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◇聖書箇所: 民数記 33章1-40節◇(3月6日) 「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書き記した。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」…民数33:2 33章には、イスラエルの民がエジプトを脱出した後、荒野を旅してカナンの地に入る直前までの、40年間の旅程が記されています。そこには地名が羅列されており、読んだだけではその経路がよくわかりませんが、地図でそれを確認すると(添付参照)、彼らが最短ルートである地中海沿いの道を通らず、迂回してシナイ半島の先端近くまで進んで荒野を旅し続けたこと、そしてそれが苦難に満ちたものであったことが、あらためてわかるのです。モーセは主から命じられ、その旅程における宿営地、つまり出発地点を毎回記録していました。それにより彼は、自分たちが進んでいるおおよその経路を把握し、遠回りをしているということがわかっていました。しかし、ともかくそれが主の導きであることを確信し、アロンとともに不平をもらす民をなだめ、励まし、進んだのです。そのようにその旅程は、主が決められました。主は昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、いつ宿営し、いつ出発し、どこに向かって進むか、民の前を進んで教え、示し、導かれたのです。そして、主の臨在を表すその柱は、民から離れることはなかったのです(出13:21-22)。その主は、今も私たち一人ひとりとともにおられ、この地上の荒野の歩みを導いてくださっています。それは最短コースではなく、大きく迂回することもあります。荒野の連続で、苦しむこともあります。それを人間的に捉えるなら、なぜこんなところを通らねばならないのか…と、不満をぶちまけたくなります。しかしそれは、人の思いを越えた主のご計画の中で、主が私たちの前を進み、守り、照らし、導いておられる旅路なのです。たとえその中で困難にぶつかっても、さまざまな必要が出ても、そのたびに主は不思議な方法をもってそれを解決し、満たし、前に進ませてくださるのです。その主に信頼し、約束の地、天の故郷に向かって歩み続けたいと思います。 主の守りと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 32章20-42節◇(3月5日) 「ガド族とルベン族は答えた。「主があなたのしもべたちに語られたことを、私たちは実行いたします。私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行き、私たちの相続の所有地を、このヨルダンの川向こうとします。」」…民数32:31-32 モーセはヨシュアたちに、ギルアデの地を相続地として求めたガド族とルベン族について、彼らの中の武装した者が残りの部族とともにヨルダンを渡り、主の前に戦ってイスラエルがその地を征服したなら、彼らの望みどおりにせよと命じ、両部族には、もしそうしないなら主の前に罪ある者となるのだと警告しました。すると彼らは、そのことをあらためて了承し、私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます、と答えました。するとモーセは、まだその戦いが終わっていないのに、両部族とマナセの半部族に対し、そのギルアデの地を与えたので(33節)、早速両部族は、そこを城壁のある町々、また羊の囲い場として建て直したのです(34-38節)。なぜモーセは、そのような決断をしたのでしょうか…。それは、彼が「主の前で」、「主の前に」と言って、約束したことを主に対して果たすよう両部族に迫ったのに対し、彼らもまた、「主の前で」、「主の前に」と言って答えたからです。「主の前に」とは、主権者なる主の御手に自分たちのすべてを明け渡すという告白であり、罪を犯すなら主のさばきを受けて当然だという、覚悟をもったことばです。その彼らの決意を聞いたモーセは、主がカナンの地を与えられるという彼自身の信仰により、勝利を先取りしてその決断をしたに違いないのです。イエス・キリストは私たちを罪から救うべく、父なる神にご自身を明け渡され、十字架と復活によりその贖いを成し遂げられました。悪魔との戦いはまだ続いていますが、最終的な勝利はすでに確定しており、そのキリストの主権が、神の国として現れているのです。そして、その神の国の領土は、キリストの勝利の先取りとして、私たちに与えられているのです。そのことを覚え、私たちも、自らの果たすべきことを全うしたいと思います。 主の前に真実に歩む者とされますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 32章1-19節◇(3月4日) 「しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みます。子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。」…民数32:17 ガド族とルベン族は、モーセ、エルアザル、族長たちに一つの申し出をしました。それは、自分たちはヨルダン川を渡ってカナンの地を割当地とせずに、川の東側であるギルアデの地を所有地としてそこに住むようにしたい、ということでした。なぜならそこが、彼らがたくさん所有していた家畜を育てるのに適した地だったからです。それを聞いたモーセは怒り、彼らを厳しく追及しました。40年前の偵察隊のときと同じように、ヨルダン川を渡ろうとしない彼らの行動が民全体の士気を下げることとなり、何よりもそのことで再び主の怒りが燃え上がり、イスラエルの民が滅ぼされてしまうと危惧したからです。すると彼らは言いました。家畜や家族はギルアデの地に置いておくが、自分たち男子は他の部族といっしょにヨルダン川を渡ってカナンの地で先住民と戦うつもりだ…。その軍団の先頭に立って進む決意さえ持っている…。イスラエルが約束の地に入りその地を受け継ぐまでは、家には帰らずその任務をきちんと全うする覚悟だ…と。彼らは身勝手で一致を乱す者たちだったのでしょうか…。もしそうなら、男子たちも先頭に立って戦おうとしなかったでしょう。彼らは自分たちが家畜を非常に多く持っており、ギルアデの地が家畜にとって最適だと判断した上で、部族全体の幸福と繁栄や家族の安全を考え、イスラエルの一員としての自覚をもって主に従い、他の部族と一緒に戦うという意思表示をしたのです。ひるがえって私たちはどうでしょうか…。全体の状況を把握した上での適切な判断ができているか…自分たちに課された任務と役割をきちんと果たそうとしているか…戦いを恐れずその「先頭に立つ」覚悟はできているか…。さまざまなことを彼らのあり方から教えられます。何よりも主に従い通す決意をしっかりと持ちたいと思います。 主の助けと導きがありますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 31章42-54節◇(3月3日) 「それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」…民数31:50 ミディアン人との戦いにおいて軍団の指揮官となった、千人の長、百人の長たちはモーセのところに来て、戦いの後に人員点呼をしたところ、自軍の兵力は戦いによっても一人も失われなかったことを彼に報告しました。そして、戦利品として手に入れた腕輪などの金の飾り物を、主へのささげ物として差し出したのです。それは全部で16,750シェケル、なんと191kgもの大量の金でした。そのささげ物は、主が命じられたものではありませんでした。彼らはあくまで自発的にそれを献げたのです。そこには、敵との戦いにおいて、主の守りと導きにより、戦死者を一人も出さずに勝利できたことへの感謝とともに、主の御旨に反してミデヤン人の男子のみを討ち、残りの者たちを捕虜として家畜とともに持ち帰ったことについて、悔い改める思いがあったに違いありません。彼らの「私たち自身のための」(「私たち自身の贖い」:3版)ということばに、そのことが示唆されているのです。彼らのように主の御旨に従い切れない弱さは、私たちのうちにもあります。そしてキリストがそんな罪深い私たちのために、贖い、宥めとなってくださったので、そしてその贖いは、キリストを信じる者が一人として滅びることがないという完全なものであるので(ヨハ3:16)、私たちもまた、感謝と砕かれた心をもって、主の前にささげ物を献げるのです。献金、賛美、祈り、そして自分自身を主に献げる思いを、強いられてではなく、形式的にでもなく、自ら進んで、喜びをもって献げるのです。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」(詩51:17)。主の恵みとあわれみ、主の贖いのみわざを覚えて感謝を献げ、御旨から外れていたことを認めて主に立ち返り、主に従うことを告白して再献身する…。何よりもそのような砕かれた心を、いけにえとして主に献げたいと思います。 感謝と喜びをもって主に仕えることができますように。 |
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◇聖書箇所: 民数記 31章25-41節◇(3月2日) 「その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。戦に出た戦士たちからは、人、牛、ろば、羊の中からそれぞれ五百のうち一を、主への貢ぎとして徴収せよ。」…民数31:27-28 ミディアン人との戦いで女性たちを生け捕りにして連れ帰った兵士たちにモーセを激怒しましたが(31:14-18)、一方で主は、彼らの働きを認め、その労苦に対して十分な報いを与えられました。分捕りものの半分が、従軍した者たちに分け与えられたのです。32節以降にその家畜や処女の者たちの数が書かれていますが、分捕りものの総数はきわめて多かったため、1万2千人の兵士たちが受け取ったその報いは、十分な量と内容であったのです。さらに主は、戦士たちに、その受け取った報いの中から、500分の1を主への奉納物とするように命じられました。また、分捕りものの半分が分け与えられた会衆に対しても、その50分の1をレビ人に与えるように命じられました。そこには、主がその戦いに勝利を与えられたことを覚えて主に栄光を帰し、戦いの背後でとりなした祭司たちなどのレビ人が報いを受けるという意味があったのです。なぜ500分の1、50分の1なのか、理由は書かれていませんが、おそらくそのように主から命じられなければ、モーセや民は分捕り物を数えることはせず、その正確な数はわからなかったでしょう。数えるという作業を通して、それは主の「恵み」として数値化され、それがいかに大きなものであるかということを、民はあらためて知ることとなったのです。それらの分捕り物は決して少なくありませんでした。モーセや民は、ミディアン人との戦いに主が勝利をもたらされ、分捕り物もすべて主から与えられたものだということを、総数を調べる中で覚え、主をほめたたえ、すべての栄光を主に帰したのです。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。主の恵みを「数える」こと、主に感謝と賛美をささげ、栄光を主に帰すこと…。それは私たちにも求められています。絶えずそのことを行動で現わす者でありたいと思います。 主の祝福が豊かにありますように。 |