれるように、正されるように、そして人々が主に立ち返るようにと、祭司としてとりなすべきなのです。そのように行動する者でありたいと思います。 主の心が与えられますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 24章◇(2月19日) 「目の開かれた者の告げたことば。神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。」…民数24:3-4 バラクに対するバラムのことばの続きです。バラムは神から与えられたことばをまた語りましたが、この24章においては「目の開かれた者の告げたことば」という表現が繰り返されています。新改訳3版では4節、16節に「目のおおいを除かれた者」とありますが、2017訳ではその箇所に加え、3節、15節と、合計4回、「目の開かれた者」と訳しています。そして2節を見ると、バラムがことばを発する前に、神の霊が彼の上に臨んだ、とあるのです。神の御告げを聞き、神の幻を見、主の前にひれ伏し、霊の目が開かれた者として語り告げる…。バラムは、神の霊に満たされていたからこそ、そのようにしてまっすぐ、主から与えられたことばを大胆に取り継ぐ者として用いられたのです。そして彼は3度までも、イスラエルをのろえというバラクの要請に反して逆に祝福しましたが、バラクに殺されることなく帰途につくことができたのです。主イエスは弟子たちに言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」…使1:8そしてそれは、別な見方をするならば、バラムのように、「聖霊が臨むと目が開かれる」ということです。「証人」とはすなわち「目撃者」です。聖霊が私たちに臨んで霊の目が開かれるなら、私たちは、荒野の中に置かれている主の民の繁栄と祝福を見るのです。戦いにおいて力強く働いておられる主の御手を見るのです。キリストが統治する神の国が確かに存在することを見るのです。そしてそれらを人々に力強く告げ知らせる者とされるのです。神がそのようにして聖徒たちを整え、尊く用いてくださるということを覚え、さらに御霊の満たしを求めていきたいと思います。 大胆に証しする者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 23章◇(2月18日) 「見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。」…民数23:20 モアブの王バラクは占い師バラムを、イスラエルの民の一部が見える場所に連れて行き、そこで彼らを呪うよう要請しました。しかし、神から告げるべきことばを与えられたバラムは、彼の詩のことばとして、神が呪わない者をどうして呪えようかと言って拒絶し、この民はおのれを諸国の民の一つと認めない、つまり諸国の民とは異なる特別な神の民なのだと告げ、バラクやモアブのすべての長たちの前で、イスラエルの祝福を宣言しました。そのことばに憤慨したバラクは、別の場所に移って同じことを求めましたが、主がバラムに与え、彼が語り告げたことばはまたもや、神はイスラエルを祝福される、彼らの神である主は彼らとともにおられる…という、祝福のことばのみであったのです。バラムが使者の依頼に応じてバラクの元に行こうとしたときには、富を欲する思いがあったことでしょう(22:7)。しかし、ろばとの口論、主の使いとの出会いを通して砕かれた彼は、主の御手の中で用いられる者とされていたのです。イスラエルを呪うことを拒絶するなら、バラクの怒りを買っていのちを取られることも予期できたはずです。しかしバラムは、だからといって主から与えられたことばを割り引くことはせずに、忠実に語ったのです(12節)。そして「私が心の直ぐな人たちの死を遂げますように」と告白したのです。「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない」(申4:2)。私たちはそのことを、自分が主のみことばを受け取ることにおいて、また、それを人々に語り伝える働きにおいて、常に覚えなければならないのです。多くの聖徒たちが、そのように従い、迫害の苦しみを受けましたが、彼らは死に至るまで主に忠実な者として歩み通したのです(黙2:10)。私たちもそのような者でありたいと思います。 主の守りと助けがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 21章1-20節◇(2月14日) 「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」…民数21:9 イスラエルの民は、アロンの死んだホル山から、通過するのを禁じられたエドムを迂回し、葦の海の道を通って南下していきました。すると、カナンの地から逆に離れていく旅程を進み、水や食べ物もない荒れ果てた地を進む中、民はまたしても神とモーセに逆らい、「なぜ…この荒野で死なせようとするのか」と文句を言いました。それを聞かれた主はただちに燃える蛇を送り、それが民にかみついたので、多くの者が死ぬこととなりました。おそらくそれは、かまれると焼けつくような痛みを生じさせる毒を持っていたため、「燃える蛇」と呼ばれたのでしょう。民はそれが自分たちに対する神からのさばきだと悟り、自らの非を認め、モーセに助けを求めました。そこでモーセが主にとりなして祈ると、主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる」と言われ、モーセが実際にそのようにすると、その通りになったのです。旗ざおの上に付けられたその青銅の蛇は太陽の光で輝き、あたかも燃える蛇のように見えたに違いありません。もちろんその蛇自体に力があったわけではなく、神の約束を信じて仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れたのです。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハ3:14-15)。主イエスは、パリサイ人の指導者ニコデモとの対話の中でこの出来事を引用し、ご自分が十字架にかかられることの意味を話されました。それは、イスラエルの民が毒蛇にかまれても、神の約束を信じて青銅の蛇を仰ぎ見ると死なずに生きたように、十字架につけられた主イエスを、神が約束された救い主と信じて仰ぎ見るとき、その人は罪赦され、死を免れ、永遠のいのちに生きるようにされるということなのです。罪あるすべての人にその救いが備えられているということを覚えたいと思います。 主を仰ぎ見て生きる者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 20章 「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」」…民数20:12 前半には「メリバの水」の出来事が書かれています。ツィンの荒野に入り、カデシュにとどまった民は、そこが荒れ果てた地で飲み水さえなかったため、モーセとアロンに文句を言いました。そこで二人が主に前にひれ伏して導きを祈り求めると、主は彼らの前に現れ、「杖を取れ…会衆を集めよ…彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と約束してくださったのです(8節)。そこでモーセは杖を取り、二人は民を岩の前に召集し、「逆らう者たちよ…この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と彼らに言い、モーセが彼の杖で岩を2度打ちました。すると、岩から水が豊かに湧き出たので、民も家畜もそれを飲むことができました。しかし喜びも束の間、主は二人に対し、あなたがたはわたしを信頼しなかったので、この会衆を約束の地に導き入れることはできない、と言われたのです。主は二人に「わたしが聖であることを現さなかった」と言って非難されました。主は「岩に命じれば」と言われたのであり、「岩を杖で打てば」とは言われなかったのです。さらに、岩から水を出されるのは主であるのに、二人は「われわれが…水を出さなければならないのか」と言って(10節)、主の御名を口にしなかったのです。そのことから、モーセとアロンが、文句を言う民に対し怒り、岩に命じようとせずに、杖で打つという「自分の力」に頼ろうとしたことがわかります。しかしそれは、民を裁く高慢な思いであり、何よりも、主に全面的に信頼しようとしない、不遜で不信仰な態度であったのです。主に助けを祈り求めながら、主の約束のみことばを聞いていながら、自分が持っているものを握りしめて手放さないなら、それは神に喜ばれる態度ではありません。全面的に主に信頼して歩む者でありたいと思います。 主が必要を満たしてくださいますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 19章◇(2月12日) 「それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。」…民数19:9 汚れを除く水に関する規定が書かれています。くびきをまだ負わせたことがなく、傷のない完全な赤い雌牛が祭司に渡され、宿営の外において祭司の前で屠られます。そして祭司はその血を、会見の天幕の正面に向かって7度振りまきます。さらにその雌牛はすべての部分が焼かれ、祭司はそこに杉の木とヒソプと緋色の糸を投げ入れ、焼いた雌牛の灰は集められ、器に入れて保存されるのです。その灰に新鮮な水を加えて作られた「汚れを除く水」は、たとえば、死者に触れて汚れた者の身をきよめるために用いられました。それがその者に3日目と7日目に振りかけられると、汚れが除かれてきよくなったのです。しかしそうせずに主の聖所が汚されたなら、その者は集会の中から断ち切られなければならなかったのです(13節)。「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブ10:22)。民数記19章の完全な赤い雌牛はイエス・キリストの予型です。キリストは罪のない全き神、かつ全き人としてこの地上に遣わされ、罪に汚れた全人類の身代りとなって十字架にかかり、血を流し、汚れを除いてくださったのです。そのようにしてキリストに贖われた私たちは、旧約の民のように雌牛を屠ることはしません。焼いたその灰から「汚れを除く水」を作り、何かによって汚れるたびに、その水を注ぎかけられる必要はないのです。傷のない完全なキリストがご自身をささげられ、1度限りのその贖いによって、全人類の救いを成し遂げられ、そのことを信じる信仰によって、私たちの心に血が振りかけられ、邪悪な良心はきよめられているからです。主の血潮の注ぎを受けた者として、そのことをあらためて覚え、感謝と喜びをもって主の御前に近づき、主と親しく交わる者でありたいと思います。 悪と汚れから守られますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 18章1-20節◇(2月10日) 「今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの子らの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために主に献げられた者として、あなたがたへの贈り物とする。」…民数18:6 主がアロンに告げられたことが書かれています。1-7節はレビ族の聖所での奉仕、アロンの家系の祭司の奉仕についての規定であり、8-20節は祭司たちの分け前に関する規定です。レビ族の者たちは、同族であるアロンとその子らが従事する祭司職を補助し、会見の天幕全体の仕事を担うという任務が与えられていました。もし、その範囲を越えて聖なる用具と祭壇に近づくなら、その奉仕者も祭司も、主によっていのちが取られてしまうのです。6-7節には、そのレビ人の奉仕者たちが、祭司であるアロンたちに対して主が与えられた「贈り物」であること、また祭司の奉仕もまた、主が「賜物」として与えられたものであることが記されています。彼らはそのような自覚を持ち、主を畏れ、へりくだり、求められている役割を忠実に果たしたのです。レビ人たちの中には、アロンの家系の者だけが祭司となることに反発する者たちがいたかもしれませんが、もしもそのように自らの分をわきまえないなら、その者は主に退けられてしまうのです。一方、新約の時代、キリストに贖われたすべての聖徒たちは、聖なる祭司とされています(1ペテ2:9)。キリストの十字架による罪の赦し、主と人々に仕える奉仕のわざもまた、一方的な神の愛と恵みとあわれみによる贈り物、賜物であり、私たちは、そのことを深く覚え、感謝と喜びをもって、そして与えられた御霊の賜物を活かして、自らの務めを忠実に果たすことが求められているのです。教会の働きは、言うまでもなく、教職者だけではなし得ません。さまざまな賜物が与えられた者たちが主によって立てられ、配置され、その尊い奉仕によってキリストのからだが建て上げられるのです。神の国が拡がっていくのです。そのことを覚えて、すべてを主に明け渡し、また一人ひとりの豊かで異なる賜物と働きを尊重し、主と人々とにますます熱心に仕えていきたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 17章◇(2月9日) 「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」…民数17:5 主はモーセに、イスラエルの全部族の族長から、各自の名を書き記した杖を1本ずつ取り、会見の天幕の中にあるあかしの箱の前に置くようにと命じられました。主は、それらの杖のうちから1本だけ芽を出させ、それを主が選ばれたことのしるしとし、その部族のかしらが指導者であることを民が認めて、モーセとアロンへの不平をなくそうとする意図をもってそのようにされたのです。モーセは主の指示に従いました。そして翌日になって彼があかしの天幕に入ると、なんと一晩のうちに、アロンの杖だけが芽を出し、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいたのです。そのようにして主は、レビ族のモーセとアロンが民の指導者として選ばれ、立てられていることを、目に見える形で民に示されました。さらにそのアロンの杖は、逆らう者がそれを見て自らを戒めるためのしるしとすべく、あかしの箱の前に戻されました。ところが民は、そのようになっても、自分たちがモーセとアロンに不平を言ったことを主の前に悔い改めず、今度は、自分たちは全員滅びてしまうと嘆き、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは…と、またもやモーセに文句をぶつけました。アロンの杖を見て立ち返るように…との主の思いは、民に届かなかったのです。人は、主がなさるしるしを見ても、心がかたくななので、主を信じようとしません(ヨハ13:37)。しかし霊の目が開かれるとき、肉の目に映るものの先にある世界を、確かに存在する真実なものとしてとらえることができるのです。そして、神のことばを受け入れ、主を信じて従う者となるのです。かたくなな心は柔らかくされ、主にある平安と希望と喜びをもって生きる者と変えられるのです。不平やつぶやきではなく、主への感謝と賛美を口にする者、目に映る事柄に恐れを抱いたり失望するのではなく、主がなさることを幻として見、先取りしていく者でありたいと思います。 霊の目がさらに開かれますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 16章1-22節◇(2月7日) 「こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」…民数16:6-7 16章には、民の指導者として主が立てられたモーセとアロンに反逆した者たちの行動とその結末とが書かれています。その首謀者は、レビ部族のケハテ族の一人であったコラという者です。彼は、同じようにモーセとアロンに不満を抱いていたルベン族のダタンとアビラム、またオンの3人と共謀し、さらに族長たちを含む250人の者たちも巻き込んで、モーセとアロンに逆らったのです。ケハテ族は、主から定められた役割として、荒野を移動する際に、幕屋で使われる契約の箱、また燭台、机などの用具を運んでいましたが、その際、アロンの子たちの祭司が梱包して布に包み、ケハテ族の奉仕者はその中のものを見ることなく、それを運搬することだけが求められていました。コラはそのことに不満を持ち、モーセとアロンが指導的な立場にあり、またアロンの家系が祭司職を独占していることに嫉妬して反発したのです。コラはモーセとアロンに言いました。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか」と(3節)。しかしすべては主権者なる主が定められたことであって、そのことに反発するコラと彼に同調して従う者たちこそ、分を超えていたのです。そのことばを聞いたモーセはひれ伏し、主に祈り、コラとその仲間全員がそれぞれ火皿を取って火を入れ、香を盛り、明朝に主の前に立つようにと命じました。彼らの主張が正しければ、祭司のみに許されるその行為は主に受け入れられるとし、判断を主に委ねたのです。主が立てられた権威に従う、分を超えず自らの働きを忠実になす、嫉妬や高慢に陥らないよう、聖なる主の前に常にへりくだる…。そのようなあり方は、聖徒とされた私たちにも求められています。そのことを覚えたいと思います。 感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 15章22-41節◇(2月6日) 「祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。」…民数15:28 22-31節には、民が罪を犯したときの規定が書かれています。会衆全体が気づかずにあやまって罪に陥った場合には、全焼のささげ物、穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物が必要でした。また、個人が過失の罪を犯した場合には、罪のきよめのささげ物が必要とされました。一方、主の教えを知っていながら故意に罪を犯した場合には、その者は主を冒瀆したとして民の間から断ち切られ、その咎を負ったのです。主はあわれみ深い方であることを改めて教えられます。気づかずに陥った過失の罪であれば、規定のいけにえ、ささげ物を献げることにより、民のその罪は赦されたのです。しかもそれは、国に寄留している在留異国人に対してもまったく同様であったのです。そして、そのささげ物だけでなく、祭司の宥め(贖い:3版)が必要であったことにも心が留まります。そのとりなしがなされることによって、民の罪の赦しは全きものとなったのです。後に、イエス・キリストはご自身をいけにえとして献げ、罪のないきよい血を流され、十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言って神にとりなし(ルカ23:34)、人々の罪のための宥めをなされました。そしてその贖いによって、モーセの時代の規定は全うされ、更新され、異邦人を含むすべての民の罪の赦しをもたらすものとなったのです。その一度限りの完全なささげ物によって、罪を犯した者たちは、動物のささげ物を携えて、神の前に差し出す必要はなくなったのです。イスラエルの民は、衣服の裾の四隅の房につける青いひもを見て、主のすべての命令を思い起こしました(38-40節)。御霊も私たちに主の教えを思い起こさせてくださいます。そしてその御霊に逆らう冒瀆は赦されないのです(マタ12:31)。主のとりなしと贖いを感謝し、絶えず主に立ち返り、主のみこころのうちを歩みたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 15章1-21節◇(2月5日) 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」…民数15:2 主がモーセに告げられた、ささげ物の規定が書かれています。そこでは、献げられる牛や羊に添えるべき、油を混ぜた小麦粉やぶどう酒についても詳細な指示がなされていますが、それらのものは、イスラエルの子らのうち、19歳以下の次世代の者たちが、40年後にようやく約束の地に入り、そこで定住するようになってから得られる地の産物、収穫です。その教えが語られたとき、彼らはまだ荒野にいて、それらを手にしてはいなかったのです。主は、「あなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り」と言われましたが、それは、その世代の者たちが、主が約束された地に必ず入ることができるということを覚え、その確信をしっかりと持つためでした。主は、荒野にいた彼らに対し、あえてそのように告げて、約束の地において必要となるささげ物の規定を前もって示されたのです。確かにそうなるという幻を見せられたのです。私たちの信仰生活においても、荒野のような試練の中を通らされると、主への信仰がぐらつくことがあります。しかし、主は真実なお方であって、主が私たちに約束されていること、すなわち聖書の一つ一つのみことばは、必ずその通りになるのです。黙示録にはキリストが打ち建てられる新天新地が描かれていますが、荒野にいる私たちがそれを幻として受け取るとき、希望を新たにされ、私たちを導かれる、信仰の創始者、完成者であるキリストに目を留めつつ、歩み続けることができるのです。「一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである」(15節)。主はそのようにも言われました。ここに、キリストの贖いによって異邦人にも開かれる救い、二つのものが一つとされるということを、預言的に見ることができます。主の約束は確かであり、それをしっかり握って歩むなら、私たちはそのみことばによって強められ、支えられるのです。そのことを覚えたいと思います。 霊の目がますます開かれますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 14章26-45節◇(2月4日) 「そこには、あなたがたの前にアマレク人とカナン人がいて、あなたがたは剣で倒される。あなたがたが主に背いたから、主はあなたがたとともにはおられない。」…民数14:43 わたしを侮った者たちは約束の地に入れないことを民に告げよ、と主はモーセに命じられました。29~35節にその具体的な内容が記されています。①20歳以上の登録された者たちはヨシュアとカレブ以外、約束の地に入れずに荒野で死に絶える。②20歳未満の者たちは約束の地に入ることが許される。ただし40年の間荒野に留まり、親世代の者たちの背信の罪の責めを負う。③偵察隊のうちヨシュアとカレブ以外の10人も、地を悪く言いふらして民を落胆させたゆえに死ぬ…。そして主は、その3番目のことを速やかに実行され、彼らは疫病で死んだのです。すると、その主のことばを聞いた民は嘆き悲しみました。それは自分たちの主に対する態度を後悔する悲しみではなく、約束の地に入れない無念さゆえの悲しみでした。そして「とにかく主が言われた場所へ上って行ってみよう」と、カナンの地に近づけば何とかなるというおろかな考えで、山地の峰のほうに上っていこうとしたのです。主は「葦の海の道を通って荒野へ行け」と民に命じ、先住民との戦いを回避させようとしていましたが、彼らはまたも主にそむき、自分たちの判断を押し通したのです。モーセの警告も無視してそのように行動した民は、結局アマレク人とカナン人に討たれました。そのとき、主の契約の箱は宿営に留まっていましたが、それはまさに、「主がともにおられない」ことの象徴でした。私たちもしばしば、自分の判断で短絡的に行動してしまいます。向きを変えて回り道をすること、時間を多く掛けることを良しとせず、さまざまな面からの検討や、人々への配慮を煩わしく感じ、「とにかくやってみよう…」と、拙速に事を運ぼうとしてしまいます。しかし、私たちは常に、主のみこころは何か、主はどう導かれようとしているのかを尋ね求め、主の御声をしっかりと聴き、それに従うべきなのです。不信仰で不従順であった民を反面教師とし、ますます従順に主に従い続けたいと思います。 主の確かな導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 14章1-25節◇(2月3日) 「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」…民数14:19 偵察隊の報告を聞いて落胆した民は皆、嘆いて叫び、一晩中泣き明かしました。そして、モーセとアロンに不平を言い、なぜ主は我々を敵の剣に倒れるようにされるのかと言って主ご自身をも非難し、モーセとは別の指導者を勝手に立て、エジプトに帰ろうとさえしたのです(4節)。すると、偵察に行ったヨシュアとカレブは、その地は乳と蜜の流れるすばらしく良い地であり、主が我々をその地に導き入れ、それを下さるのだ、と強調しました。さらに、主が自分たちとともにおられるのだから、その地の者たちを恐れてはならない、と民を励ましました。ところが会衆は、2人を石で打ち殺そうと言い出したのです。そこで主はモーセに、「わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剥奪する…」と、さばきを告げられました。それを聞いたモーセは、主に対して必死にとりなしました。「あなたは言われました。『主は怒るのにおそく、恵み豊かであり、咎と背きを赦す…』」(18節)。「この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください」と。するとそれに対して主は、「あなたのことばどおりに、わたしは赦す」と言われたのです。出エジプトの際、自分は口べただ、民は自分の言うことを聞こうとしない、と主に訴えたモーセは、そのとき、民を説得しようとせず、何よりも神と民との間に立ち、仲介者として主にとりなしたのです。主イエスもまた、口を開かない羊となって屠り場に連れて行かれ、そこで、父よ、彼らをお赦しください…と、十字架の上でとりなされました。宣教のわざが前進するために何よりも大切なのは、魅力的なプログラムによる礼拝や、雄弁な説教者ではありません。人を赦し、救ってくださる主への、熱いとりなしの祈りなのです。私たちその祈りは、確かに主に覚えられているのです。そのことを覚え、祈りをもって主にとりなし続けていきたいと思います。 破れ口に立つ者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 13章25-33節◇(2月2日) 「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」」…民数13:30 カナンの地を偵察して帰ってきた12人の族長たちは、その結果を、モーセとアロン、全会衆に対して、持ち帰ったその地の果物を見せながら報告しました。その地が乳と蜜が流れている肥沃な土地であることは、12人全員が認める一致した結論でしたが、そこに上っていくべきかどうかについては、カレブとヨシュアの2人とそれ以外の者たちで分かれました。上って行ってそこを占領しよう、とカレブたちが主張したのに対し、攻め上れない、先住民たちは自分たちより強い、と言って反対したのです。同じものを見ていたのに、なぜ180度違う主張となったのか…。それは、偵察時に見た先住民たちの背が高かったため、カレブとヨシュア以外の族長たちは、彼らと戦っても勝てるわけがないと勝手に思い込んで、恐れ、意気消沈してしまっていたからです。それに対してカレブとヨシュアの二人は、主がモーセに、「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ」(1節)と言われたことを心に留め、自分の目に映ることがどのようなものであっても、その主のことばを根拠として判断すべきだと考えたからです。「ぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と、カレブは、報告を聞いて動揺する民の前で言いましたが、彼は、自分たちの力によって先住民に打ち勝てるとは思っていませんでした。彼は、エジプトから自分たちを脱出させ、その後も、荒野においてさまざまなみわざを現して来られた主を見上げ、主のことばに信頼し、主ご自身が必ずその地を占領させてくださる、という信仰に立って、「そこを占領しましょう。(「主にあって」)必ず打ち勝つことができます」と信仰告白し、勝利宣言をしたのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」(ピリ4:13)。私たちも、見えるものに心奪われず、自らの力に頼らず、全能なる主に拠り頼む者、主の約束のみことばを握って前進する者でありたいと思います。 主が勝利を与えてくださいますように。 |